第17話 残しても足りる
スーパーマーケットの蛍光灯の下で、安西隆の頭の中は常に小さな数字の計算機としてフル稼働していた。
水曜日の昼下がり。安西は青果コーナーで、二つのトマトのパックを両手に持ち、その重さと値札を交互に見比べていた。左は三個入りで二百九十八円、右は四個入りで三百五十円。グラム単価に換算すれば右の方がわずかに安いが、一人暮らしの自分が腐らせずに食べきれる量を考えれば、左のほうが結果的な「損」は少ない。
安西は左のパックをカゴに入れ、ゆっくりと鮮魚コーナーへ向かった。
定年退職まで一年を切り、老後資金のシミュレーション結果に怯える安西にとって、日々の買い物における一円単位の節約は、自分の命を少しでも長引かせるための強迫的な儀式だった。
魚の棚の前に、見覚えのある広い背中があった。平日の昼にこの店へ来ると、私服の彼を何度か見かけたことがある。
いつもマンションの集積所で顔を合わせる、青木というごみ収集員だ。今日は休みなのか、作業着ではなく、洗いざらしのシャツにチノパンというラフな私服姿だった。
青木は、並べられたアジのパックの前でじっと立ち止まっていた。
安西は少し離れた場所から、同情的な眼差しで青木を観察した。彼も自分と同じように、一円でも安い魚を探しているのだろうと思った。
だが、安西の予想に反して、青木は値札の数字をほとんど見ていなかった。
青木は二つのパックを手に取ると、身の厚さ、目の濁り具合、そして「今の自分が食べきれる量かどうか」だけをじっくりと見比べた。そして、少しだけ値段の高い方の、丸々と太った真アジのパックを迷いなくカゴに入れた。
安西には、青木が値札よりも、魚の目や身の厚さを見て選んでいるように見えた。
レジに並ぶ安西の前には、偶然にも青木が立っていた。
安西は自分の番を待ちながら、財布の中から小銭を細かく数えて取り出していた。少しでも端数を出さないようにする、これも長年の習慣だった。
青木の番になった。安西は、彼がどれだけもたついて小銭を探すのかと、少し意地悪な気持ちでサッカー台の方から観察した。
しかし、青木は財布を出さなかった。
レジの店員が「合計で千二百五十円になります」と読み上げると、青木はポケットからスマートフォンを取り出し、決済端末にサッとかざしただけだった。「ピッ」という短い電子音が鳴り、一瞬で支払いが完了する。
その時、安西は青木が片耳に小さなワイヤレスイヤホンをつけていることに気がついた。
イヤホンから、かすかに「合計、千二百五十円。支払い完了」という機械音声が漏れた。青木はそれを聞いてから、レシートを受け取った。
安西は、自分の手の中でジャラジャラと鳴る小銭の感触を確かめながら、静かな衝撃を受けていた。
青木は真アジの入った袋を提げて、店を出ていった。
安西の手には、会計前に数えた十円玉と一円玉が残った。
同じ水曜日の夕方。
森川湊は、クーラーの効いた自室のアパートで、シャツをまくり上げて自分の腰の右側に冷感湿布を貼り付けていた。
朝から降り続いた雨のせいで、今日の古紙の束はどれも泥のように重かった。背中を丸めて無理な姿勢で荷台へ持ち上げようとした瞬間、腰の奥でピキッという嫌な音が鳴ったような気がしたのだ。
本格的なぎっくり腰ではないが、鈍い違和感がじんわりと居座っている。
森川はベッドにうつ伏せに倒れ込み、スマートフォンでメモアプリを開いた。
画面に表示された『転職条件』の表。
『固定給:現状+四万円』
『歩合:契約一件につき五パーセント』
『年間休日:百二十日』
ここまでは、すでに埋まっている魅力的な数字だ。
森川はカーソルを下に移動させ、新しく一行を追加した。
『何歳まで続けられる仕事か』
先日、修が「将来不安はありますよ。腰とか」とこぼしていたこと。そして、集積所でいつも顔を合わせる、膝を引きずって歩くあの初老の男の姿。
いくら今の年収が跳ね上がったとしても、全国を飛び回る新規開拓営業で身体や心を壊してしまえば、その数字は一瞬で消え去り、あとには使い物にならなくなった自分が残るだけだ。
森川は腰の湿布を上から軽く押さえた。翌朝も袋を持ち上げられるのか試すように、ゆっくりと身を起こした。
安西は、自分の部屋のダイニングテーブルに座り、部屋の隅に立てかけられた黒い釣竿のケースを見つめていた。
昨日の朝、集積所で捨てようとして、結局持ち帰ってきてしまったものだ。
安西はマウスを動かし、パソコンの画面に表示された『老後資金シミュレーション』のエクセル表を再びアクティブにした。
支出の欄に新しく追加した、『趣味・レジャー費』の項目。月に一回、電車で海へ行くための交通費と、安いエサ代。
安西は金額をもう一度入力し、九十歳時点の残高がマイナスにならないことを確かめた。
安西はスマートフォンを取り出し、アドレス帳をスクロールした。
妻の看病が始まってからずっと疎遠になっていた、古くからの釣り仲間の名前を見つける。
『急にご無沙汰してすまない。来週の火曜日、久しぶりに海に行かないか』
短いメッセージを打ち込み、送信ボタンを押す。
すぐに返信が来るかは分からない。相手にも相手の生活がある。
安西は立ち上がり、納戸から古い仕掛け箱を引っ張り出した。錆びた針を一つ外し、まだ使えそうな浮きをダイニングテーブルに並べる。
膝を軽くさすりながら、安西は久しぶりに声を上げて笑った。




