第21話 一本流れる
深夜二時。デュアルモニターの右側で、プログレスバーがゆっくりと一〇〇パーセントに到達し、『書き出しが完了しました』という通知音が鳴った。
結城彩は、大きく伸びをしてから肩を回した。美容系サロンから依頼されていたPR動画の、最終エンコードが終わった。
彩は左側のモニターに視線を移し、ブラウザをリロードする。数日前に公開した別の企業案件の動画データが、YouTubeのクリエイターツールに表示された。
再生回数はすでに二十二万回を突破している。クリック率も視聴維持率も、クライアントから提示されていた目標数値を大きく上回っていた。
「よし」
彩は無人の部屋で小さくガッツポーズを作った。
これで今月の目標収益は完全にクリアした。来月の家賃も、新しく買ったミラーレスカメラのローンも、日々の食費も、何一つ心配することはない。
彩は案件の入金予定日を会計ソフトへ入力した。家賃とカメラのローンを引いても、今月は黒字になる。
彩はPR動画のファイルを納品用のフォルダに移した。
そして、デスクトップの隅にある、もう一つのプロジェクトファイルを開いた。
青葉市のごみ収集現場に密着した動画。
当初、彩はこの動画に『過酷すぎる収集現場』や『困難を抱えながら働く男』といった煽り文句をつけ、お涙頂戴のBGMで感動を演出しようと目論んでいた。だが、青木修という作業員の「朝っぽくていいですね」という言葉を聞いてから、その編集プランを全て破棄した。
彩が繋ぎ合わせたのは、ただの作業風景だ。
水を吸って重くなった指定袋がアスファルトを引きずられる擦過音。パッカー車の回転板が立てる、生ごみを噛み砕く暴力的な咀嚼音。青木たちが無言で袋を投げ入れ、最後に黄色いネットをパンッと乾いた音を立てて畳む様子。
テロップは最小限にし、BGMは一切入れなかった。環境音のドキュメンタリー。
彩はそれを、自主制作枠の動画として自分のチャンネルにアップロードした。タイトルは『青葉市の朝』。
公開ボタンを押した直後、彩のクリエイターとしての冷徹な直感が「これは絶対に伸びない」と告げていた。それでも、生活費の計算が立っている今なら、一本くらい自分の手元に残しておきたい映像を流してもいい気がしたのだ。
二日後。
彩の予想通り、ごみ収集の動画の再生回数は、公開初日でわずか四百回に達したきり、ピタリと止まっていた。
クリック率は低迷し、YouTubeのアルゴリズムは早々にこの動画を「おすすめ」に表示するのをやめた。数字上の惨敗だ。
それだけではない。
彩のスマートフォンのメールボックスには、付き合いのある制作会社から冷たい文面のメールが届いていた。
『先日ご相談した急ぎのカット編集の件ですが、お返事が遅かったため、今回はリソースの空いていた別の方にお願いすることになりました。また次の機会によろしくお願いいたします』
単価の良い、割のいい案件だった。あの「数字の取れない」ごみ収集の動画のノイズ除去や音量調整に無駄な時間を割き、返信を後回しにしていたせいで、明確な金銭的機会を一つ逃してしまったのだ。
「あーあ、やっちゃった……」
彩はベッドに仰向けに倒れ込み、天井を仰いだ。
自分の好きなように時間を使えば、その代償は確実に「数字の損失」として跳ね返ってくる。プロとしては失格の立ち回りだ。痛い教訓として受け止めるしかなかった。
重い気分でスマートフォンを操作し、伸びていない動画のコメント欄を何気なく開く。
スパムのような書き込みに混じって、二件だけ、長文のコメントがついていた。
『青葉市の商店街の近くに住んでいます。毎朝八時前、外からこのネットを畳む音が聞こえてくると、今日も街が動いているんだなと安心します。映像に残してくれてありがとうございます』
『いつも作業員さんたちが汗だくで走っているのを見ていました。ごみ袋ってこんな音がするんですね。朝の匂いを思い出しました』
それは、何万回というバズの数字には到底及ばない、極めて局地的で少数の反応だった。
だが、その具体的な言葉の羅列には、確かに誰かの生活と彩の映像が直に結びついた、奇妙な温度があった。
同じ頃。青葉市の処理施設に近いプレハブの休憩所で、森川湊は弁当の空き箱を片付けながら、スマートフォンの画面を眺めていた。
「青木さん。この動画、全然伸びてないですね」
森川は、彩がアップロードした動画の再生数を示して、隣に座る青木に言った。
転職アプリのスカウトに提示された好条件の給与額が、常に森川の頭の片隅にこびりついている。お金がなければ、奨学金も返せないし、親への仕送りもできない。
「あのカメラの人、わざわざ取材に来たのに大赤字じゃないですか。結局、仕事なんて金稼いでナンボですよね。好きなことだけやってても、食えないですから」
森川の言葉は、少しだけ自分自身に言い聞かせるようなトーンを帯びていた。
青木は、水筒の麦茶をゆっくりと飲み下し、首のタオルで汗を拭った。そして、森川の現実的な言葉を否定することも、夢ややりがいを説くこともせず、あっさりと頷いた。
「そうですね。食べないと、働けませんし」
森川は「ですよね」と短く返し、スマートフォンの画面を消して作業着のポケットに突っ込んだ。午後の追加便の時間が、すぐそこまで迫っていた。
夕暮れ時の自室。
彩はパソコンの前に座り、ブラウザを開いていた。
案件を一つ逃した損失は痛い。彩は明朝の予定表に、商業案件の構成案とサムネイル制作を入れ、返信期限のアラームも設定した。
ただ、彩は仕事用のSNSアカウントのプロフィール編集画面を開いた。
そこには、『PR動画制作承ります』『累計実績五百万再生突破』といった、ビジネスライクで強力な数字の羅列が並んでいる。
彩はキーボードに手を置き、一番下の行にカーソルを合わせた。そして、たった一行だけ、短い文章を打ち込んだ。
『地域の生活も撮ります』
彩はプロフィールの『保存』ボタンをクリックした。
すぐ横のモニターでは、四百回のまま止まった『青葉市の朝』が表示されていた。




