第20話 朝の音
午前七時半。通勤の人影が増え始めた住宅街の空気に、パッカー車のディーゼルエンジン音が低く響き渡る。
結城彩は、歩道の手すりに寄りかかるようにしてカメラを構え、ファインダー越しに収集現場の様子を追っていた。
先日、青木修という作業員に、個人の困難を中心にした密着は断られた。その後、彩は市と委託会社へ企画書を出し、作業員全員から映り込みの同意を取った。顔と名札は映さない。住民や通行人にはカメラを向けず、偶然映り込んだ場合は公開前にぼかす。袋から透ける住所や氏名は撮らない。カラーコーンで区切られた撮影位置から出ない。公開前に、会社と作業員へ確認用のラフを見せる。その条件で、作業風景と環境音だけの撮影許可が下りた。
青木も説明を最後まで聞き、「それなら」と短く頷いた。
ハンデを乗り越えて働く男、という数字の取れる強力なフックを失った彩の企画は、完全に宙に浮きかけた。
だが、ここでカメラを回すのをやめれば、今月の自主制作枠のストックが一つ飛ぶ。彩は泥臭い「作業風景」そのものをつなぎ合わせた、環境映像のようなドキュメンタリーへと方針を切り替えるしかなかった。
マイクのレベルメーターが、現場の圧倒的な物理の音を拾って激しく上下している。
水分を吸って異常に重くなったごみ袋が、アスファルトの上を引きずられる擦過音。パッカー車の後部に袋が投げ込まれ、回転板がグアアアと唸りを上げてそれを暴力的に噛み砕く咀嚼音。
青木と、森川という若い作業員が、無言で息を合わせて次々と集積所を空にしていく。最後にごみが散らばっていないかを確認し、青木がカラスよけの黄色いネットを両手で持ち、パンッと乾いた音を立てて二つに畳み込んだ。
モニター越しに見る彼らの動きには、無駄がなく、確かな労働の手触りがあった。映像としては決して悪くない。
だが、彩の冷徹なクリエイター脳は、常に警告の赤いランプを点滅させていた。
(地味すぎる。これじゃクリックされない)
分かりやすい悲劇も、理不尽な悪役も、困難を乗り越えて涙を誘うカタルシスもない。ただ男たちが汗と生ごみの臭いにまみれて働いているだけの映像だ。サムネイルに『過酷すぎる収集現場!』といった煽り文句をつければ初動は伸びるかもしれないが、内容が伴わなければ視聴維持率は急降下し、YouTubeのアルゴリズムから見放される。
数字上の試写反応は確実に弱くなる。プロとしての痛いほどの予測が、彩の胃を重くしていた。
同じ月曜の午前中。
都内の広告会社の一角で、高瀬美香は二台のモニターを前にキーボードを叩いていた。
画面に表示されているのは、先週から走らせているアパレルブランドのウェブ広告の成果ダッシュボードだ。美香の目は、膨大な数字の羅列の中から、瞬時に「コンバージョン率(CVR)」の低いクリエイティブを見つけ出した。
美香はマウスを滑らせ、その広告の配信比率を下げ、代わりに週末の間にクリック率が高かった別の画像パターンの予算配分を引き上げる。
カチャッ、とエンターキーを押し込む。
個人の写真アカウントでは、あの暗い窓辺の写真を残したままにしている。フォロワーは減った。
仕事用の画面では、反応の鈍い画像パターンを止めた。クライアントから預かった予算を、自分の好みで浪費するわけにはいかない。
数分後、更新されたダッシュボードのグラフが、美香の論理的な修正に応えるように再び上向きのカーブを描き始めた。美香は小さく頷き、次のキャンペーンデータの分析へと視線を移した。
午後三時。処理施設での搬入を終えたパッカー車が、営業所の洗車場へと戻ってきた。
彩はレンズに防水カバーを取り付け、長靴を履いて彼らの洗車風景にカメラを向けた。
高圧洗浄機のノズルから噴き出す水流が、パッカー車の車体にこびりついた生ごみの残骸と泥を激しく弾き飛ばす。跳ね返った水飛沫とともに、酸い臭いがむっと立ち込める。青木は合羽を被り、黙々とタイヤのホイールにブラシをかけている。
「……それでは、来月から導入される新デジタル安全端末の試験運用について、説明会を始めます」
彩がカメラを構えている背後、営業所の奥にあるプレハブの休憩所から、マイクを通した声が漏れ聞こえてきた。
「各車両に設置されるモニターには、危険物や特殊回収の指示が数字コードで表示されます。コードの意味は配付したマニュアルの通りですが……」
端末メーカーの担当者だろうか。無機質なシステム導入を促す説明の声が、洗車の激しい水音の背景に混ざり込んでくる。
彩はヘッドホン越しにその音を聞きながら、カメラのピントを青木の濡れた背中に合わせ続けた。マイクが拾った端末説明の声と洗浄音を、編集で別々のトラックへ振り分ける。映像のアクセントとして使えるかもしれない。
洗車が終わり、作業員たちがプレハブの休憩スペースで冷たいお茶を飲んでいる隙を見計らって、彩は青木のもとへ近づいた。
「青木さん、お疲れ様です。少しだけいいですか?」
彩は手にしたタブレット端末を青木に差し出した。
「今朝から撮らせてもらった映像を、確認用にざっと繋いでみたんです。ちょっと見てみてくれませんか」
「あ、はい」
青木はタオルで手を拭き、渡されたイヤホンを片耳につけて画面を覗き込んだ。
彩が編集したラフ映像は、まだテロップもBGMも入っていない。ただ、袋を引きずる音、回転板の音、ネットを畳む音だけが、淡々と流れていく。
「やっぱり、少し地味ですよね」
彩は、青木が映像を見ている横から早口でまくし立てた。
「これだと視聴者が飽きちゃうんで、裏で少し感動的なピアノのBGMを敷いて、『見えない街のヒーロー』みたいなテロップで煽ろうかと思うんですけど……」
どうすればこの映像で数字(再生数)を稼げるか。そのマーケティングの相談を持ちかけるつもりだった。
だが、青木は彩の言葉に反応しなかった。
彼は画面の構図や、彩が苦心して撮ったアングルには目もくれず、ただイヤホンから流れてくる『音』にじっと耳を澄ませていた。
一分ほどのラフ映像が終わり、画面が暗転する。
青木はイヤホンを外し、タブレットを彩に返した。そして、何のてらいもない、平坦な声で言った。
「この音、朝っぽくていいですね」
「……え?」
「袋の擦れる音とか、ネットの音とか。これを聞くと、ああ朝が来たな、って感じがします。いい音ですね」
青木は、自分の仕事が映像化されたことへの感動も、過酷さを世間に知ってもらえるという承認欲求も示さなかった。ただ、「音が朝っぽい」という、極めて個人的で感覚的な事実だけを抜き出して口にした。
彩はタブレットを受け取ったまま、固まった。
「朝っぽい」なんて言葉を、どうやって企画の指標に変換すればいいのか。サムネイルの煽り文句に使えるのか。ASMR(環境音)として売り出すにしても、ごみ収集の音に検索ボリュームの数字が伴うとは思えない。
数字とロジックの世界で動画を組み立ててきた彩の頭の中で、「朝っぽい」という定規の存在しない感想が、エラーコードのように点滅を繰り返していた。




