第3話 増えたら何をする?
水曜日の午前は、可燃ごみの日とは全く違う種類の不快感がつきまとう。
資源ごみの回収。空きビン、空き缶、ペットボトルの類だ。青葉市では、荷台を品目別の金網かごに分けた平ボディ型の専用車で回る。可燃ごみのように圧縮しない分、ビンと缶の擦れる音が絶えず耳についた。
飲み残しのジュースが底で腐敗し、粘ついた茶色い液体となって固まっている缶。タバコの吸い殻がぎっしりと詰め込まれ、灰色の泥水が溜まったペットボトル。それらが袋の中で混ざり合い、初夏の陽射しに熱せられると、鼻を突くような饐えた甘い臭いを放ち始める。
集積所のネットをめくった瞬間、甘い汁の残りに群がっていた小バエが一斉に飛び立ち、森川湊の顔の周りをまとわりついた。
「うわっ……最悪だ」
森川は顔をしかめて手で虫を払いながら、カチャカチャと甲高い音を立てるビンの袋を持ち上げた。重量自体は水を吸った可燃ごみほどではないが、袋が破れて割れたガラスが飛び出してくる危険性があり、神経をすり減らす。
助手席に戻り、次の集積所へ向かう短い移動の間、森川は作業着のポケットから震動したスマートフォンを取り出した。
画面には、登録している転職アプリからのプッシュ通知が表示されていた。
『あなたに特別スカウトが届いています』
ロックを解除して詳細を開くと、資源循環系のシステムを開発しているというベンチャー企業からの法人営業職のオファーだった。
森川の視線は、事業内容のテキストを滑るように読み飛ばし、一番下の「給与条件」の項目に釘付けになった。
固定給が今の委託会社より月額で四万円も高い。さらに、営業成績に応じたインセンティブ――歩合給がつくと書かれている。
(月四万……いや、歩合が乗ればそれ以上か)
頭の中で即座に計算式が組み上がる。大学時代の奨学金の返済に毎月三万。地方で一人暮らしをしている母親への仕送りに三万。現在の森川の手取り額からこれらを差し引くと、生活費は常にギリギリだった。
もしこのスカウトを受けて転職に成功すれば、返済のペースを上げることもできるし、月末にコンビニの弁当の値段を気にして安い方を選ぶような生活から抜け出せるかもしれない。喉から手が出るほど欲しい、現実的で暴力的な魅力を持った数字だった。
「おい、冗談じゃねえぞ」
運転席の田辺健吾が、苛立たしげに舌打ちをした。資源回収車がブレーキを踏んで停車する。
森川が顔を上げると、前方にある集積所の真ん前に、黒いミニバンが堂々と違法駐車されていた。これでは収集車を寄せることもできないし、ごみを積み込むスペースもない。
田辺が短くクラクションを鳴らしたが、周囲のアパートから持ち主が出てくる気配はなかった。
「仕方ねえ。会社に報告して、ここは後回しだ」
田辺は無線機に手を伸ばしながら、助手席の森川に指示を出した。
「森川、あの車のナンバー読め。記録しておく」
「はい。ええと……横浜の300、あ、45の81です」
森川が読み上げると、隣に座っていた青木修が、ぶつぶつと呟き始めた。
「ヨンゴーハチイチ。ヨンゴーハチイチ、ヨンゴーハチイチ」
修は目をつむり、森川が読み上げた四桁の数字を三回声に出して復唱した。
修は、意味を持たない数字の羅列を視覚から正確に読み取るのが著しく苦手だ。「4581」というプレートの文字を見ただけでは、「4851」だったか「5418」だったか、脳内で順序が入れ替わってしまう。だからこそ、こうして他人に読み上げてもらい、音のリズムとして耳から入力することで記憶を固定しているのだ。
「よし、覚えました」
修がゆっくりと目を開けて頷く。
「おう。じゃあ次行くぞ」
田辺は無線で配車係に状況とナンバーを伝え、資源回収車をバックさせた。
森川は、修が復唱を終えて目を開くまで待つ田辺を見ながら、ポケットの中のスマホの重みを意識していた。
昼前、処理施設への搬入を終えた班は、プレハブの休憩所に集まっていた。
パイプ椅子に座ってコンビニの鮭弁当をつついていた森川の向かいで、別班の作業員である西原真紀が、ボールペンを片手に書類と睨めっこをしていた。四十一歳の彼女は、男ばかりの職場でも全く物怖じしない、明るく現実的な性格だ。
「西原さん、それなんですか?」
森川が尋ねると、西原は顔を上げずに「ん?」と応じた。
「ああ、これ。会社の中型免許取得の補助申請。うちの会社、教習所の費用の七割出してくれる制度あるでしょ。それ申し込もうと思って」
「運転手になるんですか?」
「なれるならね。補助運転手で登録されれば、毎月の手当が結構つくのよ。計算したら、自腹切る分の三割なんて半年もあれば元が取れちゃう。教習所通うのは面倒くさいけど、絶対得でしょ、これ」
西原はあっけらかんと言い放ち、申請書の最後にハンコを押した。
彼女は自分の生活を少しでも良くするために、数字上の得を真っ当に計算し、そのための行動を普通に起こしている。森川には、西原のその割り切った強さが少し眩しく見えた。
「あ、そうだ。映画と言えば」
隣で弁当の魚を綺麗に骨だけ残して食べていた修が、ふと思い出したように口を開いた。
「昨日観たやつ、面白かったんです。主人公が免許を取る話で」
「あー、青木くん」
西原が、申請書をクリアファイルにしまいながら手のひらを向けた。
「その映画の話、どうせまた三十分くらいかかるでしょ。休憩終わっちゃうから、帰りの車で田辺さんに聞かせてあげて」
「……はい」
修は少しだけ残念そうに引き下がり、残っていた卵焼きを口に放り込んだ。
そのマイペースなやり取りを見ながら、森川の頭の中には再びスカウトの数字が浮上してきていた。西原のように、自分も合理的な選択をすべきなのだ。
午後の部が始まり、大きな団地の集積所で作業をしている最中だった。
森川は黙々と空き缶を品目別の金網かごへ入れながら、スカウトの条件について考え続けていた。
固定給の大幅なアップ。しかし、詳細な募集要項を思い返すと、引っかかる部分もあった。勤務地は「全国の主要都市(転勤の可能性あり)」。業務内容は「新規法人の開拓営業中心」。
ノルマがあるのだろうか。見知らぬ土地へ飛ばされて、飛び込み営業をするのか。
不安はあったが、それでもあの給与額は全てをねじ伏せるだけの力を持っていた。金がなければ、結局は何も守れないのだ。
ふと横を見ると、修が資源の袋に紛れ込んでいたペットボトルのラベルを、無言で丁寧に剥がして分別し直していた。三十八歳。手当のつく運転手になるでもなく、ただ毎日同じようにごみを拾い、終われば映画館や古本屋へ行く日々。
森川の中で、焦燥感と、自分より下の存在であってほしいという苛立ちが混ざり合い、つい口を突いて出ていた。
「青木さんは、それでいいかもしれないですけど」
修の手が止まり、振り返った。
「僕には、返す金があるんです」
森川の声は、自分でも驚くほどトゲを含んでいた。
「奨学金も残ってるし、親への仕送りだってある。今の給料のままずっとこの仕事を続けるなんて、無理なんですよ。給料が上がるなら、新規の営業でも全国転勤でも、どこへでも行かないと駄目なんです」
言い終えてから、しまったと思った。修に対してぶつけるような話ではない。八つ当たりだ。
だが、修は怒ることも、森川の考えを浅ましいと否定することもしなかった。
手元のラベルをゴミ袋に捨てると、修は小さく頷いた。
「そうですね。返すお金があるのは、大変です」
同情でも見下すような響きでもない。ただ、「雨が降ると濡れる」という事実を肯定するような、平坦な声だった。
森川が毒気を抜かれて立ち尽くしていると、修は首を傾げて純粋な疑問を口にした。
「その会社って、何を売るんですか?」
「え……?」
「新規って、どこを回るんですか?」
森川の喉が詰まった。
「それは……営業で、その、資源をリサイクルするシステムを売るというか……」
しどろもどろになりながら、森川は自分がその会社の具体的な事業内容や、一日の業務の流れを全く想像できていないことに気づいた。見ていたのは、月給の欄と、自分の返済予定額の数字だけだった。
その日の終業後、ロッカールームの片隅で、森川はスマートフォンを取り出した。
メモアプリを開き、新しいページを作る。
『転職条件』というタイトルの下に、「給与額」「インセンティブ」「全国転勤の有無」と打ち込んでいく。
そして一番最後に、「仕事内容」という項目を追加した。
カーソルが点滅している。そこにどんな言葉を書き込めばいいのか、今の森川には分からなかった。
森川は転職アプリに切り替え、スカウトメッセージの画面を開いた。画面の下には『応募する』という赤いボタンが光っている。
親指を浮かせたまま数秒間迷い、結局、森川はアプリをそっと閉じた。応募は保留したまま、スマホをポケットに滑り込ませる。
外に出ると、初夏の生ぬるい風が吹いていた。




