ふたつの希望 その6
連邦歴三三六年九月三日。
甲高い呼び鈴の音に眠りを破られたユナは、網膜画像の時間を見た。まだ、午前四時だった。一時間も寝てない。
(どこかの馬鹿の悪戯か)
ユナは、しばらく無視して横になっていたが、こちらの都合もお構いなしに再び鳴ってしまう。
そんなに緊急性のある出来事なんか無かった筈だ。
今更、人類滅亡以上のニュースがある訳でも無い。
また、鳴った。
軽く舌打ちしたユナは、仕方無く重い体をベッドから引き剥がす事にした。
まだ、頭がぼーっとして、体に酸素が行き渡っていない。
「ふー……」
ユナは、長い髪をかき上げると、大きく息を吐いた。
(宗教の勧誘だったら、蹴飛ばしてやる)
リビングにはインターホンがあるが、節電の為、電気が通じないようにしている。
呼び鈴は、後から自分で付けたものだ。
ユナは、ドアスコープを覗き込んだ。レンズを通して外を見るという古臭い方法が再使用されたのもごく最近の事だ。
(あら……)
歪みのある魚眼レンズの向こうにいたのは、良く見知った男だった。
ユナは、少し躊躇した。今更、この人物が訪れるとは……。
と言うより、この男がユナを訪ねて来る理由は、もう無い筈だった。
ユナはドアを少し開けて、声だけを表に出した。オートシステムはとっくの昔に姿を消している。重いドアをドアチェーンの半分だけ横にずらす。
「お久し振りです」
ユナは、半分寝ている頭を振り絞りながら頭を下げた。
「用があるなら、電話でもいいんじゃないですか?」
視界の向こうで、ぼやけた灯りの下、上級士官の制服が存在を主張している。
「電話では、≪ネオ≫に聞かれる恐れがある。大事な話だ」
初老の日系人の男が聞き慣れた低音の声を発した。
「こんな時間に悪いが、緊急の用事でな」
緊急と言う言葉を久し振りに聞いた気がする。
「軍のトップにいる方が使い走りのような事をしてたら、示しが付かないですよ」
「それ程大事な用件だと分かって貰いたいんだ」
確かに、ユナも薄々気付いていた。これは、只事では無い、と。
ユナの元上司、グレイナー=タキザワ。
ユナの士官学校での作戦指導教官であり、現場では中将として≪アカツキ≫自治政府軍防衛長官まで昇り詰めている。
責任感が強く、頑固で曲がった事が嫌いで、部下への思いやりの強い性格だった。
その反面、人の好き嫌いが激しく、自分に合わないと思った人物とはとことん折り合いが悪かった。
只、自分に無い才能を持つ者に対しては、素直に認める所がある。ユナに対しても、その独特な感性を気に入り、当時数少ない後援者のひとりだった。
「今更、≪ネオ≫を気にしてどうするんですか」
確かにオンラインの情報は≪ネオ≫に盗聴される可能性はある。≪ネオ≫の脅威が持ち上がって以降、連邦政府を中心として、人類社会は各所でデータ回線を分断し、防諜網を固め、不便も覚悟の上で情報の漏洩を避けようとして来た。
何しろ、世界はデータの沃野で一体化していたのだ。一回入り込まれたら、全ての情報が≪ネオ≫に筒抜けになってしまう。
回線の分断が実際に効果あったのかは誰にも分からないし、本当に漏洩を止める事が出来たのかも分からない。それでも、やらなければならなかった。
しかし、それを気にし過ぎては、何も出来無いのも確かだ。
「もう、私の人生には、大事なイベントは残ってない筈ですが……」
ドアの隙間から、呟いてみる。
「そんな言葉遊びをしている暇は無いんだ。分かっているだろう」
有無を言わさぬ威圧感。歳を重ねても相変わらずの威厳を備えている。
何かを期待したのでは無いと後で思う事になる。只、以前世話になった借りがあるという負い目が心に残っていた為だ、と。でないと、ドアを開けなかった筈だ、と。
ユナは、軽く溜め息をついた。今更、何の用があるのやら。
「……五分待って下さい」
「表に車を置いている」
「……じゃあ、二十分です。女性の身だしなみは大事ですので」
「言っておくが、その十五分がどれ程大事なものか、後で分かっても後悔するなよ」
グレイナーは、そう言うと、踵を返して去って行った。
(後悔は、何十回となくしているのですが……)
ユナは、遠ざかる足音を耳にしながら、まだ靄の残る頭と格闘していた。




