第10話 条件のいい人
スマートフォンの画面には、小松菜摘が設定した細かな検索フィルターの項目がずらりと並んでいる。
『年齢:二十八歳〜三十五歳』
『年収:六百万円以上』
『学歴:大卒以上』
『タバコ:吸わない』
『同居人:なし(次男以降希望)』
項目の一つひとつにチェックを入れるたび、画面に表示される男性の数は減っていく。二十九歳の菜摘は、最後に「年収六百万円以上」を選び、残った人数を確認した。
二十代半ばの頃、菜摘は「夢を追うフリーランス」のカメラマンと同棲していた。彼の才能を信じ、不安定な収入を補うために、菜摘は自分の給料の大部分を生活費や彼の機材代に注ぎ込んだ。愛があれば乗り越えられると思っていた時期もあったが、現実はただ菜摘の口座残高と精神を削り取っていくだけだった。三年後に彼が浮気をして出て行ったとき、菜摘の手元には貯金の底をついた通帳と、ひどい人間不信だけが残された。
もう二度と、あんな思いはごめんだ。
結婚相手を探すなら、まずは絶対に「数字で測れる条件」をクリアしている人間でなければならない。年収や雇用形態は、その人の生活能力そのものだ。条件で相手を絞り込むことを「計算高い」と嗤う人間がいるなら、一度あの地獄のような同棲生活を経験してみればいい。
菜摘はベッドの上で大きく背伸びをすると、アプリを閉じて立ち上がった。
今日は火曜日。B地区の可燃ごみの収集日だ。
菜摘は週末の間に、部屋の奥のクローゼットに押し込んだままにしていた、元恋人の残骸をようやく整理した。彼が置いていった古いクッション、趣味の悪い小さな雑貨、着古したTシャツ。それらをまとめて青葉市の指定袋に詰め込むと、全部で三袋になった。
引っ越しの際に大量のごみが出る場合は事前の予約が必要だが、この程度の量であれば、通常の曜日の回収区分で出せるはずだ。
菜摘は両手に重いごみ袋を提げ、足で玄関のドアを押し開けた。
マンションの一階にある集積所まで降りると、ちょうど青いパッカー車がハザードランプを点滅させて停まるところだった。
夏の終わりの生温かい風に、パッカー車の回転板が立てる低い機械音と、かすかに発酵したような生ごみの臭いが混ざって漂ってくる。
集積所の前では、二人の作業員が黙々とごみ袋を車へ投げ込んでいた。一人は若い男、もう一人はがっしりとした体格の、三十代後半くらいの男だった。彼らの首に巻かれたタオルは汗と埃で変色し、厚手のゴム手袋はさまざまなごみの汁で黒ずんでいる。
菜摘は、回収が終わってしまう前にと慌てて小走りで近づき、重い袋を集積所のネットの端にドスッと置いた。古いクッションが水を吸っていたのか、思った以上に重く、持ち手のビニールが限界まで引き伸ばされて指に食い込んでいた。
「あ、すみません。これ、燃えるごみで大丈夫ですか?」
菜摘が声をかけると、年上の作業員――胸元の名札には『青木』とあった――が振り返り、菜摘の足元の袋を見た。
青木はゴム手袋で袋の外側から軽く感触を確かめると、短く頷いた。
「はい。中身は布とプラの小物みたいなので、可燃でいけます」
「よかったです。ちょっと量が多くなっちゃって」
「規定の範囲内ですから、平気ですよ」
青木はそう言って、菜摘の二つ目の袋をひょいと持ち上げた。
その瞬間、菜摘の手から滑り落ちたスマートフォンが、アスファルトの上にカチャリと音を立てて落ちた。ごみ袋の重さで指先が痺れており、握力が抜けかけていたのだ。
「あっ」
画面はロックされておらず、直前まで見ていた婚活アプリの検索結果が明るく表示されたままになっていた。年収や学歴の数字が並んだ、あの一覧画面だ。
しゃがみ込もうとした菜摘より早く、青木がスッと身をかがめてスマートフォンを拾い上げた。
「落としましたよ」
青木が画面を表にして菜摘に差し出した。その視線が、一瞬だけ明るい画面に向けられた。
青木の視線が、「六〇〇万」や「二八〜三五」といった数字の間を行き来した。だが、すぐに困ったように眉を寄せ、画面から目を離した。
「すみません。数字が多くて、どの人の画面なのか分かりませんでした」
平坦で、他意のない声だった。
しかし、その言葉は菜摘の心の一番柔らかくて痛い部分を、土足で踏みにじった。
どの人か分からない? 当然だ。まずは条件でフィルターをかけなければ、どんな地雷が混ざっているか分からないからだ。痛い目を見たこともない人間に、必死で選んだ条件を笑われたように感じた。
カチンときて、菜摘は青木の手からスマートフォンをひったくるように奪い取った。
「……あなたには関係ないですよね」
氷のように冷たい声が出た。
青木はハッとしたように菜摘の顔を見た。そして、何か人生の真理を諭すような真似は一切せず、すぐに頭を下げた。
「すみません。嫌な言い方でした」
青木は言い訳をしなかった。ただ純粋に、自分の言葉の選び方が悪かったこと、相手を不快にさせたことを認めて謝った。
だが、菜摘の苛立ちはその素直な謝罪で収まるようなものではなかった。
「もういいです」
菜摘は最後の袋を乱暴に集積所へ置き、振り返ることなくマンションのエントランスへと向かって歩き出した。背後で、回転板がクッションを無残に押し潰す音が聞こえた。
その日の昼休み。
菜摘は職場のエアコンが効いた休憩室で、冷やし中華をつつきながら、向かいに座る同僚の理恵に今朝の出来事を愚痴っていた。理恵は二つ年上で、三年前に結婚している。
「ほんと、腹が立って。ごみ出しに行っただけなのに、画面見られた上に『どの人の画面か分からない』なんて言われちゃって」
「うわ、なにそれ。災難だったね」
理恵は相槌を打ちながら、ペットボトルのお茶を飲んだ。
「でしょ? こっちは遊びで相手探してるわけじゃないのに。条件見ないで結婚して、苦労してる人なんて山ほどいるじゃないですか」
「まあねえ。菜摘ちゃんは前の彼氏で苦労したから、慎重になるのも分かるよ」
理恵は少しだけ同情的な顔をしてから、ふと、軽い口調で付け足した。
「でもさ、確かにそのごみ収集の人の言うことも、一理あるかもよ?」
「え?」
「だって、年収とか学歴ばっかり見てても、結局会ってみなきゃどんな人か分かんないじゃない。いっそ一回、そういう条件とか全部捨てて会ってみたら? 意外といい人がいるかもしれないよ」
既婚者の余裕から来る、無責任で軽いアドバイスだった。
菜摘は、箸を持った手をピタリと止めた。
条件を捨てる。そんなことができるわけがない。条件を捨てて、「夢」や「性格」だけで男を選んで痛い目を見たのは、他の誰でもない菜摘自身だ。
あの収集員も、理恵も、誰も私の将来の生活を保証してなんかくれない。無責任な外野だから、そんな綺麗事が言えるのだ。
「……私は、条件は絶対に必要だと思います」
菜摘は冷めた声で返し、残りの冷やし中華を無理やり口に押し込んだ。
午後一時のチャイムが鳴る直前、菜摘はスマートフォンを開き、再び婚活アプリを立ち上げた。検索フィルターのチェックボックスは、今朝と何一つ変わっていない。
菜摘は「年収六百万円以上」という数字の並びをじっと見つめながら、画面をスクロールし続けた。




