第15話 次も点は上がらない
個別指導塾に通い始めてから二週間。
ダイニングテーブルの上に置かれた大輝の新しい模擬テストの答案には、右上の目立つ位置に赤ペンで『四十八』という数字が書かれていた。
矢野晴香は、その数字をじっと見つめたまま、奥歯を強く噛み締めた。
前回の五十二点から、上がっているどころか、わずかに下がっている。週に二回、安くない月謝を払って新しい塾に通わせ、先生にも「文章題の条件整理」という具体的な弱点を伝えて指導をお願いしているはずなのに。
月謝の引き落とし額と四十八点が、晴香の頭の中で嫌な形に並んだ。結果が出なければ、塾を替えた意味がない。
「どうして、またこんな点数……」
晴香の胸の奥で、押さえ込んでいた焦燥感が再び黒い炎となって燃え上がりそうになった。
個別塾なんて意味がなかったのではないか。あるいは、大輝には根本的に勉強の才能がないのではないか。怒りと絶望が入り混じった感情が喉元までせり上がり、今すぐ洗面所にいる大輝を呼びつけて怒鳴り散らしたい衝動に駆られた。
晴香は乱暴な手つきで、答案用紙の下にある『点数内訳表』を引き抜いた。
計算問題は相変わらず高い点数を維持している。そして、最も苦手としていた『長文読解(条件整理)』の項目。点数自体は、前回と変わらず十点にも満たない低い数字だった。
だが、内訳表と一緒にホッチキスで留められていた大輝の『問題用紙』の方をめくった時、晴香の手が止まった。
長文の算数問題の余白に、大輝の拙い字で、いくつもの数字や図形が書き込まれていたのだ。
問題文の中の『三人で分ける』や『二十分後』といった条件の数字の下には、鉛筆で波線が引かれている。さらに、その横には、彼なりに文章の状況を整理しようとして描いたらしい、不格好な線分図の途中式が残されていた。
答えは間違っている。計算式も途中で破綻している。それでも、問題文の数字から余白の線分図へ、何本もの鉛筆の線が引かれていた。
晴香の脳裏に、数日前の集積所で見かけた、あの作業員の姿がよぎった。
紙袋を前にいち早く手を止めながら、理由を言葉にできず、森川の説明に頷いていた青木。
「お母さん、俺のテスト……」
洗面所から戻ってきた大輝が、テーブルの上の答案用紙を見て、少しだけ身を強張らせた。怒鳴られるのを覚悟している顔だった。
晴香はゆっくりと息を吐き出し、込み上げていた怒りを飲み込んだ。
「大輝、ちょっとここに座りなさい」
「……ごめんなさい」
「怒ってないから。ねえ、この文章題なんだけど」
晴香は大輝を隣の椅子に座らせ、問題用紙の余白に描かれた不格好な線分図を指差した。
「ここ、どうやって考えたの?」
大輝は驚いたように晴香の顔を見上げ、それから恐る恐る口を開いた。
「えっと……三人が十個ずつ飴を持ってて、でも途中で二人が五個ずつ食べたから……ここの数字を足してから引くのかと思ったんだけど、途中で分かんなくなって……」
要領を得ない、つっかえつっかえの説明だった。
以前の晴香なら、「だからそこが違うんでしょ! もっとちゃんと読みなさい!」と途中で言葉を遮っていただろう。
しかし、今の晴香は黙って大輝の説明を最後まで聞いた。
点数は上がっていない。答えも間違っている。だが、大輝が問題文の「どこを読み違えて、どう迷ったのか」という過程だけは、二人の間で共有することができた。
「そっか。ここはね、足すんじゃなくて……」
晴香は鉛筆を手に取り、大輝と一緒に図の続きを書き始めた。
晴香は大輝が迷った箇所に小さく丸をつけ、その横から一緒に式を書き直した。
翌朝。
晴香は可燃ごみの袋を提げて、マンションの一階にある集積所へ向かった。
空を覆う雲は高く、吹き抜ける風には少しだけ秋の気配が混じり始めている。集積所では、青いパッカー車の回転板が短く鳴った。
作業員たちが、額に汗を浮かべながら次々と袋を投げ込んでいた。あの青木という男も、いつもと同じように泥と汗にまみれたタオルを首に巻き、黙々と重い袋を持ち上げている。
晴香は集積所のネットの端に、ごみ袋を静かに置いた。
ふと、青木と一瞬だけ目が合った。
晴香は軽く頭を下げ、ごく普通のトーンで口を開いた。
「おはようございます」
青木は少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの平坦な声で返してきた。
「おはようございます」
それだけの、短いやり取り。
青木はすぐに次の袋へと向き直り、晴香も踵を返してマンションのエントランスへと向かった。
マンションへ戻ると、大輝の問題用紙がダイニングテーブルに開いたままになっていた。晴香は片付けず、線分図の横へ鉛筆を一本置いた。




