アリューシャン列島を巡る戦い
昭和18年に入って日本側は守りの態勢に入ったが、米国は新造艦艇の戦力化を急ぎつつ、日本側の防御が整っておらず、なおかつ艦隊戦力が少ない北方方面からの反攻に打って出た。
時を遡ること1年ほど前、日本軍はミッドウェー攻略作戦は中止したものの、米領アリューシャン列島への上陸作戦を展開し、ほぼ無傷でキスカならびにアッツ島を攻略した。
日本側としてはここに航空基地を建設し、北方からの米国への牽制を狙ったのであるが、厳しい海象ならびに不十分な補給体制のために、飛行場建設は進まず、それどころか米国側が近傍のアダック島に航空基地を設定して、キスカ・アッツどころか北千島に爆撃を仕掛ける始末で、昭和18年初頭時点で日本がこの地を占領している意味は、単に米国領土を占領しているという事実だけであった。
そのため、日本側はアッツ島からは撤収し、キスカ島に戦力を集中したものの、いずれここからも「転進」名目で戦力を、完全に引き揚げさせる算段であった。
守勢に入ると決した以上、陸海軍上層部としては遊兵と化しているこれらを引揚げて、満州やニューギニア方面に転用したいというのが、本音であった。
この動きは1943年4月頃から本格化し、キスカに物資を運んできた駆逐艦や潜水艦が復路では撤退する兵士や資材を載せて、千島の幌筵へと帰還していった。
対して、ソロモン方面での反攻が不発に終わった米国は戦略を変更し、充分な戦力(特に艦隊戦力)が揃う1943年末頃までは、日本側のニューギニア完全占領阻止という守勢と、このアリューシャンやマキン・タラワなど日本側が占領に難渋し、その兵站線の最果てである地を切り崩す方針としていた。
この戦略に則り、1943年6月にアリューシャン方面での反攻が開始された。
米軍は戦艦「ペンシルヴァニア」「テネシー」を中心とする艦隊に守られた1個師団をアッツ島に送り込み、奪還を図ったが、これは先にも書いたとおり、既にアッツ島の日本軍部隊がキスカに撤退していたため、空振りに終わった。と言うよりも、先にも書いたとおり、日本側はキスカからも段階的に撤退を行っており、あと1回艦隊が入港すれば、総撤退完了というところまで来ていた。
米軍側がこの日本の動きを見逃したのは、厳しい海象による偵察の難しさや、日本側の無線封鎖、通信傍受がニューギニア方面に向けられ、不十分な解析しかなされていなかったなどが重なった結果であった。
とにかく、アッツ島の奪還なった米軍は、補給を終えるとそのままの勢いで、キスカ島の攻略に掛かった。時に1943年7月のことである。
対する日本側も戦艦「讃岐」を旗艦とする第五艦隊を派遣し、撤退部隊の援護を図った。
この時「ネーデルランド」改め「讃岐」は日本本土での修理・改装を終えて、第五艦隊に久方ぶりの戦艦として配置され、その旗艦となっていた。
これは米国への対抗という意味もあったが、それとともに北で蠢動するソ連への牽制であった。
対独戦に忙しく、海軍力は乏しいとは言え、満州と国境を接するソ連の陸軍力は脅威であり、日本が米英などとの戦争に忙殺されている間に、何かしらの動きを起こさないとも限らない。
そのために、日本側としては優位な海軍力での牽制を図ったのである。
しかし「讃岐」は戦艦とはいうものの、搭載主砲の口径は12インチ砲であり、14インチ砲を搭載する米戦艦相手には、不利は否めなかった。
そこで日本側はさらに、シンガポールで拿捕後最低限の修理と改装を終えていた巡洋戦艦「レパルス」改め戦艦「奥羽」を派遣した。同艦は15インチ砲を搭載しており、門数は少ないがこれで不利を覆せると踏んだわけだ。
ただし、その幌筵への到着は第五艦隊の出撃ギリギリとなり、補給の関係か出撃には間に合わず、結局第五艦隊の指揮下に入ることなく、独立部隊として後方から追随する形になった。
日本側の作戦では、第五艦隊主力がキスカ島周辺海域で米艦隊を牽制(日本はキスカ島を放棄するので、敵艦隊を撃破する必要は無い)しつつ、高速の軽巡、駆逐艦で固めた第一水雷戦隊の一部を用いてキスカ島の兵力を回収、撤退する腹づもりであった。
ところが、キスカ奪還ならびに、その阻止(実際は撤退だが)に出動した日本艦隊撃破を目指す米艦隊と、撤退の援護を図る日本艦隊との戦闘は、双方共に全く想定外の連続となった。
原因は現場海域の海象にあった。両艦隊が展開した際、アリューシャン列島は度々濃い霧に覆われていた。
このため、米艦隊はキスカ島周辺を遊弋中に、レーダーに映ったゴーストに度々砲撃を行うことになり、砲弾を浪費して補給のため無為に後方へ下がる事態となった。
一方の日本側も、霧の中での行動のために艦艇同士の衝突や接触事故が多発し、戦力の半数をキスカ進出を前に喪った。さらに撤退部隊までもが、悪天候と米艦隊の動きを掴めなかったために、一度引き返すという事態になった。
このため、第五艦隊は洋上で再編を行い、戦艦「讃岐」ならびに重巡「足柄」と駆逐艦4隻が撤退援護のためキスカ島沖合に留まり、その間に軽巡2と駆逐艦3からなる第一水雷戦隊の一部がキスカ湾に突入した。
もしここで、米艦隊と遭遇していたら第五艦隊の苦戦は免れなかったのだが、そこへようやく追いついてきた「奥羽」と駆逐艦2隻が合流し、不完全ながら戦隊を組んだ。
対する米側は、補給を終わらせて先行した重巡「ソルトレイクシティ」ならびに軽巡「リッチモンド」及び5隻の駆逐艦が、ついにゴーストではない正真正銘の第五艦隊をレーダーで捕捉し、先制攻撃に撃って出た。
対する日本側も「讃岐」と「奥羽」の電探で米艦隊を遅れて捕捉したが、米側より性能に劣るために詳細な位置は掴めず、一方的に砲撃を受けることとなった。
幸いだったのは「讃岐」と「奥羽」ともに数発を被弾したが、いずれも致命傷にならなかったことである。戦艦であることが、ここで幸いした。
そして海戦開始から30分後、風が出て視界が多少回復し、朧気ながら発砲炎を捕捉した第五艦隊は、自棄っぱちの反撃に出た。
当たることは期待していなかったが、30,5cm砲と38cm砲で反撃を行ったのである。
数回斉射したところで、日本側は轟音を聞き、直後米側の砲撃が止まったことから、艦種不詳の1隻撃沈と記録した。
それからほどなくして、第一水雷戦隊からの撤退成功電を受信したため、第五艦隊も砲撃を終了し撤退した。
この時日本側は艦種不詳の1隻撃沈としたが、沈んだのはなんと米艦隊の先頭を走っていた重巡の「ソルトレイクシティ」であった。同艦は「讃岐」と「奥羽」の砲弾を1発ずつ、ほぼ同時に食らった。
「讃岐」の30,5cm砲弾が煙突付近に命中して爆発した直後、前部砲塔弾薬庫に38cm砲弾が飛び込み、同艦の艦橋より前部を瞬時に吹き飛ばし、艦体を2つにへし折ったのである。
もちろん、同艦はその打撃に耐えられるはずもなく、15分後には沈没した。
米側の砲撃が止んだのは「ソルトレイクシティ」に後続していた「リッチモンド」が緊急回避し、駆逐艦も、救助のために戦闘どころではなくなったためである。
戦艦による格下の巡洋艦撃破という、日本海軍が戦艦に期待した戦果がここでも発揮されたのであるが、第五艦隊がその事実を知るのは、幌筵帰港後に陸上基地が捉えた米軍の電波傍受の記録を伝達されてからだった。
こうして、アリューシャン列島を巡る戦いは終わり、第五艦隊配備の「讃岐」はしばらく北の海で、平穏な時間を過ごすこととなる。
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