第6話 仕事の数字、私の一枚
月曜日の朝。窓の外は分厚い雲に覆われ、どんよりとした灰色の光が部屋の中に差し込んでいる。
高瀬美香は、ダイニングテーブルの上に広げた仕事用のノートパソコンと睨めっこをしていた。始業時間まではまだ三十分ほどあるが、リモートワークの日はいつもこうして早めにダッシュボードを開くのが習慣になっている。
画面には、週末にかけて配信を強化していた複数のクライアントのウェブ広告データが、無機質なグラフと数字の羅列となって表示されていた。
美香の口角が、自然と少しだけ上がる。
先週の金曜日に仮説を立ててクリエイティブを差し替えた美容液のキャンペーンは、見事に数字となって結果を弾き出していた。広告の表示回数に対するクリック率(CTR)は一・二パーセントから一・九パーセントへ跳ね上がり、顧客獲得単価(CPA)は目標値を大きく下回る水準で推移している。
これなら、今日の午後に行われるクライアントとの定例ミーティングでも、堂々と成果を報告できる。
美香は改善前後の数値を報告用のシートへ転記した。この差が、クライアントの売上と自分の評価を支える。
手元のマグカップから冷めかけたコーヒーを啜り、次に数字の悪い画像パターンを停止した。
区切りのいいところでパソコンをスリープ状態にし、美香は週末に出たごみをまとめることにした。
青葉市のA地区に該当するこのマンションは、月曜日と木曜日が可燃ごみの収集日だ。指定袋の口を固く縛り、エレベーターで一階へ降りる。
エントランスの自動ドアを抜けると、梅雨時特有のじっとりとした湿気が全身にまとわりついてきた。
マンションの脇にある集積所には、すでに青いパッカー車が横付けされていた。カラスよけの黄色いネットの下から、生ごみが発酵したようなツンとする酸い臭いが漂ってくる。
美香は少し離れた場所で足を止めた。
集積所では、二人の作業員が黙々と立ち働いていた。そのうちの一人は、先日ギャラリーで見かけた青木修だった。
修は今、ギャラリーでの静かな佇まいとは全く違う、泥臭い現実の中にいた。カラスに突かれて破れたらしいごみ袋から、残飯や茶殻がアスファルトに散乱している。修は嫌な顔ひとつせず、竹ぼうきとちりとりを使って、そのベチャベチャとした汚れを無言でかき集めていた。
額には大粒の汗が浮かび、首に巻いたタオルは汚れで黒ずんでいる。パッカー車の回転板が唸りを上げるたび、生ぬるい悪臭が風に乗って運ばれてくる。
修はごみをかき集めるのに集中しており、美香の存在には気づいていなかった。美香もわざわざ声をかけることはせず、集積所の端に自分のごみ袋をそっと置き、誰とも言葉を交わさずにマンションの中へと引き返した。
背後で、パッカー車が次の集積所へ向けて発進する重いエンジン音が響いた。
エアコンの効いた涼しい自室に戻ると、美香はデスクの上のスマートフォンを手に取った。
画面のロックを解除し、SNSのアプリを開く。親指の腹が、少しだけ湿っていた。
昨日の夜、美香は個人の写真アカウントに一枚の写真を投稿していた。市民ギャラリーから帰ってきた後、カメラロールの奥底から見つけ出した、あの「雨の日の窓辺」の写真だ。
全体的にトーンが暗く、彩度も低い。流行りのカフェスイーツでも、計算された華やかなテーブルフォトでもない。
アプリを開いた瞬間、右下に表示される通知の赤いバッジを見て、美香の心臓が小さく縮んだ。
一晩経っているにもかかわらず、通知の数字は普段の投稿時の十分の一にも満たなかった。「いいね」の数は伸び悩み、インプレッション数のグラフも地を這うように低い。
それだけではない。プロフィール画面を開いて確認すると、フォロワーの数字が昨日から四十二人も減っていた。
『高瀬さんの写真、いつもと雰囲気違いますね。何かあったんですか?』
『なんか病んでる? 大丈夫?』
同業のクリエイターや、長年のフォロワーから、戸惑いを含んだダイレクトメッセージすら数件届いていた。
彼らは美香の「映える」写真を期待してフォローしているのだ。こういう暗くて地味な写真は、彼らにとってノイズでしかない。
明確な損だった。ポートフォリオとしての価値が下がり、仕事につながるかもしれないコネクションを失うかもしれないという、小さな、しかし現実的な恐怖。
(やっぱり、消そうかな)
美香は投稿の右上にあるメニューボタンをタップし、『削除』という赤い文字の上に指を滑らせた。
今すぐこれを消して、ストックしてある華やかな香水の写真をアップし直せば、フォロワーの減少は食い止められる。「ちょっと間違えてアップしちゃった」とでも言い訳をしておけば、またいつも通りの、数字に守られた安全な世界に戻ることができる。
親指が、画面の表面に触れる。
だが、押し込む直前で、指先が止まった。
美香は削除メニューを閉じ、もう一度、その暗い写真を全画面で表示させた。
結露したガラス窓。くすんだ灰色の街並み。
昨日から四十二人減ったフォロワー数が、画面の上に残っている。
それでも。
あの雨の日、部屋に響く静かな雨音を聞きながら、自分がこの暗い影の構図を「好きだ」と思ってシャッターを切ったことだけは、誰にも否定できない事実だった。
修の言葉がよぎる。
『犬の影がよかった。それだけです』
美香は小さく息を吐き、スマートフォンの画面をオフにした。
写真は、消さなかった。
美香は通知を切り、スマートフォンを裏返してデスクの端に置いた。
ノートパソコンの広告管理画面では、目標CPAを超えたセルが赤く点滅している。美香は姿勢を正し、次の画像パターンへ予算を振り直した。
削除しなかった窓辺の写真は、プロフィール画面の下の方で、暗いまま残っていた。
時計が午前九時を回り、美香の仕事の時間が始まった。




