第13話 五十二点
ダイニングテーブルの上に広げられた答案用紙の右上には、赤いペンで無造作に書き込まれた数字が陣取っていた。
『五十二』
矢野晴香は、その数字から目を逸らすことができなかった。小学五年生になる息子、大輝が週末に受けてきた大手学習塾の公開模擬テストの結果だ。総合点数の横には、平均点を大きく下回る残酷な『偏差値』の数字が、黒々と印字されている。
三十九歳の晴香の胸の奥で、じわじわと焦りが黒い染みのように広がっていく。
晴香自身は、家庭の事情で大学へ進学できなかった。高卒というだけで、二十代の頃は就職活動で門前払いを食らい、派遣社員として安く買い叩かれ、理不尽な扱いを受けてきた。社会は冷酷で、学歴という「数字」を持たない人間には容赦がない。身をもってその痛みを味わってきたからこそ、息子には絶対に同じ思いをさせたくなかった。
息子には、学歴を理由に応募先を狭められる思いをさせたくない。偏差値が下がるたび、まだ起きてもいない大輝の不採用通知まで見えるようだった。
「……なんで、こんな点数なの」
晴香は、洗面所で顔を洗っている大輝の背中へ向かって、独り言のように呟いた。
テスト用紙の下には、塾から渡された『点数内訳表』が添えられていた。それを見ると、大輝は計算問題では三十点満点中二十七点と、九割の正解率を出している。図形問題は三十点満点中十八点。しかし、後半の長い文章題になると、途端に空欄や的外れな式が目立ち、四十点満点中わずか七点しか取れていない。
本来であれば、この内訳表から「文章を読んで条件を整理するのが苦手なのだ」という具体的な躓きの位置を分析できるはずだった。しかし、今の晴香の目には、赤々と書かれた「五十二」という総合点と、低い偏差値の数字しか入っていなかった。
焦りと苛立ちに突き動かされるように、晴香は大輝の机の上に溜まっていた古い小テストや塾のプリント類を両手でかき集めた。点数が悪かったもの、やり直しの指示が書き込まれたまま放置されているもの。それらを見ているだけで、息子の選べる進路が一つずつ消えていくような気がして耐えられなかった。
晴香は青葉市の可燃ごみの指定袋を引っ張り出すと、名前が書かれたままのプリントの束を、二つ折りにしただけで強引に押し込んだ。
木曜日の朝。ランドセルを背負った大輝と一緒にマンションのエントランスを出ると、すでに夏の強烈な日差しがアスファルトを焼き始めていた。
マンションの脇にある集積所には、青いパッカー車がハザードランプを点滅させて停まっていた。
風がないせいか、集積所の周りでは、湿気を吸った紙の臭いが重く滞留していた。指定袋の内側に張りついたプリントは薄く透け、大輝の名前だけが妙にはっきり読めた。
集積所では、二人の作業員が黙々とごみ袋を投げ込んでいた。そのうちの一人、がっしりとした体格の男が、ネットをめくり上げている。
男の胸には『青木』という名札があった。彼がネットを持ち上げるたび、袋の内側に張りついたプリントが擦れ、薄い紙の音を立てた。
晴香は手に持ったごみ袋を見下ろした。半透明のビニール越しに、大輝のフルネームや、赤い丸がつけられたテストの紙がうっすらと透けて見えている。
近所の誰かに見られるのも嫌だが、この作業員たちにごみを開けられて、低い点数を見られるのもひどく抵抗があった。
「あの、すみません」
晴香は、袋を放り込もうと近づいてきた青木に声をかけた。
「こういう、名前が書いてあるテストの紙とかって、このまま出しても中を見られたりしませんよね?」
青木は作業の手を止め、晴香の足元にある袋を一瞥した。袋から透けている紙の束の意図を汲み取って、「お子さんのテストですか、大変ですね」と同情してくれるわけでも、「気にしなくていいですよ」と笑いかけてくれるわけでもなかった。
「僕らは、中身を読みません」
青木は、機械のように淡々とした声で答えた。
「でも、個人情報が気になるようでしたら、一度持ち帰ってハサミで裁断するか、中が見えない紙袋にしっかり封をしてから、指定袋に入れ直してください。このまま出されれば、僕らはそのまま車に入れます」
あまりにも事務的で、冷たい案内だった。
晴香の胸に、ムッとした感情が湧き上がった。こちらの不安に寄り添うことすらできない。ただマニュアル通りに動くだけの単純労働者。きっとこの人も、子どもの頃から勉強ができなくて、低い点数を取り続けた結果、こんな臭くて過酷な仕事をする羽目になったのだ。
「……分かりました。持ち帰ります」
晴香が袋を引き寄せようとした時だった。
「ねえ、おじさん」
隣に立っていた大輝が、ふいに青木に向かって口を開いた。
「大輝、やめなさい」
晴香が制止するより早く、大輝はランドセルの肩ベルトを両手で握りしめながら、不思議そうな顔で尋ねた。
「おじさん、テスト嫌いだった?」
自分の母親が点数にカリカリしているのを見て、目の前で汗だくになって働いている大人に、純粋な疑問をぶつけたのだ。
青木は、パッカー車に袋を投げ込もうとしていた手を止め、大輝の顔をじっと見た。
そして、数秒だけ何かを思い出すように目を伏せた後、深い教訓も、大人としての体面も何もなく、ただの事実を口にした。
「嫌いでした」
「ふうん。なんで?」
「数字が多いから」
それは、低い偏差値を馬鹿にされるのが嫌だったからでも、親に怒られるのが嫌だったからでもない。青木修という男が抱えている「数字列を読み取ることの困難さ」という、圧倒的に物理的でシンプルな理由だった。
しかし、そんな事情を知る由もない晴香には、その言葉の意味が全く理解できなかった。「数字が多いから嫌い」などという、子供の言い訳以下の言葉を平然と口にする大人がいることに、ただ呆気にとられた。
「そっか。俺はね、文章読むのがめんどくさい」
大輝は妙に納得したように頷くと、「じゃあね」とだけ言って、学校へ向かって歩き出してしまった。
「あ、こら、大輝!」
晴香が慌てて声をかけるが、大輝は振り返らずに走っていく。
青木はすでに大輝への興味を失ったように、次の袋を持ち上げてパッカー車へと放り込んでいた。回転板が唸りを上げ、ごみを奥へと押し潰していく。
晴香は、ずっしりと重いプリントの束が入ったごみ袋を提げたまま、朝の熱気の中に取り残された。
部屋に戻れば、またあの「五十二点」という数字と向き合わなければならない。晴香はプリントの束を提げ直し、大輝の名前が外から見えないよう袋を二重に折った。




