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数字が読めないごみ収集員と、数字で人生を測る人たち ~年収・偏差値・再生数に追われる現代のお仕事群像劇~  作者: 他力本願寺


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18/24

第18話 行けなかった火曜日

窓ガラスを斜めに叩きつける雨音で、安西隆は目を覚ました。


 薄暗い寝室のカーテンの隙間から、鉛色の空が見える。ベッドの脇のサイドテーブルに置いたスマートフォンに手を伸ばし、画面をタップして天気アプリを開いた。


 火曜日。午前七時。今日の降水確率は八十パーセント。傘のマークが画面に並び、予想最高気温は昨日から五度も下がっていた。


 安西は小さくため息をつき、身を起こそうとして、顔をしかめた。


 右膝の奥に、さび付いた蝶番を無理やりこじ開けるような、ズキズキとした鈍い痛みが走った。気圧の急激な変化と、昨日からの湿気のせいだろう。立ち上がって数歩歩いてみたが、膝に体重をかけるたびにピリッとした痛みが脳天に突き抜ける。


 これでは、濡れた防波堤のコンクリートの上を、荷物を持って何時間も歩き回ることなど到底不可能だった。


 今日は、古くからの友人である小野と、五年ぶりに海釣りへ行く約束をしていた日だった。


 老後資金のシミュレーションという無機質なエクセルの数字に怯え、生活を極限まで切り詰めることだけを考えていた安西が、ようやく思い切って手にした「再開」の予定だった。先週、あの集積所でごみ収集員に「捨てるんですか」と問われ、どうしても捨てきれなかった釣竿のケースは、昨日から玄関の三和土に立てかけられたままになっている。


 安西はベッドの端に腰掛け、痛む右膝を手のひらでさすった。


 やはり、もう遅すぎたのだ。老後の不安を少しでも和らげるために全てを捨てようとした自分が、急に昔の趣味を取り戻そうなどと欲をかいたところで、身体という一番残酷な現実がそれを許してはくれない。


 深い徒労感と諦念が、雨の冷気とともに足元から這い上がってくるのを感じた。


 安西はスマートフォンでメッセージアプリを開き、小野の連絡先をタップした。


『すまん。朝から膝の調子が悪くて、今日はとても歩けそうにない。本当に申し訳ないが、今日の中止をお願いできないか』


 送信ボタンを押すと、ものの数分で返信が届いた。


『気にするな。こっちもこの雨じゃ厳しいと思ってたところだ。無理すんな、また今度な』


 気遣いに満ちた短い返信だったが、六十一歳の一人暮らしにとって、「また今度」という明確な日付のない約束は、ひどく不確かなものに思えた。次に膝の調子が良くなる保証などどこにもない。


 安西は冷蔵庫の残り物で簡単な朝食を済ませたが、部屋の中に一人でじっとしていると、雨音ばかりが耳について気が滅入りそうだった。


 気晴らしに外の空気でも吸おうと、安西は傘をさしてマンションを出た。


 近所のコンビニエンスストアまで、痛む右足をかばいながらゆっくりと歩く。マンションの脇の集積所には、すでに出された火曜日の可燃ごみが、黄色いネットの下で雨に濡れて重たそうに沈んでいた。


 コンビニに着き、傘立てに傘を突っ込んで入り口の自動ドアをくぐろうとした時、軒下で電話をしているスーツ姿の男の声が聞こえてきた。


「だから、今月の見込みはまだショートしてるんだ。このままじゃ達成できない。明日の夕方までに、どうにか数字を出し直せ」


 四十代前半くらいの、眉間に深い皺を刻んだ男だった。同じマンションの住人で見かけたことがあるような気もする。


 男は電話口の相手――おそらく部下だろう――に厳しい口調で指示を出している。安西が少し離れた雑誌コーナーでスポーツ新聞を広げている間も、男はガラス越しに険しい顔で数字の報告を求め続けていた。


 現役世代の男たちは、あのようにして毎日のように厳しい数字のノルマに追われ、生活をすり減らしている。定年間近の安西から見れば、それは遠い昔の戦場のようだった。


 やがて男は一つ目の通話を終え、すぐに別の相手へ電話をかけた。


「ああ、俺だ」


 今度は、少しだけ声のトーンが柔らかくなった。相手は家族だろうか。


「大丈夫だ、予定は分かってる。だから、娘のピアノは土曜の十三時だろ。手帳に入れてある。遅れないように行くから、心配するな」


 男は相変わらず急ぎ足で仕事へ向かおうとしながらも、確実にその数字――家族のための日付と時刻――を確認していた。


 安西は男と目を合わせることもなく、スポーツ新聞を棚に戻した。


 コンビニで温かいほうじ茶のペットボトルを一本だけ買い、マンションへ戻る道を歩く。


 雨は小降りになっていたが、空はまだ重い灰色だった。


 通りの向こう側を、青いパッカー車がゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。集積所の可燃ごみを回収し終えて、処理施設へ向かう途中なのだろう。


 あの青木という収集員も、この雨の中で、重くなったごみ袋を淡々と積み込んでいたはずだ。彼は安西に何か特別なアドバイスをしたわけではないし、安西の膝の痛みを治してくれるわけでもない。ただ、彼らの仕事の気配だけが、街の確かな生活音としてそこに存在していた。


 部屋に戻った安西は、濡れた傘を玄関の端に立てかけ、三和土に置かれたままの釣竿のケースを一瞥した。


 リビングに入り、パソコンの前にもう一度座る。


 安西はスマートフォンの画面をスワイプし、天気アプリを開いた。


 画面をスクロールして、来週の火曜日の週間予報を見る。


『晴れ時々曇り。降水確率二十パーセント。最高気温二十六度』


 気温も低すぎず、雨の心配も少なそうだ。


 安西はパソコンのマウスを動かし、デスクトップにある『老後資金シミュレーション』のエクセルファイルを開いた。


 月に一回の交通費とエサ代を払っても、まだ足りる。


 安西は膝を軽く手でさすりながら、スマートフォンで小野とのトーク画面を開いた。


『来週の火曜日は、降水確率も低そうだ。晴れそうなら、どうだ』


 具体的な日を伴った返信を打ち込み、送信する。


 玄関では、黒い釣竿ケースがまだ濡れずに立っていた。

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