第22話 読めない警告コード
九月も下旬に差し掛かった早朝の営業所。
森川湊は、運転席横の二人掛けベンチシート、その中央側に乗り込み、ダッシュボードの中央に新しく設置されたタブレット端末をまじまじと見つめていた。
今日から、数ヶ月前から予告されていた『新デジタル安全端末』の試験運用が、青葉市の一部ルートで開始される。
液晶画面には、現在時刻、本日の予定収集件数、熱中症指数(WBGT)といった数字が整然と並んでいる。そして、画面の下半分には『ルート案内:ブロック4』『状態コード:E-04』といった、アルファベットと数字を組み合わせたコードが点滅していた。
説明資料によれば、端末へ届く危険情報は袋の中身をその場で検知したものではない。前日までに市民受付へ入った通報、別班が残置した理由、特殊回収容器の点検情報を、集積所ごとに登録して表示する仕組みだった。
この業務端末は現場用アプリだけが動くよう固定されており、修が普段スマートフォンで使っている読み上げ機能を追加することはできなかった。
「……森川くん、これ、何て書いてあるんですか?」
窓側に座った青木修が、困惑した顔で画面を指差した。
修にとって、こうした「意味を持たない数字とアルファベットの羅列」は、最も視覚的な読み取りが困難なものだった。一目見ただけで順序が入れ替わり、それが『E-04』なのか『E-40』なのか、頭の中で固定することができない。
「えっと、ルートはブロック4で、状態コードがEの04ってなってますね」
森川が読み上げると、修は手元の分厚いマニュアルの冊子をめくり始めた。
「青木さん、どうかされましたか」
助手席の窓の外から、少し苛立ったような声が飛んできた。
今日から三日間、市が用意した軽バンで後ろから同行する、端末メーカーの若い男性担当者だった。真新しい作業着を着た彼は、手元のバインダーを叩きながら修を急かした。
「マニュアルの対応表と照らし合わせれば、コードの意味はすぐに分かるはずです。E-04は『システム正常起動』です。訓練で慣れる範囲ですから、まずは出発してくれませんか。市から委託されたスケジュールがありますので」
担当者のバインダーには、試験運用初日の予定時刻と確認項目がびっしり並んでいた。ここで遅れれば、午後の報告に間に合わない。
修は「すみません」と短く謝り、マニュアルを閉じてシートベルトを締めた。
運転席の田辺健吾が、無言でエンジンをかける。重いディーゼル音が、早朝の空気を震わせた。
雨上がりの住宅街。路面は黒く濡れ、指定ごみ袋は水分を吸って滑りやすくなっていた。
最初の集積所は、一部の集合住宅に設置されている、金属製の特殊な回収容器がある場所だった。
パッカー車が停まると同時に、ダッシュボードの端末から『ピピッ』という甲高い警告音が鳴り響いた。
画面には、赤い文字で『警告コード:C-12』と大きく表示されている。
修はパッカー車から降りて容器の前に立ったが、その赤い文字の羅列を見た瞬間、動きをピタリと止めた。
「……青木さん?」
森川が背後から声をかける。
修の視線が、画面の『C-12』とマニュアルの索引の間を何度も往復した。
「シーの十二……いや、二十一?」
雨で濡れた手袋では、薄いページもうまくめくれない。
修は迷わず、ごみ袋を掴もうとしていた手を引っ込めた。
「森川くん、ちょっと待って。止めます」
「え?」
「どうしたんですか!」
後ろに停めた軽バンから降りてきたメーカーの担当者が、声を荒げた。
「C-12は『容器ロック確認』です! ロックを手動で外せばいいだけですから、作業を止める必要はありません。早く進めてください、後ろが閊えます!」
担当者の言う通り、単なる確認のサインだった。だが、修は動かなかった。
「読めないから、止めました」
修は、弁解もせず、ただ事実だけを告げた。
「は? 読めないって……さっきも言いましたよね、マニュアルを見て……」
「お兄さん、ちょっと待ってくれ」
運転席のドアがバンと開き、田辺が降りてきた。
田辺は普段から、ダッシュボードの温度計やヒヤリハットの件数など、数字を誰よりも厳密に管理して現場の安全を守ってきた男だ。
「田辺さん、困りますよ。一人の作業員の方の不慣れで、全体のスケジュールを遅らせるわけにはいかないんです。これは市と本社の決定で――」
「分かってるよ。数字のコード自体が悪いとは言ってねえ」
田辺は担当者の言葉を遮り、鋭い視線でタブレットの画面を睨みつけた。
「だがな、こいつが読めねえって言ってんのに、無理やり感覚で進めさせるのが、現場じゃ一番危ねえんだよ。安全確認の表示が『アルファベットと数字の羅列』しかねえってのが問題なんだ」
画面にあるのは『C-12』だけだった。容器の絵も、「ロック確認」という文字も、読み上げ音声もない。
「青木、お前はどうしたい」
田辺が問うと、修は濡れた手袋を太ももに押し当てながら答えた。
「確信が持てないまま作業するのは、危ないです。他の人に読んでもらえれば進めますけど、毎回それだと森川くんたちの邪魔になります」
修は濡れた手袋を見下ろし、もう一度「確信が持てません」と言った。
「田辺さん、今日はこの端末だけで作業を判断するのは、一回止めましょう」
森川は、修の横に並び立って言った。
入社初日、この雨の集積所で、スプレー缶を見落としそうになった自分を修が止めてくれたことを思い出す。
「青木さん、読めないなら止めるって、一番最初に僕に教えましたよね。それでいいんですよね」
修は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに短く頷いた。
「おいおい、勝手に運用を止められては困ります!」
メーカーの担当者が慌てて止めに入ろうとする。だが、田辺はもう決断を下していた。
「悪いな、お兄さん。現場の安全責任は俺にある。端末のログは残す。ただ、警告音はいったん切る。今日の作業判断は紙の台帳を優先する。本社と市には、俺から報告しておく」
田辺はパッカー車に戻り、ダッシュボードから古い紙のバインダーを引っぱり出した。
「ほら、森川。いつも通り、俺が読み上げるからお前が復唱しろ。青木、お前は後ろの安全確認だ」
「はい」
「分かりました」
紙のバインダーのページがめくられる音が、雨上がりの空気に響く。
端末の記録を残したまま、現場判断を紙へ戻す。今日の危機は一応の回避を見たが、市と本社が莫大な予算をかけて導入した新システムを、いつまでもこの運用で補い続けることはできない。
明日の現場をどう回すのか。
未解決の摩擦と、重い数字の課題を残したまま、青いパッカー車は次の集積所へ向けてゆっくりと走り出した。




