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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
情報の砂漠を歩く

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8/22

透明な壁


 午後の業務が始まってすぐ、山田から声がかかった。


 山田慶介。同期入社で、席が隣の隣。明るくて、話しかけてくるのが早くて、集合知の同期スピードが社内でも特に速いと評判の男だ。僕とは入社当初から何となく気が合って、ランチに行くことも多かった。


「なあ長谷川、今日の昼飯もう食った?」


「……さっきコンビニで」


「あ、そっか。じゃあ夕方、ちょっと近くのカフェ行かないか。話したいこともあるし」


 山田は笑っていた。


 いつもの、気負いのない笑顔だった。



 十七時過ぎに、二人でビルを出た。


 山田の行きつけというカフェは、会社から歩いて四分の場所にあった。ビルとビルの間に挟まれた、こじんまりした店。木の扉を押すと、コーヒーの香りが漂ってきた。


「ここ、集合知の推奨には出てこない店なんだよ」と山田が言った。「口コミ数が少なすぎてデータ不足らしくて。でも俺は好きで、たまに来る」


「へえ」


 席に着いて、メニューを手渡された。


 紙のメニューだった。久しぶりに見た気がした。コーヒーが五種類、紅茶が三種類、ケーキが四種類。それだけ。シンプルだった。


 集合知があれば「あなたの今日のカフェイン摂取量を考慮するとデカフェを推奨します」と届くんだろうけど、今日は何も来ない。僕は少し考えて、カフェラテを頼んだ。


 自分で決めた。


 それだけのことが、今日は少しだけ楽しかった。



 注文を終えて、山田が切り出した。


「接続、まだ戻ってないんだろ」


「うん。来週また検査」


「そっか」と山田は頷いた。「大変だったな、ここ数日」


 その言葉は、柔らかかった。


 温度があった。少なくとも、田中医師の「お気の毒に」よりはずっと。


 でも僕の中で、すぐに疑問が芽生えた。


 -- これは、山田自身の言葉なのか --


 集合知が「接続不良の同僚に対する最適なフォロー」として提示した言葉を、山田はただ出力しているだけなんじゃないか。「大変だったな」というフレーズが、状況に対する最適解としてデータから導き出されたものなんじゃないか。


 そう思ったら、素直に受け取れなかった。


「……ありがとう」


 遅れて、そう返した。



 カフェラテが来た。


 白いカップに、きれいなラテアートが浮いていた。葉っぱの模様。集合知のデータには載っていない、この店だけの手仕事。


「ここのラテアート、毎回違うんだよ」と山田が言った。「店主のおじさんが気分で変えるらしくて」


「気分で?」


「そう。非効率極まりないだろ」と山田は笑った。「でもそれがいいんだよな、なんか」


 僕はカップを見た。


 葉っぱの模様は、少し左に傾いていた。完璧じゃない。対称でもない。でも、確かに誰かが手で描いたものだった。


 一口飲んだ。


 美味しかった。データが言う「最適な味」じゃなくて、ただ、美味しかった。



「なあ、長谷川」


 山田がカップを置いて、少し真面目な顔になった。


「切れてみて、どうだった?」


「どうって」


「なんか、気づいたこととか。ある?」


 質問が、少し意外だった。


 「早く治るといいな」でも「不便だろ」でもなく、「気づいたことは」と聞いてきた。


 僕はしばらく考えた。


「……言葉が、不便だなって思った」


「ああ」


「会議で、説明してもらわないといけなくて。川島部長が言葉で話してくれたんだけど、なんかすごくぎこちなかった。みんな言語に慣れてないんだなって」


「俺もそうだよ」と山田は言った。「今もそうだし。うまく言葉にできてるか、正直自信ない」


「でも山田は、いつも喋るじゃないか」


「それは――」と山田は少し笑った。「俺、集合知の処理が遅いんだよ。同期スピード速いって言われてるけど、実は脳内処理が追いつかなくて、言葉で補ってることが多い。社内では秘密な」


 そんなこと、知らなかった。


 山田がそんな「不便」を抱えていたことも、それを隠していたことも。



「だから」と山田は続けた。「長谷川が会議で『言葉で説明してください』って言ったの、俺はちょっと羨ましかった」


「羨ましい?」


「だってはっきり言えるじゃないか。俺には分かりませんって。俺はずっと分かったふりしてるから」


 山田は笑っていたけど、笑いきれていなかった。


 僕はその顔を見ながら、また疑問が浮かぶのを感じた。


 -- これも、システムが選んだ言葉なのか --


 「羨ましかった」という告白も、「分かったふりをしている」という打ち明け話も、全部、接続不良の僕を慰めるためにデータが弾き出した最適解なんじゃないか。


 山田がそれをそのまま口にしているだけなんじゃないか。


 そう思ったら、温かかったはずの言葉が、すうっと冷えていった。



「長谷川、なんか遠いな」


 山田が言った。


「え」


「さっきから、ちゃんと聞いてるんだけど、なんか壁がある感じがする。俺の言葉、届いてる?」


 届いてる。届いてるけど。


「……ごめん。ちょっと、考えすぎてた」


「何を?」


 言おうか迷った。


 でも山田は待ってくれていた。急かさず、視線を逸らさず、ただカップを両手で包んで待っていた。


「山田の言葉が、山田自身の言葉なのかどうか、分からなくて」


 言ってから、失礼だったかな、と思った。


 山田は少し黙った。


「集合知が提示した最適解なんじゃないかって、思ってるってこと?」


「……うん」



 山田は、怒らなかった。


 ただ少し、困ったような顔をした。


「正直に言うとさ」と山田はゆっくり言った。「分からないんだよ、俺にも」


「え」


「自分の言葉がどこまで自分のものか、どこからシステムの最適解なのか。考えたことなかったし、考えても答えが出ない。集合知と繋がったまま生きてると、境界線が見えないんだよ」


 その言葉は、予想していなかった。


「でも」と山田は続けた。「俺が今ここに来たのは、データの指示じゃないと思う。たぶん。少なくとも、お前のことが心配だったのは本当だよ」


 たぶん、という言葉が引っかかった。


 断言できないんだ、と思った。自分の気持ちすら、断言できない。


 それは山田だけじゃなくて、集合知に繋がっている全員が、同じ状態なのかもしれない。



 帰り道、並んで歩きながら山田が言った。


「なあ、一個だけ聞いていいか」


「うん」


「切れる前と、今と、どっちが怖い?」


 予想外の質問だった。


 僕は少し考えた。本当に、少し考えた。


「……今のほうが、怖い。孤独だし、不便だし、何も分からないから」


「そっか」


「でも」と言いかけて、止まった。


「でも?」


「切れる前も、怖かったのかもしれない。気づかなかっただけで」


 山田は何も言わなかった。


 ただ横を歩きながら、少し考えているような顔をしていた。


 その顔が、本物に見えた。


 システムの最適解じゃなくて、山田慶介という人間が、自分の頭で何かを考えている顔に見えた。


 そう思いたかっただけかもしれない。


 でも、そう思った。



 ビルの前で別れた。


「また飯行こうぜ」と山田は言った。「あの店、ラテアートが毎回違うから」


「うん」


 山田が先にエレベーターへ消えた。


 僕はしばらく、エントランスに立っていた。


 透明な壁がある、と山田は言った。


 でも壁を作っているのは、僕のほうかもしれない。


 疑って、疑って、疑い続けて、届いた言葉を全部跳ね返している。


 それって、本当に正しいのか。


 分からないまま、僕はエレベーターのボタンを押した。


 山田のカフェラテは、ちゃんと美味しかった。


 それだけは、確かだった。


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