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数字が読めないごみ収集員と、数字で人生を測る人たち ~年収・偏差値・再生数に追われる現代のお仕事群像劇~  作者: 他力本願寺


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第4話 数字の出る休日

ノートパソコンの画面いっぱいに広がるダッシュボードには、美しい事実だけが整然と並んでいる。


 木曜日の午前十時。前週の休日出勤の振替で休みを取った高瀬美香は、ベッドの上に胡座をかき、マグカップのコーヒーを啜りながら、担当しているクライアントのウェブ広告の運用データを見つめていた。


 インプレッション数、CTR(クリック率)、CVR(コンバージョン率)。三日前に美香が仮説を立て、クリエイティブの画像とキャッチコピーを微修正したA/Bテストの結果が、はっきりとした折れ線グラフとなって表れている。


 美香が意図した通り、新しい広告パターンのCTRは従来のものを一・五倍も上回っていた。仮説を立て、画像を替え、市場の反応で確かめる。それが、広告会社で働く三十三歳の美香の仕事だった。


 画面の中で右肩上がりに伸びるグラフを見ていると、脳内に静かな快感が広がる。今月の評価面談でも、この結果なら胸を張れる。


 満足のいく結果を確認した美香は、パソコンを閉じて小さく背伸びをした。


 さて、休日のタスクを片付けなければならない。


 部屋の隅には、青半透明の指定ごみ袋が三つ、無骨な塊となって鎮座していた。個人のSNSアカウント用に自宅でテーブルフォトを撮影した際、大量に使った小道具の残骸だ。


 美香にとって、フォロワー数万を抱える個人の写真アカウントは単なる趣味ではない。それは同業者や潜在的なクライアントも見ている、実質的なポートフォリオだ。だからこそ、休日のプライベートな時間であっても、どんな構図が受け、どんな色調が拡散されやすいか、仕事と同じようにエンゲージメントの数字を分析して作品を作っている。結果を出せない写真を載せることは、小さな、しかし確実な職業上の恐怖だった。


 ごみ袋を持ち上げると、見た目以上のずっしりとした重みがあった。


 中には、スプレーで塗装した発泡スチロールのブロックや、背景に使ったアクリル板の破片、百円ショップで大量に買った造花が詰め込まれている。無理やり押し込んだせいか、鋭利なアクリル板の角がビニールを突き破りそうになっており、不用意に掴んだ手のひらに鈍い痛みが走った。


 指先には、接着剤の乾いたようなケミカルな臭いと、造花に溜まっていた埃が張り付く。整然としたデジタルデータの世界から、突然、泥臭くて重い物理の現実へと引きずり下ろされた気分だった。


 袋を引きずるようにしてマンションの一階へ降り、集積所へ向かうと、ちょうど青いパッカー車が到着したところだった。


 車が停まると同時に、生ごみが発酵したようなツンとする臭いと、初夏の湿気を帯びた熱気が美香の鼻を打った。パッカー車の後部では、鈍い機械音とともに回転板が動き、街の生活の残骸を次々と飲み込んでいる。


 二人の作業員が黙々と袋を放り込んでいた。美香は、自分の足元にある小道具の入った袋を見て少し躊躇した。


「あの、すみません」


 若い方の作業員が奥の集積所へ走っていった隙に、残っていた年上の作業員に声をかけた。三十代後半くらいだろうか。がっしりとした体格の、青木修という名札をつけた男だった。


「これ、塗装した発泡スチロールとか、割れたアクリルの破片が入ってるんですけど……燃えるごみで出しても大丈夫ですか?」


 修は作業の手を止め、美香の足元の袋を見下ろした。


 汗と泥が染み込んだ分厚いゴム手袋をはめた手が伸びてきて、袋の外側から軽く押すようにして感触を確かめる。


「アクリル板そのものは不燃の日にお願いしてますけど、このくらいの破片なら、可燃で大丈夫です。発泡スチロールもいけますよ」


 修は事務的に、しかし的確に判断を下し、袋の口を掴んで持ち上げた。


 その瞬間だった。


 美香の結び方が甘かったのか、袋の口が少し緩み、隙間から数枚の光沢紙がアスファルトの上に滑り落ちた。


「あ、すみません!」


 美香は慌ててしゃがみ込んだ。撮影の際、色味を確認するためにテストプリントアウトした写真だった。


 落ちたのは二枚。一枚は、先週SNSに投稿して過去最高の「いいね」とインプレッションを叩き出した、彩度とコントラストが高く、華やかなライティングを施した香水の写真。もう一枚は、美香自身は個人的に気に入っていたものの、全体的に影が濃く地味な印象で、過去のデータから「絶対に反応が取れない」と判断し、結局投稿しなかったボツ写真だった。


 修も屈みかけたが、泥の染みた手袋を見て手を止めた。美香が二枚の写真を拾い上げる。


「綺麗な写真ですね」


 修は、美香の手の中に並んだ二枚を覗き込みながら、ぽつりと言った。


 美香は少しだけ誇らしい気持ちになった。プロとしての計算が詰まった作品だ。素人の目から見ても魅力的に映るのだろう。


 美香は、自分の手の中にある華やかな方の写真を指差した。


「それ、結構評判が良かったんですよ。SNSでも反応がすごくて」


 当然、修もそちらの華やかな写真を褒めてくれるものだと思っていた。「さすがですね」とか「目を引きますね」といった、無難で心地よい言葉を期待していた。


 しかし、修は美香が指差した華やかな写真をじっと見た後、何の悪気もない、平坦なトーンで言った。


「僕は、こっちはあまり好きじゃないです」


「……え?」


 美香の顔から、営業用の愛想笑いがすっと消えた。


 修は美香の感情の変化に気づく様子もなく、もう一枚の、美香が投稿しなかった地味な写真の方をスッと前に出した。


「こっちのほうが、影の感じが好きです。静かで」


 修の言葉には、誰かを批判する意図も、芸術的なマウントを取る意図も全くなかった。ただ自分が「どちらを好きか」という感想を、聞かれてもいないのに口にしただけだった。


 だが、美香の胸の奥で、カチンと硬いものが鳴った。


 好きか嫌いか。そんなものは、個人の身勝手な感想でしかない。プロの世界では、そして何万人もの目に晒されるポートフォリオの世界では、どれだけの数字を獲得できるかが全てだ。「好きじゃない」の一言で、緻密なデータ分析と計算の上に成り立っている自分の労力を全否定されたような不快感があった。


「……そうですか。ありがとうございます」


 美香はひったくるようにして修の手から写真を奪い返した。


 修はそれ以上何も言わず、「じゃあ、持っていきますね」とだけ告げて、美香の小道具が詰まった袋をパッカー車へ放り込んだ。回転板が容赦なく発泡スチロールを噛み砕く音が響く。


 美香は踵を返し、足早にマンションのエントランスへ向かった。


(なんなの、あの人)


 心の中で毒づく。数字が作るシビアな競争も、論理的な努力の価値も知らない作業員。他人の計算し尽くされた仕事に対して、ただの思いつきで「好きじゃない」などと口を出せるのは、彼が数字の厳しさを知らない世界で生きているからだ。


 その日の夜。


 シャワーを浴びて部屋着に着替えた美香は、再びベッドの上でノートパソコンを開いていた。


 メールソフトを受信すると、朝に確認したウェブ広告のクライアントから、担当者名義でメールが入っていた。


『高瀬様。A/Bテストの結果、拝見しました。クリエイティブの変更後、CTRが劇的に改善しており、社内でも高く評価されています。引き続き、この方針で運用をお願いいたします』


 美香は小さく息を吐き、口角を上げた。


 ほら、見なさい。


 美香は誰に言うともなく、心の中で呟いた。


 仕事の成果は、明確な数字となって表れている。私の仮説は正しかったし、私のやり方は間違っていない。美香は改善前後のグラフを保存し、月曜の報告資料へ貼り付けた。


 午前中の、あの集積所での不快なやり取りなど、どうでもよかった。ごみ収集員の思いつきの感想に、心が揺らぐ理由なんて一つもない。


 美香は満足げなため息をつくと、誇りとともにダッシュボードのグラフをもう一度見つめ直した。

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