第2話 仕事が終わったあと
朝から降り続く雨は、午後になっても止む気配がなかった。
火曜日のB地区。商店街と古い集合住宅が密集するこのエリアは、晴れている日でも交通量が多くて気を遣う。ましてや今日のような本降りの雨となれば、現場の過酷さは跳ね上がった。
集積所に積まれた青半透明の指定ごみ袋は、どれも雨水をたっぷりと吸い込み、通常の1.5倍ほどの重さに化けている。森川湊が両手で袋を持ち上げようとすると、結び目の下のビニールがみしりと嫌な音を立てて白く細く伸びた。中に詰め込まれた生ごみが水分を含んで偏り、重心が安定しない。
パッカー車の後部に袋を投げ入れるたび、跳ね返った泥水が合羽の裾を汚した。厚手のゴム手袋の中は、外からの雨水と自分の汗が混ざり合ってぐしょぐしょになっており、指を動かすたびに気持ちの悪い摩擦を感じる。合羽の内側には生ぬるい湿気がこもり、呼吸をするだけで体力が削り取られていくようだった。
「森川くん、無理に二つ持たなくていいよ。滑るから」
隣で作業をしていた青木修が、淡々とした声で言った。
修は背丈こそ森川より低いが、肩幅のある体をうまく使い、膝のクッションを利用してリズミカルに重い袋を車へと放り込んでいる。その横顔には、疲労や苛立ちといった感情がほとんど浮かんでいない。
森川は無言で頷きながら、内心で舌打ちをした。
前日の昼休み。森川は修に対して、転職アプリの『市場価値診断』の画面を見せた。四百五十万円。自分にはもっと高い価値があり、いつまでもこの仕事にしがみついているつもりはないのだと、暗に誇示するつもりだった。
しかし修は、その数字に驚くでもなく、「どんな仕事の求人が出るんです?」と聞き返してきた。
その問いへの答えを持っていなかった森川は、ひどく惨めな思いをした。だが、一晩寝て冷静になれば、腹の底からじわじわと反発心が湧いてきた。
求人の中身なんて、あとで見ればいい。重要なのは、自分がこんな雨の中で他人のごみの汁を浴びて一生を終えるような人間ではないと証明することだ。そう考えても、昨日答えられなかった会社名が頭に引っかかっていた。
森川はわざと荒っぽい動作で、残りの袋をパッカー車に押し込んだ。
昼前、商店街を抜けた先にあるアパートの集積所で、トラブルが起きた。
森川たちがごみを積み込んでいる最中、アパートの二階からジャージ姿の中年男性が急ぎ足で降りてきた。片手には、青葉市の指定袋ではない、スーパーのレジ袋に無造作に詰め込まれたごみがぶら下がっている。
「あ、お兄さんたち、ちょっと待って! これもお願い」
男性が差し出したレジ袋を、修が受け取ろうと手を伸ばした。しかし、袋の半透明な表面から中身が透けて見えた瞬間、修の動きがピタリと止まった。
中には、生ごみやティッシュのほかに、洗剤の空きボトルや食品のプラスチックトレイが大量に混ざっていた。指定袋でないうえ、青葉市のルールでは、プラスチック類は今日の可燃ごみとは別の日に出すことになっている。
「これ、今日は持っていけません」
修は、レジ袋に触れることなく、男性の顔を見て言った。
「は? なんでだよ。燃えるごみだろ?」
「指定袋じゃないです。あと、プラも混ざってます。指定袋に入れ直して、プラは分けて次回出してください」
感情の起伏が全くない、機械のようなトーンだった。申し訳なさそうな態度も、言葉を濁すような気遣いも一切ない。ただ「ルールである」という事実だけを真っ直ぐに突きつけた。
男性の顔に、みるみるうちに怒りの色が浮かんだ。
「お前、なんだその言い草は! ちょっとくらい中身が混ざってたって、燃やせば同じだろうが。こっちは税金払ってんだぞ!」
「税金の話じゃなくて、収集のルールの話です。置いていきますから」
「ふざけんな! 名前教えろ!」
男性が修の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで一歩踏み出したとき、運転席のドアがバンと音を立てて開いた。
「お客さん、申し訳ありません!」
班長の田辺健吾が、雨の中に飛び出してきた。田辺は修の前にスッと立ち塞がると、男性に向かって深く頭を下げた。
「うちの若いのが気の利かない言い方をして、本当に申し訳ない。ただ、可燃ごみは指定袋で出していただく決まりで、プラが混ざっていると処理施設で弾かれてしまうんです。ご面倒をおかけしますが、指定袋に入れ直して、プラスチックは次回の回収日に分けて出していただけないでしょうか。本当にお願いします」
田辺の低姿勢で理路整然とした説明と、堂々とした体格に気圧されたのか、男性は「……チッ、次から気をつけるよ」と毒づきながらレジ袋を引っ込めた。
男性がアパートの階段を戻っていくのを見届けた後、田辺は振り返って修をきつとにらみつけた。
「青木。お前な、言い方ってもんがあるだろうが」
「すみません」
「『市の紙に書いてある』だぁ? そんな正論だけぶつけて現場が回るか。相手の顔を見て、角が立たねえように断るのも俺たちの仕事のうちだぞ」
「はい。気をつけます。すみませんでした」
修は合羽のフードから雨だれを落としながら、静かに頭を下げた。
森川は助手席に乗り込みながら、少しだけ胸がすくような思いだった。やはり修は、仕事ができる完璧な人間などではない。コミュニケーション能力に欠け、住民を怒らせ、班長に頭を下げさせる不器用な男だ。市場価値を測るまでもない。
車内に戻ると、田辺は大きく息を吐き、ダッシュボードの温度計と手元のデジタル時計を交互に見た。それから、スマートフォンを取り出して画面をタップした。
「現在時刻、十一時十分。予定より十五分遅れだ。雨で積込に時間がかかってる」
田辺はワイパーの速度を一段階上げながら、森川と修に声を張った。
「いいか。気温は二十二度だが、湿度が九十パーセントある。熱中症指数、WBGTは二十六。今は『警戒』レベルだが、合羽着て動いてると体感はもっと高い。森川、次の自販機で必ずスポーツドリンクを買え。青木、お前もだ」
「はい」
「喉が渇いてなくても、時計で区切って飲め。倒れてからじゃ遅いんだ」
田辺は休憩を取る予定時刻を手帳に書き込み、二人の水筒の残量まで確認した。森川は、今朝から何度も同じ時刻を聞かされていることに気づいた。
午後の部も雨は降り続き、全ての収集ルートを終えて処理施設から会社に戻ってきたのは、午後四時を回っていた。
最後に待っているのが、洗車作業だ。
高圧洗浄機のノズルを握り、パッカー車の後部にこびりついた泥と生ごみの汁を吹き飛ばしていく。跳ね返った冷たい水飛沫が顔を濡らし、長靴の中にまで水が浸み込んできて、靴下がじっとりと冷たくなった。
一日中嗅ぎ続けたごみの臭いが鼻の奥にこびりついており、昼休みに食べたコンビニ弁当の味がどんなだったか、森川はもう思い出せなかった。
(早く帰りたい。シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込みたい)
森川の頭の中にはそれしかなかった。向上心だの市場価値だのといった言葉は、疲労の前に霞んで消えかけていた。
ふと横を見ると、修が黙々と洗浄機のホースを巻き取っていた。修は自分の担当箇所が終わっても、決して先に帰ろうとはしない。田辺が運転席のマットを洗い終わるのを手伝い、明日の可燃ごみ用のネットを畳んで定位置に補充するまで、班全体の作業の一部として淡々と動き続けている。
「青木、終わったぞ。着替えるぞ」
田辺の声がかかって、ようやく修は「お疲れ様でした」と口を開いた。
ロッカールームは、汗と雨水と制汗スプレーが混ざった独特の匂いが充満していた。
濡れた作業着を脱ぎ、私服に着替えている最中、森川は修が開けたロッカーの中身に目を留めた。リュックサックの隙間から、見慣れない紙の束が見えたのだ。
「青木さん、それ、映画のパンフですか?」
「あ、はい」
修はリュックからそれを取り出した。単館系の映画館で上映されている、ヨーロッパの古い映画のパンフレットだった。
「これから行くんですか? こんなに疲れてるのに」
「ええ。夕方の回に間に合うので」
修は事も無げに答えた。
森川は少し混乱した。修は、仕事が終わればすぐに帰って寝るだけの、無気力な人間だと思っていた。あるいは、パチンコや安い居酒屋で時間を潰すような、典型的なブルーカラーのステレオタイプ。
しかし、修は過酷な労働をこなし、班の作業を最後まで手伝った上で、自分の見たい映画のために時間を使おうとしている。それは「人生を諦めている」のとは少し違う気がした。
森川は、脱いだ長靴をロッカーの底に押し込みながら、どうしても聞いておきたかった疑問を口にした。
「青木さんって……」
「はい?」
「将来不安とか、ないんですか?」
三十八歳。手取りは決して多くないはずだ。数字が読みにくいというハンデがあり、住民対応も下手で出世も見込めない。そんな状況で、このまま一生この仕事を続けていくことへの絶望や焦りがないはずがない。森川は、修の口から何らかの後悔や、あるいは達観した哲学的な答えが返ってくることを期待していた。
修はリュックのジッパーをゆっくりと引き上げ、ロッカーの扉を閉めた。
それから、自分の腰のあたりを手のひらで軽くトントンと叩いた。
「ありますよ。腰とか」
「え?」
「腰を痛めたら、この仕事続けられなくなりますから。それが一番不安ですね」
修の目は真剣だった。比喩でも何でもなく、文字通りの物理的な不安を語っていた。
年収が上がらないことでも、社会的ステータスが低いことでもなく、自分の身体が壊れて日々の生活が立ち行かなくなることへの恐怖。
「……いや、そういうことじゃなくて」
「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」
森川が言葉を継ぐ前に、修は軽く頭を下げてロッカールームを出て行ってしまった。
残された森川は、ベンチに座ったまま、どうにも噛み合わない会話の余韻の中で呆然としていた。閉じられたロッカーの向こうから、修の足音だけが遠ざかっていった。
森川は小さく息を吐き、濡れた前髪を無造作に掻き上げた。




