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数字が読めないごみ収集員と、数字で人生を測る人たち ~年収・偏差値・再生数に追われる現代のお仕事群像劇~  作者: 他力本願寺


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第5話 誰も見ていない昼

日曜日。午後二時を回った隣駅の駅前は、家族連れやカップルで適度に賑わっていた。


 高瀬美香は、駅に直結した市民センターの三階にある小さなギャラリーに足を運んでいた。休日にわざわざ隣駅まで来たのは、パソコンの画面に並ぶ広告運用のダッシュボードや、スマートフォンの通知アイコンが示す絶え間ない数字の波から、物理的に距離を置きたかったからかもしれない。


 ギャラリーでは、地元のアマチュア写真サークルによる合同展が開催されていた。入場無料の入り口を抜けると、古びたパーテーションに数十枚の写真が展示されている。


 飾られているのは、老人が丹精込めて育てたであろう盆栽、近所の公園の野良猫、孫の運動会のスナップといった、SNSのタイムラインに流れてくれば一秒も立ち止まらずにスクロールしてしまうような地味な作品ばかりだった。


 美香は腕を組みながら、それらの写真をゆっくりと見て回った。


(この構図なら、被写界深度をもっと浅くして背景をぼかせばいいのに)


(こっちの風景写真は、彩度とコントラストをあと少し上げれば、ぱっと見のインパクトが出て反応率が上がるはずなのに)


 無意識のうちに、目の前の写真をエンゲージメントの数字へ換算している自分がいた。職業病だ。いかに他人の目を引き、指を止めさせ、「いいね」という具体的な数字を稼ぐか。美香にとって写真とはそういうツールであり、それ以外の価値基準でものを見る方法を忘れかけていた。


 小さなため息をついて奥のコーナーへ進んだとき、空調の効いた静かな空間に、見覚えのある広い背中を見つけた。


 青木修だった。昨日の朝、マンションの集積所で美香のごみ袋を受け取った収集員だ。


 着古した紺色のポロシャツに、皺の寄ったチノパンという地味な私服姿。休日のこんな場所で会うとは思っていなかったので、美香は少し驚いて足を止めた。


 修は、一枚のモノクロ写真の前で微動だにせず立ち止まっていた。路地裏の室外機の横で丸まって眠る犬と、強い夏の日差しがアスファルトに落としたくっきりとした影のコントラストを捉えた、なんの変哲もない写真だ。


 美香は少し離れた場所から、修の様子を観察した。


 修は、ポケットからスマートフォンを取り出して写真を撮るわけでもなく、作品のタイトルや撮影者の名前をメモするそぶりもない。ましてや、これをSNSにアップしてどういうキャプションをつけるか悩んでいるはずもない。


 ただ、自分の目だけで、じっと「見ている」のだ。


 美香にとって、他人からの評価や数字に変換されない行動は、ひどく非生産的で無意味なものに思えた。けれど、ただそこに立って一枚の紙を見つめている修の姿には、不思議と焦りのない奇妙な静けさがあった。


 ふいに修が顔を上げ、振り返った。


 美香と目が合う。修は特に驚いた様子もなく、軽く会釈をした。


 昨日の「こっちは好きじゃない」という言葉の不快感を少し引きずっていたが、無視するのも大人気ない気がして、美香はゆっくりと歩み寄った。


「こんにちは。写真、お好きなんですか?」


 当たり障りのない言葉をかけると、修は首を横に振った。


「いや、通りかかっただけです。外が暑かったので、涼んでいこうかと」


 相変わらず、愛想もへったくれもない身も蓋もない返答だった。飾ることを知らないのか、相手にどう思われるかを計算する機能が欠如しているのか。


 美香は苦笑しつつ、修が見ていたモノクロ写真に視線を向けた。


「その写真、どうですか?」


 修はもう一度写真に向き直り、数秒間無言でそれを見つめた。


 素人目にも、技術的に優れているとは言い難い一枚だ。構図のセオリーも無視されている。美香は、修がどういうピントの外れた感想を言うのか、少しだけ試すような気持ちで待った。


「犬の影が、よかったです」


「……え?」


「犬の影がよかった。それだけです」


 修は美香の方を向き直り、淡々と言った。光の捉え方やモノクロームの表現力といった言葉を使うわけでもなく、写真から撮影者の人生を読み取るわけでもない。


「それだけ、ですか?」


「はい。僕は、それがいいなと思いました。お邪魔しました」


 修はそれだけ言い残すと、軽く頭を下げて、あっさりとギャラリーの出口へ向かって歩き出してしまった。


 残された美香は、犬の影の写真を前にして呆然と立ち尽くした。「構図」でも「光」でもなく、犬の影。あまりに短い感想が、美香の胸の奥をざわつかせた。



 同じ日曜日の午後。


 森川湊は、クーラーの効きが悪い自宅アパートのベッドに仰向けに転がりながら、スマートフォンを親指で操作し続けていた。


 画面に表示されているのは、企業の口コミをまとめた転職情報サイトだ。検索窓には、先日スカウトメールを送ってきた資源循環ベンチャーの社名が入っている。


 総合評価スコアは『3・2』。


 森川は画面を下にスクロールし、項目別のレーダーチャートを確認する。「給与・待遇」のスコアは『4・1』と高いが、「ワークライフバランス」や「社員の定着率」のスコアは『2・5』周辺をうろうろしている。


 ページを更新しても、当然ながら数字は変わらない。


 森川はアプリを切り替え、電卓を立ち上げた。スカウトメッセージに提示されていた固定給の額面を入力し、そこから概算の税金や社会保険料を引き、さらに毎月の奨学金返済額と仕送りの三万円を引く。


 残った金額は、今の生活よりはるかに余裕のある数字だった。


 その数字を見つめながら、森川は大きく寝返りを打った。これだけ手取りが増えれば、日々の息苦しさからは解放される。だが、口コミサイトの低いスコアが頭にチラつき、全国転勤や新規開拓営業という見えないプレッシャーが重くのしかかってくる。


 数字の計算をすればするほど、森川は自分が身動きを取れなくなっていくのを感じていた。



 夕方、自室に戻った美香は、ソファに深く腰を沈めていた。


 手元のスマートフォンで、自分のカメラロールを遡る。仕事用に色味を最適化した写真や、SNSのフォロワーからのウケを計算して撮影したカフェのスイーツや小道具の写真が次々とスクロールされていく。


 それらの写真を無表情で見過ごしながら、美香は探していた。


 誰の評価も計算していない、ただ「自分が好きで撮った一枚」を。


 数分間遡り続け、ふと、画面の上で美香の指が止まった。


 それは三ヶ月ほど前、雨の日の休日に、自分の部屋の窓辺を何気なく撮った一枚だった。結露したガラス窓と、その向こうにぼんやりと霞む灰色の街。全体的に暗く、地味で、SNSに投稿しても絶対に「いいね」がつかないと判断して、そのままお蔵入りにしていた写真だ。


 美香はその暗い写真を全画面表示にし、じっと見つめた。


『犬の影がよかった』


 修の平坦な声が耳の奥で蘇る。


 この窓辺の写真は、誰の目にも触れていない。数字を生み出してもいない。それでも、撮ったときの静かな雨の音と、コーヒーの匂いを、美香自身は確かに覚えている。


 美香はスマートフォンを胸の上に伏せ、目を閉じた。


 雨音の記憶だけが、暗くなった画面の裏に残った。

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