エラー扱いの視線
噂というのは、足がある。
それも集合知の世界では、音速より速い足が。
月曜日の朝、出社した瞬間に分かった。エントランスのガラスドアをくぐって、オフィスフロアに足を踏み入れた、その瞬間に。
空気が、変わった。
正確には、変わったんじゃない。もともとそうだったものが、今日は隠されていなかった。
◇
自席に向かいながら、周囲を観察した。
みんな、仕事をしている。画面を見ている。虚空を眺めている。いつも通りの朝だ。
でも違う。
視線が、ちらちらする。一瞬だけ、こちらを見て、すぐに逸れる。その「一瞬」の中に何かがある。品定めするような、距離を測るような、何か。
集合知越しに、情報が流れているんだろう。
-- 長谷川遥斗、接続不良。原因不明。経緯はこうで―― --
言葉にはならない。でもきっと、そういうことだ。
席に座って、パソコンを開いた。画面に自分の顔が薄く映った。普通の顔だと思う。でも今日は、その顔が「エラーを抱えた顔」として認識されている。
◇
午前中、三回ほど妙なことが起きた。
一回目。給湯室でコーヒーを淹れていたら、後から入ってきた佐藤さんが僕を見て、一瞬固まった。それから「あ、お先にどうぞ」と言って、廊下に戻っていった。
コーヒーメーカーは二台ある。先にどうぞ、という状況じゃなかった。
二回目。エレベーターに乗ろうとしたら、中にいた三人が全員、ドアが閉まるぎりぎりまで無言だった。閉まった瞬間に、何かが流れたんだろう。かすかに空気が動くのを感じた。
三回目。トイレから戻ったら、隣の席の木村さんが誰かと集合知越しに話していた。口は動いていない。でも僕が席に着いた瞬間、その「会話」が止まった。
気のせいかもしれない。
でも気のせいじゃない気もした。
◇
昼前に、山田が来た。
「なあ、ちょっといいか」
声が、いつもより低かった。
「どうした」
「社内のグループチャンネルに、お前のこと流れてる」
集合知には、公開チャンネルという概念がある。特定のグループ内で情報を共有する、いわばオープンな回線だ。会社の公式連絡から、非公式な噂話まで、いろんなものが流れる。
「なんて」
「接続不良のバグ、って」
バグ。
その単語が、妙に鮮明に聞こえた。
「誰が流したんだ」
「分からない。集合知の書き込みって、発信元を特定するのが難しいから。でも、かなり広まってる」
山田は申し訳なさそうな顔をしていた。
「教えてくれてありがとう」
「……ごめんな、俺が止められたらよかったんだけど」
「山田のせいじゃない」
そう言ってから、ふと考えた。
止められたら、と山田は言った。集合知のチャンネルに流れる情報を「止める」ことは、技術的には可能だ。発信源に近い人間が、拡散を遮断するよう働きかければいい。
山田はそれをしなかった。できなかったのか、しなかったのか。
また疑いが頭をもたげて、僕は自分で自分を叱った。
-- やめろ。また始まってる --
◇
午後になった。
空気は、午前中よりさらに変わっていた。
さっきまで普通に話しかけてきていた同僚たちが、なんとなく距離を置いている。廊下ですれ違っても、目が合わない。合っても、すぐ逸れる。
透明な存在になっていく感覚があった。
物理的にはそこにいる。席もある、仕事もある、コーヒーも飲める。でも、集合知のネットワークの上では、僕は「存在しない」のと同じだ。情報が届かない、同期できない、繋がれない。
接続不良のバグ。
その単語が、ずっと頭に引っかかっていた。
◇
十六時頃、川島部長に呼ばれた。
部長室に入ると、川島部長はいつもより疲れた顔をしていた。
「座ってくれ」
促されて椅子に座る。
「単刀直入に言う」と川島部長は言った。「いくつかのチームから、懸念の声が上がっている」
「懸念」
「接続不良の状態で業務に参加することへの、不安というか。その、チームの同期に影響が出るんじゃないかという話だ」
僕は静かに聞いた。
「業務から外せということですか」
「そういうわけじゃない。ただ、少し体制を変えようと思って。しばらくは個人作業中心にしてもらって、チームの同期が必要な会議や共同作業は――」
「外してもらう」
「……配慮として、という意味で」
配慮。
その言葉の柔らかさと、中身の硬さが、アンバランスだった。
「分かりました」
それだけ言った。
川島部長は何か言いたそうだったけど、僕が立ち上がったら、それ以上は続けなかった。
◇
自席に戻って、モニターを見た。
個人作業の案件リストが、すでに集合知経由で更新されていた。川島部長が部長室で話しながら、同時に手続きを進めていたんだろう。
素早い。
効率的だ。
だから集合知は素晴らしいんだと、頭の中の別の自分が言う。
でも、なんか、笑えた。笑えてしまった。
僕が「配慮」の話を聞いている間に、すでに配慮の実行が完了していた。人間の言葉なんて、ただの事後報告だ。この世界では。
◇
十八時になった。
定時で帰ることにした。残業する気になれなかった。
荷物をまとめていると、木村さんが近づいてきた。
「長谷川くん」
「はい」
「……大変だな」
それだけだった。
木村さんはすぐに自分の席に戻った。
大変だな、という三文字。
それが本物の気遣いなのか、最適解の出力なのか、今の僕には分からない。でも木村さんはわざわざ立ち上がって、わざわざ歩いてきて、わざわざ声に出して言った。
集合知があれば、立ち上がる必要も、歩く必要も、声に出す必要もない。
なのに木村さんは、そうした。
それがなんでか、少しだけ温かかった。
◇
エレベーターを待ちながら、今日一日を振り返った。
佐藤さんに給湯室を避けられて、エレベーターで沈黙があって、チャンネルに「バグ」と流されて、チームから外されて。
ひどい一日だった。
でも、木村さんの「大変だな」が残っていた。
三文字だけ。説明もフォローもなく、ただそれだけ。不完全で、ぶっきらぼうで、でもわざわざ声に出した三文字。
集合知の世界では非効率この上ない伝え方だ。
なのになんで、それが一番、届いた気がしたんだろう。
◇
外に出ると、夜風が冷たかった。
駅へ向かいながら、「社会的な死」という言葉を思い浮かべた。
大げさかもしれない。でも、あながち外れてもいない気がした。集合知のネットワークの上で「存在しない」ということは、この社会では半分、死んでいるようなものだ。情報が届かない、繋がれない、同期できない。透明になっていく。
バグ扱いされながら、でも僕は今日も飯を食って、歩いて、ちゃんとここにいる。
この足の感覚は、確かだ。
アスファルトの硬さ。靴底を通じて伝わる感触。集合知には関係ない、ただの物理的な感覚。
これは誰にも最適化されていない。
僕だけのものだ。
そう思いながら、人波の中を、ひとりで歩いた。




