第19話 撮るほどのことじゃない
ノートパソコンの画面に表示された折れ線グラフは、三十一歳の結城彩にとって、自分の血圧や心拍数よりも切実な生命の指標だった。
駅前のカフェ。彩は冷めたカフェラテを片手に、YouTubeのクリエイターツールを睨んでいた。
再生回数、視聴維持率、そして推定広告収益。
フリーランスの動画クリエイターとして生計を立てている彩にとって、これらの数字はそのまま来月の家賃であり、食費であり、生活の全てだった。数字が取れなければ、プロとしては生き残れない。
彩は得意とする「商業案件」の合間に、自身のチャンネルを伸ばすための自主企画を常に回し続けていた。最近のトレンドは、特定の職業の「裏側密着」や「知られざる苦労」にスポットを当てたドキュメンタリー風の動画だ。視聴者は、自分より過酷な環境で働く人間の姿を見て、同情し、感謝し、そして「自分も頑張ろう」と手軽な感動を消費する。そのパッケージさえ間違えなければ、数字は確実に取れる。
彩の頭の中には、すでに次の企画のサムネイルとタイトルが浮かんでいた。
『見えない朝を支える人たち。過酷なごみ収集の現場に密着』
青葉市が来月から始める地域清掃キャンペーンに便乗すれば、市役所へのウケもいいし、SNSでの拡散も狙えるはずだ。
彩はパソコンを閉じ、企画の事前リサーチのために、カメラを持たずに収集現場へと向かった。
火曜日のB地区。商店街の裏手にある集積所は、彩の想像以上に「動画映え」する過酷さに満ちていた。
初秋とはいえ、まだまとわりつくような湿気がある。青いパッカー車が停まると、カラスよけのネットの周りから、ツンとする発酵したような生ごみの臭いが漂ってきた。彩は思わず鼻に手を当てたが、同時に心の中で「これはいける」と舌舐めずりをした。
二人の作業員が、無言で重い袋を次々とパッカー車の後部に投げ込んでいる。
回転板がグアアアと唸りを上げてごみを噛み砕くたび、袋が破れて汚水がアスファルトに飛び散る。靴底が濡れた路面を蹴る音が、その合間を細かく縫っていた。
綺麗事では済まない、泥臭い物理の現場。視聴者が求めている「リアルな苦労」がそこにあった。
彩は少し離れた安全な場所から、スマートフォンで簡単なメモを取りながら彼らの動きを観察した。
ターゲットは、がっしりとした体格の、三十代後半くらいの作業員だ。胸元の名札には『青木』とある。もう一人の若い作業員よりも年齢が上で、黙々と的確に袋を処理していく姿に、ある種の職人のような渋さがあった。彼をメインに据えれば、いい絵が撮れるはずだ。
パッカー車が全ての袋を積み込み終わり、二人が水分補給のために自販機の前へ移動したのを見計らって、彩は小走りで近づいた。
「あの、突然すみません。結城と申します。動画の制作をしていまして」
彩は名刺を差し出しながら、一番の営業スマイルを作った。
青木は不思議そうに名刺を受け取り、若い作業員――森川という名札だった――と顔を見合わせた。
「今度、青葉市の清掃キャンペーンに合わせて、街を支える皆さんの仕事の裏側をドキュメンタリー風の動画にしたいと考えているんです。普段見えない過酷な仕事や、社会のために尽くしてくださっている立派な姿を、もっと世間の人に知ってもらいたくて」
彩は一気に熱弁を振るった。感動的なパッケージを提示すれば、大抵の人間は「悪い気はしない」と取材に応じてくれるものだ。
しかし、青木は彩の熱弁を聞き終えると、少し困ったように眉を下げて、首を横に振った。
「すみません。そういうの、困ります」
「え? でも、会社の方にはこちらから正式に許可をもらいますし、顔を出すのが嫌ならモザイク処理も……」
「いや、顔がどうとかじゃなくて」
青木は、首のタオルで汗を拭いながら、隠すことも恥じることもなく、あっさりと言った。
「僕、数字を読むのがすごく苦手なんです」
「数字、ですか?」
「はい。長い番号とか、時間とか。いつも田辺さんや森川くんに読んでもらってます。僕だけ映すのは違います」
青木の言葉を聞いた瞬間、彩の脳内のクリエイターツールが、ものすごい勢いで数値を跳ね上げた。
(これだ!)
彩は内心でガッツポーズをした。
ただのごみ収集員の苦労話ではない。「数字が読めない」という明確なハンデを抱えながらも、周囲の助けを借りてひたむきに働き、社会を支えている労働者。
これ以上の感動コンテンツがあるだろうか。単なるお仕事密着動画から、一気に「人間の尊厳」や「多様性の受容」といった深いテーマ性を帯びた、再生数を確実に稼げるキラーコンテンツに化けたのだ。
彩は前のめりになり、さらに言葉を重ねた。
「青木さん、それですよ!」
「……は?」
「そういう困難を抱えながらも、工夫して一生懸命に働いている姿こそ、多くの人に勇気を与えるんです! 完璧じゃないからこそ、共感を呼ぶんです。どうか、そのありのままの姿を撮らせていただけませんか?」
彩の頭の中には、すでに『困難を抱えながら働く清掃員の誇り』というテロップが踊っていた。これで確実に数十万再生はいける。
だが、青木は彩の用意した「勇気」や「感動」という大きな物語の枠組みに、微塵も乗ってこなかった。
青木は、彩の熱のこもった目をじっと見返し、それから、本当に心底面倒くさそうに、ふうっと短く息を吐いた。
「……そういうのじゃないんです」
「え?」
「僕を撮るのは、面倒です」
青木は少し考え、パッカー車の後部を指した。
「班の仕事なら、会社に聞いてください。顔と名札は出さないでほしいです」
青木はそれだけ言うと、飲みかけのペットボトルのキャップを閉め、パッカー車の助手席へとさっさと歩き出してしまった。
残された彩は、差し出したままの手をゆっくりと下ろした。
『困難を抱えながら働く男』という企画タイトルは使えない。彩はスマートフォンのメモから、その一行を削除した。
パッカー車の重いエンジン音が、次の集積所へと遠ざかっていった。




