表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
五感の再起動

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/22

迷宮の商店街


 帰り道を、間違えた。


 正確には、間違えたというより、分からなくなった。


 いつもは集合知が「最適なルートを案内します」と脳内に地図を展開してくれる。どこで曲がって、どの改札を使って、何番線に乗ればいいか。全部、自動で。


 でも今夜は、何もない。


 駅を出た瞬間に、右と左が分からなくなった。



 最初は余裕があった。


 スマートフォンのマップを開けばいい。それだけだ。集合知がなくたって、地図アプリくらいある。文明的な解決策だ。


 画面を開いて、現在地を確認して――バッテリーが三パーセントだった。


「……マジか」


 独り言が出た。


 充電ケーブルは会社のデスクに置いてきた。集合知があれば「バッテリー残量が低下しています」と朝に教えてくれたはずだ。でも今週はずっと、そのリマインダーがない。


 地図を開いた瞬間、画面が暗くなった。


 電源が落ちた。


 完全な沈黙。



 周囲を見回した。


 見覚えのない交差点だった。コンビニが一軒、居酒屋が一軒、後は暗い路地。どこかで電車の音がした。近くに線路があるんだろう。でもどの路線なのか、どの方角なのか、分からない。


 人に聞けばいい。


 そう思って、周りを見た。


 スーツ姿の男性が一人、歩いてくる。目は虚空を向いている。集合知にアクセス中だ。声をかけていいものか、迷った。集合知で処理中の人間に話しかけるのは、電話中の人に割り込む感覚に近い。


 でも背に腹は代えられない。


「あの、すみません」


 男性が立ち止まった。焦点がこちらに戻ってくる。二秒かかった。


「田端駅って、どっちの方向ですか」


 男性は一瞬、目の焦点をずらした。集合知で確認しているんだろう。三秒後に戻ってきて、「あっちです」と右を指さした。


「ありがとうございます」


 男性は頷いて、また虚空の中へ消えていった。



 右へ歩いた。


 五分歩いても、駅が見えなかった。


 もう五分歩いた。


 見えなかった。


 どこかで曲がるべきだったのかもしれない。でも「あっちです」という指さしだけでは、どこまで行けばいいのか分からない。集合知があれば「あと二百メートル、次の角を左」と精密に届くのに。


 また人に聞こうとしたけど、人通りが減っていた。


 気づいたら、細い路地に入り込んでいた。



 路地の両側に、古い店が並んでいた。


 シャッターが下りている店が多い。営業しているのは数軒だけ。でも看板の明かりがぽつぽつと灯って、昭和みたいな雰囲気の商店街が、夜の中に浮かんでいた。


 八百屋。金物屋。小さな本屋。洋品店。


 全部、こじんまりしていた。全部、古かった。全部、集合知の「周辺おすすめスポット」には絶対に出てこないやつだった。


 迷い込んだな、と思った。


 でも、不思議と焦りが薄れていた。



 ゆっくり歩きながら、店の前を通り過ぎた。


 八百屋には、夜でもキャベツが積んであった。値段が手書きで書いてある。「一玉百二十円」。集合知が弾き出すスーパーの最安値より高いかもしれないけど、その数字には体温があった。


 金物屋のショーウィンドウに、古い鍋が並んでいた。使い込まれた感じの、黒ずんだアルミの鍋。データには残らない時間の積み重ねが、表面ににじんでいた。


 本屋は電気がついていた。


 覗くと、老人が一人、レジの後ろで文庫本を読んでいた。客は誰もいない。でも老人は特に気にしていない様子で、ただ静かに本のページをめくっていた。


 その光景が、なんか好きだった。



 においがした。


 気づいたのは、商店街の奥に差し掛かった時だった。


 焦げた醤油の、鼻の奥を刺すような香り。それに混じって、甘い、こってりした、餡のにおい。


 お腹が、鳴った。


 恥ずかしいくらい、盛大に鳴った。


 そういえば、今日まともに食べていなかった。昼はサンドイッチを半分。夕方はコーヒーだけ。そのことに、においを嗅ぐまで気づかなかった。


 集合知があれば「食事から六時間が経過しています、血糖値の低下に注意してください」と届いていたはずだ。でも今日は何も来なかったから、空腹すら忘れていた。


 でもにおいは、集合知より正直だった。



 においの出所を探した。


 商店街の角を曲がると、小さな店があった。


 「たい焼き もち」という看板。手書きの文字。ガラス一枚の小さな店で、中年の女性が一人、鉄の型を挟んで黙々と焼いている。


 煙が上がるたびに、醤油と餡のにおいが濃くなった。


 お腹がまた鳴った。


「一個ください」


 気づいたら、店の前に立っていた。



 二百円だった。


 財布から小銭を出した。集合知があれば電子決済が一瞬で終わるけど、今日は小銭を数えた。百円玉が一枚、五十円玉が一枚、十円玉が五枚。


「はい、どうぞ」


 女性が紙に包んで渡してくれた。


 受け取った瞬間、熱さが手のひらに伝わった。


 本物の熱さだ。データじゃない。誰かが「推奨する温度」として設定したものじゃない。炭火で焼かれた鉄型から生まれた、ただの物理的な熱。


 それが、妙に嬉しかった。



 商店街の端に、古いベンチがあった。


 座って、たい焼きの紙を開いた。


 きつね色に焼けた表面に、ところどころ焦げ目がついている。完璧な形じゃない。少し左半身が膨らんでいて、右のヒレが薄い。不均一だ。


 集合知が選ぶ「最適な食品」ではないかもしれない。


 でも、においが凄かった。


 一口、かじった。


 熱かった。舌が、少し焼けた。


 それでも、甘さが来た。つぶ餡の、砂糖と小豆の、じわりと広がる甘さ。皮はさくっとして、中はもちっとして、焦げた部分がわずかに苦くて、その苦さが甘さを引き立てていた。


 思わず、目を閉じた。



 これは、美味しい。


 データが言う「最適な栄養バランス」でも、「本日の推奨メニュー」でも、「相性スコア九十二点の食品」でもない。


 ただ、美味しい。


 集合知が脳に直接届ける快楽信号というのがある。食事の満足感を最大化するために、脳内物質を微調整するシステムだ。接続している時は、毎食後にそれが働いていた。


 今日は、それがない。


 でも、このたい焼きは美味しかった。


 信号がなくても、調整がなくても、舌の上の感覚が「美味しい」と言っていた。


 それが、こんなに鮮烈だとは思わなかった。



 二口目を食べながら、空を見た。


 星が出ていた。


 都内で星が見えることは少ない。光害で消えてしまうから。でも今夜は空気が澄んでいるのか、二つか三つ、はっきりと光っている。


 集合知があれば「あれはベガです」「あれはアルタイルです」と即座に教えてくれるんだろう。


 でも今夜は誰も教えてくれない。


 ただの星だ。名前も知らない、ただの白い光。


 それでいいか、と思った。


 名前を知らなくても、光っている。


 たい焼きを知らなくても、美味しかった。


 集合知がなくても、お腹は空いて、においに引っ張られて、熱さに驚いて、甘さに目を閉じる。


 それが「生きていること」なんじゃないか、と、ぼんやり思った。



 たい焼きを食べ終えて、立ち上がった。


 紙を丁寧に折りたたんで、ゴミ箱に捨てた。


 商店街の出口を探して歩き始める。


 五分くらいで大通りに出た。駅の看板が見えた。思ったより近かった。迷っていたのは、ほんの数百メートルの範囲だったらしい。


 でも、良かった。


 迷わなければ、あの商店街を通らなかった。においに気づかなかった。たい焼きを食べなかった。


 集合知の「最適なルート」は、きっとここを通らない。効率的な道は、もっと広くて、明るくて、まっすぐだ。


 迷子になって、初めて通れる道がある。


 そんなことを考えながら、駅の階段を下りた。


 手のひらに、まだ熱さの名残があった。


 たい焼きの、二百円の、誰にも最適化されていない、熱さの名残が。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ