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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
情報の砂漠を歩く

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9/22

エラー扱いの視線


 噂というのは、足がある。


 それも集合知の世界では、音速より速い足が。


 月曜日の朝、出社した瞬間に分かった。エントランスのガラスドアをくぐって、オフィスフロアに足を踏み入れた、その瞬間に。


 空気が、変わった。


 正確には、変わったんじゃない。もともとそうだったものが、今日は隠されていなかった。



 自席に向かいながら、周囲を観察した。


 みんな、仕事をしている。画面を見ている。虚空を眺めている。いつも通りの朝だ。


 でも違う。


 視線が、ちらちらする。一瞬だけ、こちらを見て、すぐに逸れる。その「一瞬」の中に何かがある。品定めするような、距離を測るような、何か。


 集合知越しに、情報が流れているんだろう。


 -- 長谷川遥斗、接続不良。原因不明。経緯はこうで―― --


 言葉にはならない。でもきっと、そういうことだ。


 席に座って、パソコンを開いた。画面に自分の顔が薄く映った。普通の顔だと思う。でも今日は、その顔が「エラーを抱えた顔」として認識されている。



 午前中、三回ほど妙なことが起きた。


 一回目。給湯室でコーヒーを淹れていたら、後から入ってきた佐藤さんが僕を見て、一瞬固まった。それから「あ、お先にどうぞ」と言って、廊下に戻っていった。


 コーヒーメーカーは二台ある。先にどうぞ、という状況じゃなかった。


 二回目。エレベーターに乗ろうとしたら、中にいた三人が全員、ドアが閉まるぎりぎりまで無言だった。閉まった瞬間に、何かが流れたんだろう。かすかに空気が動くのを感じた。


 三回目。トイレから戻ったら、隣の席の木村さんが誰かと集合知越しに話していた。口は動いていない。でも僕が席に着いた瞬間、その「会話」が止まった。


 気のせいかもしれない。


 でも気のせいじゃない気もした。



 昼前に、山田が来た。


「なあ、ちょっといいか」


 声が、いつもより低かった。


「どうした」


「社内のグループチャンネルに、お前のこと流れてる」


 集合知には、公開チャンネルという概念がある。特定のグループ内で情報を共有する、いわばオープンな回線だ。会社の公式連絡から、非公式な噂話まで、いろんなものが流れる。


「なんて」


「接続不良のバグ、って」


 バグ。


 その単語が、妙に鮮明に聞こえた。


「誰が流したんだ」


「分からない。集合知の書き込みって、発信元を特定するのが難しいから。でも、かなり広まってる」


 山田は申し訳なさそうな顔をしていた。


「教えてくれてありがとう」


「……ごめんな、俺が止められたらよかったんだけど」


「山田のせいじゃない」


 そう言ってから、ふと考えた。


 止められたら、と山田は言った。集合知のチャンネルに流れる情報を「止める」ことは、技術的には可能だ。発信源に近い人間が、拡散を遮断するよう働きかければいい。


 山田はそれをしなかった。できなかったのか、しなかったのか。


 また疑いが頭をもたげて、僕は自分で自分を叱った。


 -- やめろ。また始まってる --



 午後になった。


 空気は、午前中よりさらに変わっていた。


 さっきまで普通に話しかけてきていた同僚たちが、なんとなく距離を置いている。廊下ですれ違っても、目が合わない。合っても、すぐ逸れる。


 透明な存在になっていく感覚があった。


 物理的にはそこにいる。席もある、仕事もある、コーヒーも飲める。でも、集合知のネットワークの上では、僕は「存在しない」のと同じだ。情報が届かない、同期できない、繋がれない。


 接続不良のバグ。


 その単語が、ずっと頭に引っかかっていた。



 十六時頃、川島部長に呼ばれた。


 部長室に入ると、川島部長はいつもより疲れた顔をしていた。


「座ってくれ」


 促されて椅子に座る。


「単刀直入に言う」と川島部長は言った。「いくつかのチームから、懸念の声が上がっている」


「懸念」


「接続不良の状態で業務に参加することへの、不安というか。その、チームの同期に影響が出るんじゃないかという話だ」


 僕は静かに聞いた。


「業務から外せということですか」


「そういうわけじゃない。ただ、少し体制を変えようと思って。しばらくは個人作業中心にしてもらって、チームの同期が必要な会議や共同作業は――」


「外してもらう」


「……配慮として、という意味で」


 配慮。


 その言葉の柔らかさと、中身の硬さが、アンバランスだった。


「分かりました」


 それだけ言った。


 川島部長は何か言いたそうだったけど、僕が立ち上がったら、それ以上は続けなかった。



 自席に戻って、モニターを見た。


 個人作業の案件リストが、すでに集合知経由で更新されていた。川島部長が部長室で話しながら、同時に手続きを進めていたんだろう。


 素早い。


 効率的だ。


 だから集合知は素晴らしいんだと、頭の中の別の自分が言う。


 でも、なんか、笑えた。笑えてしまった。


 僕が「配慮」の話を聞いている間に、すでに配慮の実行が完了していた。人間の言葉なんて、ただの事後報告だ。この世界では。



 十八時になった。


 定時で帰ることにした。残業する気になれなかった。


 荷物をまとめていると、木村さんが近づいてきた。


「長谷川くん」


「はい」


「……大変だな」


 それだけだった。


 木村さんはすぐに自分の席に戻った。


 大変だな、という三文字。


 それが本物の気遣いなのか、最適解の出力なのか、今の僕には分からない。でも木村さんはわざわざ立ち上がって、わざわざ歩いてきて、わざわざ声に出して言った。


 集合知があれば、立ち上がる必要も、歩く必要も、声に出す必要もない。


 なのに木村さんは、そうした。


 それがなんでか、少しだけ温かかった。



 エレベーターを待ちながら、今日一日を振り返った。


 佐藤さんに給湯室を避けられて、エレベーターで沈黙があって、チャンネルに「バグ」と流されて、チームから外されて。


 ひどい一日だった。


 でも、木村さんの「大変だな」が残っていた。


 三文字だけ。説明もフォローもなく、ただそれだけ。不完全で、ぶっきらぼうで、でもわざわざ声に出した三文字。


 集合知の世界では非効率この上ない伝え方だ。


 なのになんで、それが一番、届いた気がしたんだろう。



 外に出ると、夜風が冷たかった。


 駅へ向かいながら、「社会的な死」という言葉を思い浮かべた。


 大げさかもしれない。でも、あながち外れてもいない気がした。集合知のネットワークの上で「存在しない」ということは、この社会では半分、死んでいるようなものだ。情報が届かない、繋がれない、同期できない。透明になっていく。


 バグ扱いされながら、でも僕は今日も飯を食って、歩いて、ちゃんとここにいる。


 この足の感覚は、確かだ。


 アスファルトの硬さ。靴底を通じて伝わる感触。集合知には関係ない、ただの物理的な感覚。


 これは誰にも最適化されていない。


 僕だけのものだ。


 そう思いながら、人波の中を、ひとりで歩いた。



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