第16話 あと何年
六十一歳の安西隆にとって、エクセルの画面に並ぶ数字は、自分の余命をカウントダウンする冷酷な砂時計のように見えた。
定年退職まで、あと一年を切っている。火曜日の早朝、安西は薄暗いリビングのパソコンで、自分で作った『老後資金シミュレーション』のファイルを開いていた。
六十五歳から受け取る予定の年金支給額。退職金の見込み。現在の貯蓄額。それらを収入の柱として入力し、毎月の生活費、マンションの管理費、保険料、そして予備費を差し引いていく。セルの計算式が弾き出した残高は、彼が九十歳を迎える頃には、ひどく心許ない桁数にまで目減りしていた。
「……こんなものか」
ため息とともに呟き、マウスから手を離す。
数年前に妻を病気で亡くし、子供たちは独立して遠方に住んでいる。この広い3LDKのマンションで、安西は完全に一人だった。
パソコンの前から立ち上がろうとした瞬間、右膝の奥にピリッとした鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめて動きを止めた。数年前から悩まされている、軟骨のすり減りによる関節痛だ。
身体は確実に衰えていく。妻がいない孤独な部屋で、もし自分が動けなくなったらどうなるのか。介護が必要になれば、あのエクセルの残高はあっという間に底をつく。
長生きすることは、金がかかるということだ。収入が途絶える以上、これからの人生において無駄遣いは一円たりとも許されない。少しでも資産を長持ちさせるためには、生活を極限まで縮小し、身の回りのものを整理するしかなかった。
安西は足を引きずりながら、廊下の奥にある納戸のドアを開けた。
奥の方に埃を被って立てかけられていた、黒い長細いケースを引きずり出す。中に入っているのは、カーボンの釣竿とリールのセットだった。
若い頃は、週末になれば車を走らせて海へ通っていた。だが、妻の看病が始まり、自身の膝を悪くしてからは、もう五年以上一度も釣りに行っていない。
釣りは金がかかる。交通費、エサ代、渡船料。今の自分には過ぎた娯楽だ。持っていても場所を取るだけで、どうせもう二度と行くことはない。
安西は決意を固め、週末に出た可燃ごみの袋と一緒に、釣竿のケースを抱えて玄関を出た。粗大ごみになるのか、あるいは不燃ごみで出せるサイズなのか、収集のついでに作業員に聞いてみようと思った。
エレベーターで一階に降り、エントランスを抜ける。
すれ違ったのは、同じマンションの別の階に住んでいる、三十歳手前くらいの若い女性だった。彼女は耳にスマートフォンを当て、少し早口で通話していた。
「……うん、話してて楽ではあった。でも、年収の条件は外せないから」
安西には何の話か分からなかった。女性は通話を続けたまま、駅の方へ歩いていった。
集積所へ近づく前から、回転板の低い唸りが聞こえていた。敷地の端では、青いパッカー車のハザードランプが湿った路面を明滅させている。
九月に入ったとはいえ、朝からまとわりつくような湿気と熱気がある。黒い釣竿ケースの硬い角が、安西の痛む膝の脇に何度も当たった。
二人の作業員が、黙々と袋を車へ投げ込んでいる。回転板が短く唸るたび、ケースを持つ手に力が入った。
安西は少し離れた場所で足を止め、その様子を眺めた。
作業員の一人、胸に『青木』と名札をつけたがっしりとした体格の男が、腰を落として重い袋を持ち上げている。
年齢は、三十代の後半といったところか。
安西は、無意識のうちに彼を自分のエクセルの試算表に当てはめていた。あんな過酷で危険な肉体労働をしていても、委託業者の給料などたかが知れているだろう。彼には退職金も、十分な老後資金もないはずだ。
自分よりもずっと資産がなく、悲惨な老後が待っているはずの男。それなのに、なぜ彼はあんなに淡々と、焦る様子もなく平然と働いていられるのか。
無計画なのだろう、と安西は同情に似た優越感を抱いた。自分の人生の「あと何年」を計算できない人間は、ただ目の前の労働をこなすしかないのだ。
安西は可燃ごみの袋をネットの端に置き、手に持っていた釣竿のケースをどうしようか迷った。
「あの、これも出します?」
ごみを車に積み終えた青木が、振り返って安西の手元を見た。
「え? ああ、捨てるつもりなんだが。これは……」
安西が言いかけた時、青木はケースの隙間から覗いているコルクのグリップと、メーカーのロゴに視線を落とした。
青木はそれを品定めするように見つめ、何の気負いもない、ただの素朴な感想として口に出した。
「これ、いい竿ですね」
その一言に、安西の心臓が小さく跳ねた。
いい竿だ。安西が三十代の頃、ボーナスをはたいて買った思い入れのあるロッド。これで何度も青物を釣り上げ、妻と一緒に塩焼きにして食べた記憶が、グリップの手垢とともに染み付いている。
「……粗大ごみになりますか」
「はい。長さがあるので、この車では巻き込めません。市の受付に予約して、シールを貼って出してください」
青木は事務的な手順だけを説明した。彼が安西の人生に踏み込んで、「もったいないから取っておきなさい」などと説教をしてくるわけではない。
「予約、か……」
安西は、釣竿のケースを握る手に力を込めた。
「捨てるんですよね?」
青木が確認するように首を傾げた。
安西は「ああ、捨てる」と即答するつもりだった。老後資金を守るために、無駄なものは全て切り捨てるのだと決めていたはずだった。
しかし、どうしてもその言葉が喉を通り抜けなかった。
膝の痛み。孤独な部屋。エクセルの無機質な数字。それらの恐怖に追い立てられて、自分の人生の残り時間から「楽しみ」を完全に消去してしまって、本当にいいのだろうか。
「……いや。今日はやめておく」
安西は目を伏せ、釣竿を胸に抱き直した。
「そうですか。じゃあ、置いておきますね」
青木はそれ以上追及することもなく、短く会釈をして助手席に乗り込んだ。パッカー車が重いエンジン音を響かせて去っていくのを、安西はしばらく立ち尽くして見送っていた。
部屋に戻った安西は、パソコンの前にもう一度座り、スリープ状態になっていたエクセルの画面を立ち上げた。
老後資金シミュレーションの表。
安西は、支出の欄に『趣味・レジャー費』という新しい行を追加した。月に一回、近場の海へ行くための電車賃とエサ代。年に数万円の出費。
それを入力して再計算のボタンを押す。
一番下の残高のセルがチカッと切り替わる。確かに数字は減った。だが、九十歳になっても、生活が破綻してマイナスに転落するようなことにはなっていなかった。
安西は、デスクの横に立てかけた黒いケースを見つめた。
すぐに釣りに行けるほど、膝の調子が良いわけではない。それでも、月一回の交通費とエサ代を加えたセルは、赤字にならなかった。
安西はエクセルのファイルを上書き保存し、久しぶりに窓を開けて、秋の混じった風を部屋に入れた。




