第12話 会ってみたあと
駅前の小さな居酒屋は、週の半ばだというのに仕事帰りの会社員たちで適度に賑わっていた。
小松菜摘は、目の前に置かれた冷たいウーロン茶のグラスの表面を指先でなぞりながら、向かいに座る男の顔を見てふっと笑いをこぼした。
「だから言ったじゃないですか。あの監督の映画、三作目からは急に話が難しくなるって」
「いや、まさかあんなに置いてけぼりにされるとは思わなくて。主人公が急に宇宙行き始めたあたりで、完全に理解するのを諦めましたよ」
彼がジョッキのビールをあおりながら大袈裟に肩をすくめると、菜摘はまた声を上げて笑った。
向かいにいるのは、宮田悠介。先日、菜摘が婚活アプリのメッセージ機能を使って「お久しぶりです」と数ヶ月ぶりに連絡を取った、あの「条件外の彼」だった。
宮田からの返信は拍子抜けするほどあっさりと届き、「ちょうど僕も菜摘さんのこと思い出してたとこでした。飲みに行きませんか」と、今日の軽い食事につながったのだ。
彼との会話は、先日のカフェで会った「条件通りの男」との面接のような時間とは対極だった。
お互いの仕事の他愛ない愚痴、休日にやってしまった些細な失敗談、そしてメニュー選びのくだらない迷い。彼は自分の資産額を誇示することもなく、菜摘を論破しようともしない。菜摘も無理に口角を上げて相槌を打つ必要がなく、自然に息をして、ただの小松菜摘としてそこに座っていることができた。
ああ、本当に。
菜摘はだし巻き卵を口に運びながら、心の中で静かに息を吐いた。
この人と一緒にいると、全く疲れない。
しかし、食事が進み、会話の解像度が上がっていくにつれて、居心地の良かった空気に少しずつ現実の重さが混ざり始めた。
「……実は来月から、少し実家への仕送りを増やそうかと思ってるんです」
二杯目のビールを半分ほど空けた後、彼が少しだけ申し訳なさそうに、だが誠実なトーンでこぼした。
「親の具合があまり良くなくて。親父ももう定年してるし、長男として少しでも負担を減らしてやりたいんですよね。まあ、僕の給料だと大した額は送れないんですけど」
照れ隠しのように笑う彼を見て、菜摘の脳内で、冷たい警報が鳴り響いた。
彼の年収は五百万円台前半。そこからの仕送り。さらに、将来的に親の介護などを背負う可能性が高い「長男」という立場。
もし彼と結婚すれば、生活費の負担は確実に自分にも重くのしかかってくる。家計のやり繰りに悩み、自分の給料を生活費の補填に回す日々。
フリーランスの元恋人に時間とお金を搾取され、すり減っていった過去の痛みが、反射的に菜摘の心の防衛線を高く引き上げた。
彼の人柄は好きだ。話していて楽しいし、誠実な人だと思う。
だが、この現実的な「数字の違い」は、愛情や相性といったふわふわしたものだけで乗り越えられるほど、軽いものではない。金銭的な価値観や背負っている責任の重さが違う相手と生活を共にすれば、いずれ余裕がなくなり、互いを憎み合うことになるのは目に見えていた。
「……そうなんですね。ご両親、助かると思いますよ」
菜摘は穏やかな声でそう返したが、テーブルの下で組んだ手は、きつく白くなっていた。
店を出て、駅の改札前まで歩く。夏の終わりの夜風が、少しだけ肌寒く感じられた。
「今日はありがとうございました。また、よければご飯でも」
彼が優しく微笑んで言った。
「はい、こちらこそ。とても楽しかったです」
菜摘は嘘偽りなくそう答えた。本当に楽しかった。だが同時に、彼女の心の中では静かで明確な決着がついていた。
これ以上、彼と会うことはない。交際には至らない。
彼の人柄を否定するつもりはない。だが、仕送りと介護の可能性を引き受ける覚悟は、今の菜摘にはなかった。
彼に背を向けて改札を抜け、菜摘は自分のマンションがある駅で降りた。
静まり返った夜の住宅街を歩いていると、遠くの方から、高い水音が微かに聞こえてきた。高圧洗浄機で何かを激しく洗い流すような、規則的な音だ。市が委託している収集車が、夜間の事業系ごみの回収を終えて洗車でもしているのだろうか。
先日、集積所で菜摘のスマートフォンの画面を見たあの作業員の顔が、ふと頭をよぎった。
菜摘は、婚活アプリの一覧画面を思い出した。あの画面には、宮田がだし巻き卵を半分こちらへ寄せた手つきも、映画の三作目で一緒に笑った間も、どこにも載っていなかった。
それでも、菜摘は自分の条件が間違っていたとは微塵も思わなかった。
自室に戻り、シャワーを浴びてベッドに寝転がった菜摘は、スマートフォンを開いた。
婚活アプリを立ち上げ、検索フィルターの画面を開く。
『年収:六百万円以上』
『学歴:大卒以上』
『同居人:なし(次男以降希望)』
オレンジ色にハイライトされたチェックボックスの群れ。
菜摘は、そのどのチェックも外さなかった。六百万円と次男以降の欄は、オレンジ色のまま残っている。
ただ、菜摘は画面をスクロールし、プロフィール設定の奥にある「希望する相手の性格・フリーメモ」という自由記述の欄をタップした。
そこには今まで、「清潔感のある方」「仕事に責任感のある方」「金銭感覚がしっかりしている方」といった、堅苦しい言葉ばかりが並んでいた。
菜摘は一番最後にカーソルを合わせ、キーボードをタップして短い一文を付け足した。
『・話していて疲れなかった人』
菜摘は追加した一行を読み返し、その上に並ぶ年収や家族構成のチェックも、もう一度確認した。
菜摘はスマートフォンの画面を閉じ、部屋の電気を消して、深い眠りについた。




