迷宮の商店街
帰り道を、間違えた。
正確には、間違えたというより、分からなくなった。
いつもは集合知が「最適なルートを案内します」と脳内に地図を展開してくれる。どこで曲がって、どの改札を使って、何番線に乗ればいいか。全部、自動で。
でも今夜は、何もない。
駅を出た瞬間に、右と左が分からなくなった。
◇
最初は余裕があった。
スマートフォンのマップを開けばいい。それだけだ。集合知がなくたって、地図アプリくらいある。文明的な解決策だ。
画面を開いて、現在地を確認して――バッテリーが三パーセントだった。
「……マジか」
独り言が出た。
充電ケーブルは会社のデスクに置いてきた。集合知があれば「バッテリー残量が低下しています」と朝に教えてくれたはずだ。でも今週はずっと、そのリマインダーがない。
地図を開いた瞬間、画面が暗くなった。
電源が落ちた。
完全な沈黙。
◇
周囲を見回した。
見覚えのない交差点だった。コンビニが一軒、居酒屋が一軒、後は暗い路地。どこかで電車の音がした。近くに線路があるんだろう。でもどの路線なのか、どの方角なのか、分からない。
人に聞けばいい。
そう思って、周りを見た。
スーツ姿の男性が一人、歩いてくる。目は虚空を向いている。集合知にアクセス中だ。声をかけていいものか、迷った。集合知で処理中の人間に話しかけるのは、電話中の人に割り込む感覚に近い。
でも背に腹は代えられない。
「あの、すみません」
男性が立ち止まった。焦点がこちらに戻ってくる。二秒かかった。
「田端駅って、どっちの方向ですか」
男性は一瞬、目の焦点をずらした。集合知で確認しているんだろう。三秒後に戻ってきて、「あっちです」と右を指さした。
「ありがとうございます」
男性は頷いて、また虚空の中へ消えていった。
◇
右へ歩いた。
五分歩いても、駅が見えなかった。
もう五分歩いた。
見えなかった。
どこかで曲がるべきだったのかもしれない。でも「あっちです」という指さしだけでは、どこまで行けばいいのか分からない。集合知があれば「あと二百メートル、次の角を左」と精密に届くのに。
また人に聞こうとしたけど、人通りが減っていた。
気づいたら、細い路地に入り込んでいた。
◇
路地の両側に、古い店が並んでいた。
シャッターが下りている店が多い。営業しているのは数軒だけ。でも看板の明かりがぽつぽつと灯って、昭和みたいな雰囲気の商店街が、夜の中に浮かんでいた。
八百屋。金物屋。小さな本屋。洋品店。
全部、こじんまりしていた。全部、古かった。全部、集合知の「周辺おすすめスポット」には絶対に出てこないやつだった。
迷い込んだな、と思った。
でも、不思議と焦りが薄れていた。
◇
ゆっくり歩きながら、店の前を通り過ぎた。
八百屋には、夜でもキャベツが積んであった。値段が手書きで書いてある。「一玉百二十円」。集合知が弾き出すスーパーの最安値より高いかもしれないけど、その数字には体温があった。
金物屋のショーウィンドウに、古い鍋が並んでいた。使い込まれた感じの、黒ずんだアルミの鍋。データには残らない時間の積み重ねが、表面ににじんでいた。
本屋は電気がついていた。
覗くと、老人が一人、レジの後ろで文庫本を読んでいた。客は誰もいない。でも老人は特に気にしていない様子で、ただ静かに本のページをめくっていた。
その光景が、なんか好きだった。
◇
においがした。
気づいたのは、商店街の奥に差し掛かった時だった。
焦げた醤油の、鼻の奥を刺すような香り。それに混じって、甘い、こってりした、餡のにおい。
お腹が、鳴った。
恥ずかしいくらい、盛大に鳴った。
そういえば、今日まともに食べていなかった。昼はサンドイッチを半分。夕方はコーヒーだけ。そのことに、においを嗅ぐまで気づかなかった。
集合知があれば「食事から六時間が経過しています、血糖値の低下に注意してください」と届いていたはずだ。でも今日は何も来なかったから、空腹すら忘れていた。
でもにおいは、集合知より正直だった。
◇
においの出所を探した。
商店街の角を曲がると、小さな店があった。
「たい焼き もち」という看板。手書きの文字。ガラス一枚の小さな店で、中年の女性が一人、鉄の型を挟んで黙々と焼いている。
煙が上がるたびに、醤油と餡のにおいが濃くなった。
お腹がまた鳴った。
「一個ください」
気づいたら、店の前に立っていた。
◇
二百円だった。
財布から小銭を出した。集合知があれば電子決済が一瞬で終わるけど、今日は小銭を数えた。百円玉が一枚、五十円玉が一枚、十円玉が五枚。
「はい、どうぞ」
女性が紙に包んで渡してくれた。
受け取った瞬間、熱さが手のひらに伝わった。
本物の熱さだ。データじゃない。誰かが「推奨する温度」として設定したものじゃない。炭火で焼かれた鉄型から生まれた、ただの物理的な熱。
それが、妙に嬉しかった。
◇
商店街の端に、古いベンチがあった。
座って、たい焼きの紙を開いた。
きつね色に焼けた表面に、ところどころ焦げ目がついている。完璧な形じゃない。少し左半身が膨らんでいて、右のヒレが薄い。不均一だ。
集合知が選ぶ「最適な食品」ではないかもしれない。
でも、においが凄かった。
一口、かじった。
熱かった。舌が、少し焼けた。
それでも、甘さが来た。つぶ餡の、砂糖と小豆の、じわりと広がる甘さ。皮はさくっとして、中はもちっとして、焦げた部分がわずかに苦くて、その苦さが甘さを引き立てていた。
思わず、目を閉じた。
◇
これは、美味しい。
データが言う「最適な栄養バランス」でも、「本日の推奨メニュー」でも、「相性スコア九十二点の食品」でもない。
ただ、美味しい。
集合知が脳に直接届ける快楽信号というのがある。食事の満足感を最大化するために、脳内物質を微調整するシステムだ。接続している時は、毎食後にそれが働いていた。
今日は、それがない。
でも、このたい焼きは美味しかった。
信号がなくても、調整がなくても、舌の上の感覚が「美味しい」と言っていた。
それが、こんなに鮮烈だとは思わなかった。
◇
二口目を食べながら、空を見た。
星が出ていた。
都内で星が見えることは少ない。光害で消えてしまうから。でも今夜は空気が澄んでいるのか、二つか三つ、はっきりと光っている。
集合知があれば「あれはベガです」「あれはアルタイルです」と即座に教えてくれるんだろう。
でも今夜は誰も教えてくれない。
ただの星だ。名前も知らない、ただの白い光。
それでいいか、と思った。
名前を知らなくても、光っている。
たい焼きを知らなくても、美味しかった。
集合知がなくても、お腹は空いて、においに引っ張られて、熱さに驚いて、甘さに目を閉じる。
それが「生きていること」なんじゃないか、と、ぼんやり思った。
◇
たい焼きを食べ終えて、立ち上がった。
紙を丁寧に折りたたんで、ゴミ箱に捨てた。
商店街の出口を探して歩き始める。
五分くらいで大通りに出た。駅の看板が見えた。思ったより近かった。迷っていたのは、ほんの数百メートルの範囲だったらしい。
でも、良かった。
迷わなければ、あの商店街を通らなかった。においに気づかなかった。たい焼きを食べなかった。
集合知の「最適なルート」は、きっとここを通らない。効率的な道は、もっと広くて、明るくて、まっすぐだ。
迷子になって、初めて通れる道がある。
そんなことを考えながら、駅の階段を下りた。
手のひらに、まだ熱さの名残があった。
たい焼きの、二百円の、誰にも最適化されていない、熱さの名残が。




