第24話 今日の午後
窓の外から聞こえる虫の音に、確かな秋の深まりを感じる早朝。
森川湊は、アパートの自室でベッドの縁に腰掛け、スマートフォンのメモアプリを開いていた。
画面に表示されているのは、これまで何度か書き換えてきた『転職条件』のリストだ。一番上に記載されている、資源循環系ベンチャーからのスカウトの固定給と、インセンティブの歩合比率。
改めてスマートフォンの電卓でシミュレーションをしてみても、その数字が提示する収入メリットは本物だった。転職すれば手取りは確実に増える。毎月の奨学金の返済や、母親への仕送りをしても、手元には十分な生活費が残る。
だが、森川の視線は、その下に追加した二つの項目に向けられていた。
『仕事内容:新規法人の開拓営業中心、全国転勤あり』
『何歳まで続けられる仕事か:?』
森川は、自分の性格と適性を冷静に天秤にかけた。見知らぬ土地へ飛ばされ、毎日ノルマの数字に追われながら飛び込み営業をかけるストレス。それを何年も、何十年も続けていけるような図太さが自分にあるとは思えなかった。給料の数字が高くても、途中で心が折れてしまえば、結局は元も子もない。
森川はスカウトアプリに切り替え、メッセージの画面を開いた。
そして、『辞退する』というボタンを、もう迷うことなくタップした。
画面から固定給の金額が消えると、急に部屋が静かになった。
通知欄には、今月の奨学金口座振替予定額が表示されている。その下には、昨夜母から届いた『今月もありがとう。無理しないで』というメッセージが残っていた。
森川は辞退済みの画面をもう一度開いた。あの四万円があれば、返済を早められた。母に送る額も増やせた。選ばなかった金額は、消えたあとも具体的な重さを持っていた。
だからといって、このまま一生、今の委託会社でごみ収集員として骨を埋めると決めたわけではない。森川は会社の資格補助制度を開き、それから検索窓に新しいキーワードを打ち込んだ。
『中型免許 取得補助』
『廃棄物処理施設 技術管理者 講習』
『安全管理 職種』
先日、新デジタル端末の警告コードが読めなかった青木修の感覚を、森川が言葉に「翻訳」して現場の安全手順を回した。その時に感じた、自分の頭で状況を整理して人に伝えるという適性。
検索結果には、受講要件、実務経験年数、資格手当の額が並んだ。森川は画面をスクロールし、会社の資格補助制度で対象になる講習名を一つ確かめた。
営業所へ着くと、森川は事務所の共用プリンターから資格取得補助の申請書を一枚出した。受講欄はまだ空白のまま、二つ折りにしてロッカーの内側へ挟んだ。
午前八時。森川たちは、可燃ごみのルートを回っていた。
秋めいてきたとはいえ、パッカー車の回転板がごみを押し潰すたびに漂ってくる、特有の酸っぱい臭いが消えたわけではない。水を吸った指定袋は相変わらず重く、少し油断すれば腰に負担がかかる。
助手席側のダッシュボード脇には、未だに不格好な二枚の対応表が差し込まれている。
『ピピッ』
端末から警告音が鳴る。
「Dの02、黄色の帯。『前回残置・刃物注意』です」
森川が対応表を見て読み上げると、窓側の修が「ディーゼロニ、刃物注意」と声に出して復唱する。システムが完全に直るまでは、この泥臭い手順を班全体で回し続けるしかない。田辺健吾も何も言わず、ただ慎重に車のブレーキを踏んだ。
次の集積所へ向かう道すがら、森川は窓の外の街の風景をぼんやりと眺めていた。
小さな公園の横を通り過ぎた時、ベンチに座っている初老の男の姿が見えた。以前、集積所で長い釣竿を捨てようとして、結局持ち帰った男だ。彼はスマートフォンの画面を真剣な顔で見つめ、明日の天気予報の降水確率と、潮見表の数字を交互に確認しているようだった。
パッカー車が商店街の角を曲がる。軒下にたむろしている高校生たちの一人が、スマートフォンで動画を再生していた。
ごみ袋をアスファルトに引きずる音と、ネットを畳む乾いた音。
先日、結城というクリエイターが撮っていた、あの環境音の動画だ。だが、すぐにパッカー車のエンジン音へ紛れ、高校生の手の中で小さく遠ざかっていった。
午後の追加便を終え、処理施設で全てのごみを下ろしたパッカー車を洗車する頃には、空はすでに薄暗くなり始めていた。
高圧洗浄機の冷たい水飛沫が合羽を濡らす。タイヤのホイールにこびりついた泥を落とし、すべての作業を終えてロッカールームで着替える。
休憩スペースの長机には、青木修が座っていた。彼はいつものように、これから観に行く単館系映画の古いパンフレットを真剣な顔で読み込んでいる。
森川は自動販売機でスポーツドリンクを買い、修の向かいの席に座った。
「青木さん」
修が顔を上げる。
「今日、僕も一緒に行ってもいいですか。その映画」
修は少しだけ目を丸くした。だが、森川の突然の申し出に対して、「何か心境の変化でもあったんですか」と大げさに理由を問いただすようなことはしなかった。
「あ、はい。いいですよ。今日は古いフランス映画ですけど、退屈しないといいですね」
普通に受け入れ、パンフレットをリュックにしまった。
営業所を出て、二人は駅前の小さな映画館へと向かって歩き出した。
森川は歩きながら、修が持つ古いパンフレットの裏表紙を覗き込んだ。
駅前の古びた雑居ビルに入っている映画館のロビーは、平日ということもあって閑散としていた。
チケット窓口の頭上には、細かい数字が敷き詰められた上映スケジュールのパネルと、料金表示のプレートが掲げられている。
修の視線が、その数字の群れの中で少しだけ迷うように彷徨うのを、森川は見逃さなかった。長い数字の羅列から、自分が必要とする情報を瞬時に抜き出すのが、修には難しいのだ。
「読む?」
森川は、ごく自然な、仕事中と同じトーンで聞いた。
「お願いします」
修も変に遠慮したり卑下したりすることなく、あっさりと頼んできた。
「大人は千八百円。上映開始は十七時四十分からですね」
森川が読み上げると、修は時刻を一度復唱して窓口へ進み、スマートフォンを取り出して電子マネーで決済を済ませた。
上映五分前。薄暗い館内の座席に並んで座ると、修が少し身を乗り出して口を開いた。
「今日の映画の監督なんですけど、初期の作品はもっと画角が暗くて、心理描写が……」
修が、これから観る映画について少し熱を帯びた声で語り始めた。
彼が映画について語り出すと、相手の興味や知識量を無視して少し長めに喋ってしまうのは、いつもの悪い癖だ。森川は「へえ」「そうなんですか」と適当に相槌を打っていたが、修の話は一向に終わる気配がない。
やがて、館内に流れていたBGMのボリュームが静かに下がり始めた。
「青木さん、始まりますよ」
森川が修の言葉をあっさりと遮って止めた。
「あ、はい」
修は不機嫌になることもなく、ピタリと口を閉じ、素直にスクリーンの方へと前を向いた。
館内の灯りがゆっくりと落ち、完全な暗闇の中で、スクリーンに光が投射された。




