第23話 今日は紙でやる
昨日から降り続いた秋雨のせいで、早朝の営業所の空気は冷蔵庫の中のように冷え切っていた。
森川湊は二人掛け助手席の中央側に乗り込み、ゴム手袋の内側に入れる薄手の吸汗手袋をはめ直しながら小さく白い息を吐いた。
視線を前に向けると、ダッシュボードの中央に設置された真新しい『新デジタル安全端末』の周りが、昨日とは少し違った様相を呈していることに気づいた。
黒いタブレットの右脇には、『表示が出たら対応表を確認』と大きく書かれた白いラベルが貼られていた。
さらに、助手席側のダッシュボード脇には、透明な書類ホルダーが固定されていた。そこにはA4判のラミネート表が二枚差し込まれている。各行には幅の広い色帯と手描きのアイコンが入り、極太のゴシック体で『C-12:青色:容器ロック確認』『D-02:黄色:前回残置・刃物注意』と印刷されていた。
「……なんだか、すごい手作り感ですね」
森川が呟くと、窓側に座った青木修も、その二枚の表をまじまじと見つめた。
昨日の朝、意味を持たない数字とアルファベットの羅列である警告コードを修が確信できず、安全のために作業を停止した。その後、本社と市役所、そして端末メーカーとの間でどのような話し合いが行われたのか、森川は知らない。
昨日、軽バンで同行したメーカー担当者は、今日は営業所に残り、端末ログと停止時刻を本社へ送る作業に回っていた。
ただ、システムのユーザーインターフェースを根本から改修するのは次回のアップデートまで待たなければならず、とりあえず今日の現場を回すための「暫定策」として降りてきたのが、この色帯とアイコンを足した二枚の対応表だった。
「おはよー。冷えるね、今日」
開け放たれた助手席の窓から、別班の西原真紀がコーヒーの入った紙コップを片手に顔を出した。
「あ、おはようございます」
「西原さん、おはようございます」
森川と修が挨拶を返すと、西原は自慢げに胸を張った。
「聞いてよ。私、今日から補助運転手で登録通ったから。この雨の中、ハンドル握れるの最高」
四十一歳の彼女は、数ヶ月前から会社が費用の七割を負担してくれるという補助制度を利用して、休日に中型免許の教習所へ通っていたのだ。
「無事に取れたんですね。おめでとうございます」
「ありがと。これで来月から毎月の手当が増えるわ。週末はちょっといい肉が食える。教習所は面倒だったけど、やっぱり取っといて正解だったね」
西原はあっけらかんと笑った。来月から増える手当の額を口にしながら、紙コップのコーヒーを飲み干した。森川には、その具体的な予定が少し羨ましかった。
「それにしても」
西原はコーヒーを啜りながら、ダッシュボードの端末を覗き込んだ。
「なにこれ。メーカーが急いで作ったんだろうけど、表、ちょっと斜めに入ってない?」
西原が窓から手を伸ばし、書類ホルダーの中の表をまっすぐに直そうとした瞬間。
「おい、勝手に触るな。位置がずれたら見えにくくなるだろうが」
運転席に乗り込んできた班長の田辺健吾が、ピシャリと叱りつけた。
「ちぇっ、厳しいなぁ。でも田辺さん、表が二枚あると、めくるの面倒じゃない?」
「今はこれでやる。ほら、お前もさっさと自分の車に乗れ。時間だぞ」
田辺に追い払われるようにして、西原は「はーい」とひらひら手を振りながら自分のパッカー車へと戻っていった。
雨の日の可燃ごみ収集は、容赦なく体力を奪っていく。
水をたっぷりと吸い込んだ指定袋は鉛のように重く、持ち上げるたびに中の汚水が足元に跳ねた。ゴム手袋の袖口から入り込んだ雨で、内側の吸汗手袋まで湿り、指先が白くふやけて冷え切っていく。
「昨日の青木の停止判断な」
次の集積所への短い移動の間、田辺がフロントガラスのワイパーを動かしながら口を開いた。
「帰ってから、ヒヤリハット記録に『適切な判断』として残しといた。本社も市も、このままじゃ事故が起きるってのは理解したらしい。正式なシステム改修までは、とりあえずこのアナログな暫定運用で様子見だ」
ヒヤリハットの用紙には受付番号が振られ、本社と市の両方へ送られていた。口頭の不満ではなく、昨日の停止判断が正式な記録として残ったのだ。
パッカー車が、古いアパートの集積所の前に停まる。
ここは前回の回収時、新聞紙の包みから刃先が覗いていたため、別班が残置して再分別を依頼した地点だった。その記録が市の受付を通じて端末へ登録されている。
その瞬間、ダッシュボードの端末から『ピピッ』という警告音が鳴り、画面に赤い文字で『D-02』というコードが点滅した。
「今日は紙も使うぞ。森川、対応表を読め」
田辺の指示が飛ぶ。
森川はすぐにダッシュボード脇の対応表を引き出した。
「ええと、Dの02……黄色の帯。『前回残置・刃物注意』です」
森川が読み上げると、窓側で聞いていた修が、声に出してそれを繰り返した。
「ディーゼロニ。黄色、刃物注意」
視覚的な数字の羅列が苦手な修は、森川の声を耳から入れ、自分で音として復唱することで、その意味を確実なものにする。
直後、ダッシュボードの端に一台だけ試験的に置かれていたスマートフォンから、少し遅れて「ケイコク、ハモノ、チュウイ」という平坦な機械音声が流れた。メーカーが急遽用意した、音声読み上げアプリのテスト機能だ。
「よし。青木、袋持つ時気をつけろよ」
「はい」
修は慎重に袋の外側を触り、硬い感触がないことを確認してから、パッカー車へと投げ込んだ。
午前のルートを終え、処理施設へ向かう道中。
窓側の修が、少しだけ申し訳なさそうな声を出した。
「田辺さん、森川くん。すみません」
「ん? なんだよ」
「僕だけのことなら、森川くんに読んでもらえれば済むのに。紙をぶら下げたり、音声アプリを入れたり、大げさなことになってしまって……」
修は、湿った吸汗手袋の指先を何度もつまんでいた。
田辺はミラー越しに修を睨み、鼻で笑って一蹴した。
「勘違いすんな。お前一人の問題じゃねえよ」
「え?」
「パッと見て、誰にでも直感的に危険が分かるようになってねえシステムが悪いんだ。俺だって、あんな細かいアルファベットいちいち覚えてられねえよ。これは青木への特別扱いじゃねえ。うちの班全体で安全を守るための、当たり前の手順だ」
田辺の言葉に、森川も深く頷いた。
森川はダッシュボード脇の二枚の表を見た。コードが増えれば、紙をめくる手間も増える。音声アプリは、端末より少し遅れて喋る。
システムが完全に解決したわけではない。雨は冷たく、ごみは重く、暫定策にも使いにくさが残っている。
処理施設に到着し、森川は気合いを入れ直すように濡れた手袋の指先を引っ張った。窓側の修に続き、助手席のドアから外へ出る。




