第11話 条件にないところ
駅前の少し高めのカフェで、アイスティーのグラスの表面についた水滴が、コースターへゆっくりと滑り落ちていく。
小松菜摘は、口角にきっちりと三ミリの笑みを貼り付けたまま、目の前に座る男の話に小さく相槌を打っていた。
「だから、今のプロジェクトが成功すれば、僕のボーナスの査定も二段階は跳ね上がる予定なんですよ。まあ、その分責任も重いですけどね。あ、そういえば先日話したインデックス投資のポートフォリオなんですけど――」
男は、アイスコーヒーの氷をカラカラと鳴らしながら、自分の優秀さを示す数字を嬉々として並べ立てている。
年齢三十二歳、大卒、一部上場企業勤務、年収六百五十万円。次男であり、非喫煙者。
菜摘が婚活アプリで設定した検索フィルターを、全項目で通過した男だった。マッチングが成立した時、菜摘は「ようやくまともな条件の人を見つけた」と安堵したものだ。
だが、実際に顔を合わせて一時間。菜摘の頭の芯は、鈍い疲労感でじんわりと痛み始めていた。
男の言葉には、菜摘という人間に興味を持っている素振りが全くない。彼が語るのは常に「自分の成果」であり、「所有している資産の額」だった。菜摘が休日の過ごし方や好きな映画の話題を振っても、「映画を見る時間があるなら、ビジネス書を読んで自己投資した方が有益ですよ」と、論破するように切り捨てられた。
条件は完璧だ。過去の同棲相手のように、菜摘に生活費を寄生してくる心配は万に一つもないだろう。
けれど、この男が仕事から帰ってくるたびに、今日の何倍もの熱量で成果の数字を聞かされる生活を想像すると、息が詰まりそうだった。
「……すごいですね。お仕事、充実されてて」
菜摘が絞り出すように言うと、男は満足げに深く頷いた。
カフェを出て、駅の改札前で男と別れた瞬間、菜摘の肩からどっと重い疲労が抜け落ちた。
二度目はないな、と心の中で見切りをつける。アプリを開いて、男のアカウントをブロックリストに入れた。
駅のコンコースを抜け、歩道橋の階段を上る。生温かい夏の終わりの風が、べたつく前髪を揺らした。
歩道橋の真ん中でふと立ち止まり、下を走る道路を見下ろした。
ちょうど、『事業系廃棄物』と側面に書かれた青い収集車が、路肩にハザードランプを点滅させて停まっているのが見えた。日曜日も飲食店を回る別班の車だ。
作業員が重いコンテナを荷台へ戻す鈍い音が、歩道橋の上まで微かに響いてきた。作業員の顔は見えなかった。
ただ、その音を聞いた瞬間、数日前の集積所での出来事が不意にフラッシュバックした。
『数字が多くて、どの人の画面なのか分かりませんでした』
あの青木という収集員の、何の他意もない平坦な声。
菜摘は苛立たしげに首を振った。あの男は無責任な外野だ。一覧で相手を絞り込まなければ、また自分の金と時間を搾取されるだけだ。条件は絶対に正しい。
だが、「条件だけで選んだ結果が、今日のあの絶望的な疲労感だ」という事実も、また菜摘に重くのしかかっていた。
歩道橋の欄干に手をつき、菜摘は数ヶ月前にアプリで出会った、もう一人の男のことを思い出していた。
彼は二十九歳で、年収は五百万円台前半。しかも長男だった。菜摘が定めた「六百万以上、次男以降」という条件から外れていたため、二回食事をしただけで、菜摘の方からフェードアウトした相手だった。
彼との食事の席では、投資の話も年収の自慢も出なかった。代わりに、彼が飼っている不細工な猫の話や、菜摘が最近観て泣いてしまった古い映画の話で、自然に笑い合うことができた。話していて、全く気疲れしなかったのだ。
それでも、菜摘は彼を切った。年収と家族構成の欄に、二つも赤信号がついていたからだ。
菜摘は深くため息をつき、歩道橋の階段を降り始めた。
同じ日曜日の夜。
森川湊は、クーラーの風が直接当たるベッドの上に寝転がり、スマートフォンのメモアプリを開いていた。
画面の最上部には『転職条件』というタイトルが打ち込まれている。
森川は、先日届いた資源循環系ベンチャーからのスカウトの文面を思い出しながら、具体的な数字を打ち込んでいった。
『固定給:現状+四万円』
『歩合:契約一件につき五パーセント』
『年間休日:百二十日』
数字だけを見れば、申し分のない好条件だ。これを手に入れれば、奨学金の返済も、母親への仕送りも、ずっと楽になる。市場価値の低い今の自分から抜け出せる。
しかし、一番下に作った項目にカーソルを合わせたまま、森川の指はぴたりと止まっていた。
『仕事内容:』
そこに「新規法人の開拓営業」と打ち込もうとして、どうしてもうまく入力できなかった。
電話をかけ続けるのか。飛び込みで名刺を置いて回るのか。断られ続けるストレスに、自分は耐えられるのか。給料が上がることは確実でも、その見知らぬ業務に自分がどう向き合っていくのか、具体的な生活の手触りが全く想像できなかったのだ。
条件の数字は完璧なのに、この『仕事内容』の空白が埋まらない限り、スカウトの応募ボタンを押すことはできない気がした。
森川は、埋まらないメモアプリをそっと閉じ、スマートフォンを枕元に投げ出した。
自室に戻った菜摘は、洗面所の鏡の前で念入りにクレンジングオイルを顔に馴染ませていた。
指先でくるくると円を描きながら、今日のカフェでの作り笑いを物理的に溶かして落としていく。ぬるま湯で洗い流すと、少し突っ張るような頬の感触とともに、素の自分に戻った実感があった。
パジャマに着替え、ベッドに腰掛けて再び婚活アプリを開く。
検索フィルターの画面。
『年収:六百万円以上』
そのチェックボックスのチェックを外そうとして、菜摘の指は空中で止まった。
外せない。条件を見ずに結婚して、生活費に苦しんでいる友人も知っている。菜摘は指を引き戻し、六百万円の横にあるチェックを残した。
その代わり、彼女はメッセージの受信トレイを開き、画面をずっと下の方へスクロールしていった。
何十人ものアイコンを通り過ぎ、やがて、数ヶ月前にメッセージのやり取りが途絶えている一つのトーク画面を見つけ出した。
あの、年収五百万円台の、長男の彼だ。
条件は満たしていない。結婚すれば、苦労するかもしれない。でも、話していて疲れなかった人。
菜摘はトーク画面を開き、キーボードをタップした。
『お久しぶりです。急にごめんなさい。お元気ですか?』
たったそれだけの短い文章。
返信が来る保証はない。向こうにはすでに別の相手がいるかもしれない。
それでも菜摘は、深呼吸を一つして、送信ボタンを押した。検索条件のチェックは、一つも外していなかった。




