第1話 三十八歳で、この仕事
未明まで降り続いた雨のせいで、青葉市の空気は水を含んだスポンジのように重かった。
初夏が近づくこの時期、雨上がりの朝は気温が上がるにつれて独特の臭気を孕むようになる。森川湊は厚手のゴム手袋をはめた両手を軽く握り込みながら、目の前に積まれた指定ごみ袋の山を見下ろした。
入社してまだ二ヶ月。二十四歳の森川にとって、この仕事の身体的な負担は想像以上だった。指定ごみ袋は雨水を吸って本来の重量よりもずっと重くなり、持ち上げようとするとビニールがみしりと嫌な音を立てて伸びる。袋の底からは茶色く濁った生ごみの汁がアスファルトに滲み出し、手袋の中はすでに自分の汗で不快に蒸れていた。
背後で、パッカー車の回転板が鈍い圧縮音を立てている。
「森川くん、ちょっと待って」
両手で一気に二つの袋を掴み、車の後部へ放り込もうとした森川の手を、真横から伸びてきた分厚い手が制した。
先輩作業員の青木修だった。三十八歳。この民間委託会社で十一年もごみ収集を続けている男だ。
修は森川の手から右側の袋を静かに受け取ると、その外側を指先でなぞるように触れた。中を開けるわけではない。ただ、袋の下部に偏った不自然な重さと、ビニール越しに伝わる角ばった感触、そして持ち上げた時に微かに鳴ったカチャリという金属音を確認しているようだった。
「これ、残します。スプレー缶か、割れたガラスが混ざってるかもしれないから」
修は迷うことなく、作業着のポケットから赤い『残置札』を取り出し、手早く袋の結び目に巻き付けた。
「え、でも、触っただけで分かるんですか?」
「いや、分からないですよ」
修は淡々と答えた。
「分からないから、危ないんです。迷ったら止める。そう教わらなかったですか」
正論だった。森川は小さく頷いて、残りの袋を慎重にパッカー車へ投げ入れた。
防水の安全靴の底が濡れたアスファルトを擦る。運転席横の二人掛けベンチシート、その中央側に乗り込むと、森川は大きく息を吐いた。
奨学金の返済。地方で暮らす母親への仕送り。森川の銀行口座から毎月引き落とされる金額は、決して少なくない。給料日の翌日に六万円が消えるたび、一日も早く年収を上げなければという焦りが強くなった。
雨の日に他人のごみの汁を浴びる仕事を、修は十一年も続けている。森川には、それが将来を諦めた人の選択に見えた。そう決めつけておけば、自分がここで立ち止まっていないことだけは信じられた。
「次、どこだっけ」
運転席でハンドルを握る田辺健吾が、フロントガラス越しに前方を見ながら聞いた。四十五歳の班長である田辺は、現場経験二十年のベテランだ。
森川は膝の上に広げたバインダーの担当表に目を落とした。
「ええと、次は……青葉台四丁目の二の十五、ですね。そこから二の十八、二の二十と回ります」
「青木、お前、ルート分かるか」
田辺が窓側の修に声をかける。修は少しだけ眉を寄せた。
「森川くん、ごめん。数字、一回ずつ言ってくれないかな」
「一回ずつ、ですか?」
「うん。ヨン、ニ、イチゴ、みたいな感じで」
森川は一瞬、きょとんとした。修は文字を読むことや日常会話には何の問題もない。しかし、三桁以上の数字の羅列や、番地のような連続した数字を視覚的に読み取って意味に変換することに、極端な困難を抱えている。入社直後に田辺から「青木は数字が苦手だから、読み上げてやってくれ」と聞かされてはいたが、実際に直面するとやはり異様だった。
「四、二、十五、です。次が、四、二、十八」
「ありがとう。ああ、あそこの坂の下だ」
修は納得したように頷くと、田辺に向かって指を差した。
「田辺さん、次の信号を右です。三つ目の交差点の角にタバコ屋があるんで、その手前の電柱のところ。その次は、タバコ屋を過ぎて青いアパートの脇です」
修の頭の中には、数字ではなく風景のランドマークで完璧なルートが構築されているらしかった。
パッカー車が指示通りの場所に停車する。森川はバインダーを置き、修に続いて外へ出た。
しかし、現場での修の動きは、新人である森川にとって親切なものとは言い難かった。
修は無言で素早くネットをめくり、適切なごみ袋だけを次々と車に放り込んでいく。森川が手を出そうとする前に、すでに集積所の半分が片付いていた。
「おい、青木!」
運転席から降りてきた田辺が、鋭い声を上げた。
「お前、早すぎるんだよ。森川がついてこれてねえだろうが」
「あ……すみません」
修は手を止め、振り向いた。
「お前が風景で覚えるのは勝手だがな、こいつは新人だ。どこに何が置いてあるか、ちゃんと声に出して確認させないと事故るぞ。背中側は車道なんだからな」
「はい。すみません、飛ばしすぎました」
修はあっさりと自分の非を認め、頭を下げた。説明が下手で、後輩への声かけを忘れ、班長に叱られる。その事実に、森川は少しだけ溜飲が下がるのを感じた。
午前中の収集は、肉体と神経を同時にすり減らす作業の連続だった。
商店街の裏手にある集積所では、車道側に立って袋を積み込むことになった。背後を乗用車が容赦ない速度で通り抜けていく恐怖。田辺が「車来るぞ、止まれ!」と叫ぶたびに、森川は作業を中断して壁際に身を寄せた。
カラスに無惨に破られた袋から散乱した生ごみを、ほうきとちりとりでかき集める。使い古された防鳥ネットを畳み直すとき、手にこびりつく強烈な悪臭。
通りすがりの老女から「いつもご苦労様ね」と声をかけられることもあれば、出勤前のスーツ姿の男に「邪魔なんだよ、早く持っていけよ」と舌打ちされることもあった。その全てを飲み込みながら、街のごみを消していく。
昼前、パッカー車が処理施設への搬入を終え、一時的に市の委託業者が集まる休憩所に立ち寄った。
森川が自動販売機で冷たい缶コーヒーを買っていると、掲示板の前に立っていた田辺が舌打ちをした。
「また面倒なことになりそうだな」
森川が近づくと、そこには『秋季より、新デジタル安全端末の試験運用を開始します』と書かれた貼り紙があった。
「番号入力が増えるのかよ。時刻と件数と、あとは熱中症指数の確認と……今でも手一杯なのに」
田辺は胸ポケットから手帳を取り出し、今日の午前の収集件数と搬入時刻をきっちりと書き込んでいた。田辺は数字を嫌っているわけではない。むしろ、事故記録や時間を厳密に管理することで、現場の安全を守る道具として使いこなしている。
「青木、お前も今のうちに端末の案内に目を通しとけよ」
「はい。後で森川くんに読んでもらいます」
ベンチでお茶を飲んでいた修が、平然と答えた。森川は小さくため息をついた。
午後の部が始まってすぐの住宅地で、そのミスは起きた。
少しでも早く作業を終わらせたいと焦っていた森川は、集積所の奥にあった新聞紙でくるまれた細長い包みを、可燃ごみの袋と一緒に掴み上げた。軽い。そのままパッカー車の回転板へ放り込もうとした。
「待て!」
修の声が響き、同時にパッカー車の緊急停止ボタンが叩き込まれた。
ガツン、と鈍い音を立てて機械が止まる。
「えっ」
「それ、中身見て」
修に促され、森川は新聞紙の隙間から中を覗き込んだ。透明なビニールの奥に見えたのは、半分使いかけのガススプレー缶だった。もし回転板に巻き込まれていたら、火災を引き起こしていた可能性が高い。
「うわ……すみません」
背筋に冷たい汗が流れた。
だが、怒声は修ではなく、運転席から身を乗り出した田辺から飛んできた。
「森川、焦るな! そして青木!」
「はい」
「お前がちゃんと新聞紙の包みの持ち方、確認の仕方を教えないからだろうが。お前が止めたのは偉いが、教え方が悪い」
「すみません。見落とす形でした」
修はただ事務的に、自分の指導不足を認めて謝った。森川はひどく中途半端な居心地の悪さを感じていた。命拾いをした感謝と、自分だけの失敗にしてくれなかったことへの反発が混ざり合っていた。
全てのルートを終え、会社に戻って洗車を済ませた頃には、夕方が近づいていた。
休憩スペースの長机で、森川はスマートフォンを取り出した。画面には、最近登録した転職アプリが開かれている。
ここ数日、彼は休憩のたびに『市場価値診断』という機能を試していた。年齢、学歴、短い職歴、そして希望する条件を入力すると、AIが想定年収を算出してくれるというものだ。
「四百五十万……」
画面に表示された数字を見て、森川は小さく呟いた。今の給料よりもずっと高い。自分にはもっとふさわしい場所があるはずだ。
向かいの席に、着替えを終えた修が座った。手には古い文庫本を持っている。
「青木さん」
森川は、半ば衝動的にスマホの画面を修に向けた。
「これ、知ってます? 市場価値診断って言うんですけど。僕の今の想定年収、これくらいらしいんです」
修は画面に目を向けたが、すぐに困ったような顔をして首を傾げた。
「ごめん。やっぱり数字が並んでると、パッとは読めないんだ。いくらって書いてあるの?」
「あ……」
森川は優越感に似た何かを感じながら、はっきりと口にした。
「四百五十万円です。今の僕の市場価値」
どうだ、と内心で胸を張った。修が気にもしていないように見える基準を、目の前へ突きつけたつもりだった。
修は「へえ」とだけ言い、文庫本を机に置いた。それから、少しだけ首を傾げて森川の顔を見た。
「それで、どんな仕事の求人が出るんです?」
静かな、全く悪意のない声だった。
「えっ?」
「今の仕事とは違うんですよね。どんな会社ですか?」
森川の喉が張り付いた。
診断結果の下には、いくつもの求人が並んでいた。だが、森川が見比べたのは給与欄ばかりで、会社名も仕事内容もほとんど覚えていなかった。
答えることができず沈黙する森川を前に、修はそれ以上追及しなかった。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
修は立ち上がり、リュックを背負うと、そのまま休憩室を出て行った。
残された森川の手の中で、スマホの画面だけが明るく光り続けていた。画面の中の四百五十万という数字が、急にただの記号のように冷たく見えた。




