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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
情報の砂漠を歩く

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言語という不便な道具


 会議室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。


 気のせいじゃない。本当に変わった。十人ほどが席についていて、全員がこちらを一瞬だけ見て、また視線を虚空に戻した。その「一瞬」の中に、明確な情報交換があったのが分かった。


 -- 接続不良の長谷川が来た --


 言葉にはならない。でも、そういうことだ。


 僕は一番端の席に、静かに座った。



 今日の会議は、第三四半期のプロジェクト進捗確認だった。


 部長の川島さんが口を開く前に、すでに全員の意識は同期されていたと思う。資料の共有も、前提の確認も、根回しも、全部集合知の上で終わっている。会議室という物理的な場所に集まること自体、ほとんど形式的な儀式に近い。


 川島部長が言った。


「では、Aプロジェクトの現状から」


 同僚の田辺さんが頷く。口は開かない。でも川島部長も、他の全員も、田辺さんが「了解」したことを知っている。


 それどころか、田辺さんの報告内容も、すでに全員の脳内に共有されているんだろう。


 川島部長が「問題ないですね」と確認すると、また全員が無言で頷いた。


 会議が、進んでいく。


 僕だけが、何も分からないまま。



 五分が経った。


 たぶん、三個か四個の議題が終わっていた。


 言葉は最小限しか発されない。「では」「はい」「了解です」「問題ありません」。そんな短いフレーズが時折飛び交うだけで、あとは全員が静かに同期している。


 僕は手元のメモ帳に、聞き取れた単語だけを書き留めていた。


 Aプロジェクト。進捗八十パーセント。Bの件は保留。来月の納期は――。


 断片しか拾えない。文脈が分からない。何が決まって、何が保留で、自分が何をすべきなのか、さっぱり分からなかった。


 川島部長が「長谷川くん、Cプロジェクトの件は?」と振ってきた。


 全員の視線が集まった。


 僕は息を吸った。



「すみません、少し確認させてください」


 声に出した瞬間、会議室の空気がわずかに揺れた。気のせいじゃない。「声に出した」ということ自体が、この場では少し異質なんだろう。


「Cプロジェクトの現在の優先度と、前回からの変更点を、言葉で説明してもらえますか」


 沈黙が落ちた。


 二秒か三秒の、ごく短い沈黙。でもそれが、妙に長く感じた。


 川島部長が口を開く前に、隣の山本さんが小さく眉を動かした。集合知越しに何かを確認したんだろう。「接続不良のため情報が届いていない」という事実を、今さら受け取ったような顔だった。


「……ああ、そうか。君は今、接続が」


「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ないんですが、言葉で共有していただけると助かります」


 また、短い沈黙。


 川島部長が咳払いをした。


「Cプロジェクトは、先週の同期で方針が変更になっています。クライアントの要望で納期が二週間前倒しに。それに伴い、長谷川くんが担当していたフェーズ三の作業を、来週頭までに仕上げてもらう必要があって――」


 説明が始まった。


 言葉で。口から出る、音声の言葉で。


 川島部長の声は、少しぎこちなかった。言葉で説明することに、慣れていないんだろう。当然だ。この部屋で、声に出して何かを説明するなんて、ほとんどしないはずだから。



 説明が終わった。


 三十秒くらいだったと思う。


 でも会議室には、微妙な気まずさが漂っていた。僕のせいで、いつもは一瞬で終わることが三十秒かかった。非効率。明らかに、非効率。全員がそれを感じているのが、集合知なしでも分かった。


 山本さんが、視線を落とした。


 田辺さんが、僅かに口元を引いた。


 正面に座っている新入社員の子が、なんか居心地が悪そうに手元を見た。


 誰も、何も言わない。言葉では。


 でも集合知越しに、何かが流れているんだろう。僕には聞こえない、何かが。


「……ありがとうございます」


 僕はそれだけ言って、メモ帳に「フェーズ三、来週月曜まで」と書いた。



 会議が終わった後、川島部長が残るよう目配せしてきた。


 全員が出て行って、二人になった。


「大丈夫か、長谷川くん」


「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ないです」


「迷惑とかじゃなくてさ」と川島部長は少し困った顔をした。「その、治療はしてるんだろ?」


「来週また検査があります」


「そうか」


 川島部長は腕を組んで、少し考えてから言った。


「正直に言うと、社内でどう扱えばいいか、前例がなくてな。今日みたいに逐一説明するのが、現実的にちょっと難しい部分もあって」


 遠回しだけど、意味は分かった。


「……リモートワークにしましょうか。しばらく」


「いや、そこまでは。ただ」


 川島部長は言葉を選んでいた。


 その姿が、少し滑稽に見えた。普段は言葉なんてほとんど使わないくせに、こういう時だけ言葉に頼る。でも言葉に慣れていないから、うまく出てこない。


 言語って、不便だな、と思った。


 そして同時に、集合知がない僕は、この不便な道具しか持っていないんだ、とも思った。


「まあ、無理するな。何かあれば言ってくれ」


「はい。ありがとうございます」


 川島部長が出て行った。


 空になった会議室で、僕はしばらく動けなかった。



 自席に戻ると、山本さんが声をかけてきた。


 山本さんは入社三年目の先輩で、僕とは同じプロジェクトを担当することが多い。温厚で、仕事が速くて、集合知の扱いが社内でも一番上手いと言われている人だ。


「さっきはごめんな、言葉で説明するのあんまり得意じゃなくて」


「川島部長が説明してくれたので、大丈夫です」


「そっか」と山本さんは頷いた。「でも、分からないことあったらいつでも聞いてくれ。できる限り言葉で説明する」


「……ありがとうございます」


 素直に、ありがたかった。


 でも一秒後には、疑問が浮かんだ。


 この申し出は、山本さん自身の気持ちから来たのか。それとも集合知が「接続不良の同僚へのフォローとして最適な声かけ」として提示した内容なのか。


 分からない。


 確かめる術が、ない。


 「ありがとうございます」と言った後の、山本さんの微笑みが本物かどうかも、分からない。



 昼休み、ひとりでコンビニに行った。


 誰かと一緒にいる気分になれなかった。


 サンドイッチとコーヒーを買って、外のベンチで食べた。


 言葉のことを、考えていた。


 言語って、つくづく不便だな、と思う。


 言いたいことの半分も伝わらない。伝わったと思ったら誤解されてる。言葉にした瞬間に、ニュアンスが削ぎ落とされる。「嬉しい」という言葉ひとつに、百種類の嬉しさがあるのに、全部「嬉しい」というたった三文字に押し込めるしかない。


 集合知はそれを解決した。


 言葉を介さず、感情の解像度そのままで伝わる。「嬉しい」じゃなくて、その人の嬉しさそのものが届く。完璧な伝達。完璧な相互理解。


 素晴らしいシステムだ。


 なのに。


 なのに、なんで僕の脳は、それを拒絶しているんだろう。



 コーヒーを一口飲んだ。


 苦かった。集合知があれば「カフェイン摂取量が本日の推奨値に近づいています」と届くんだろうけど、今日は何も来ない。ただ苦い。


 ぼんやりと、行き交う人を眺めた。


 みんな、どこかを見ている。虚空を。自分の内側を。集合知の海の中を。


 誰も、外を見ていない。


 僕だけが、外を見ていた。


 それが孤独なのか、それとも何か別のことなのか、まだ分からなかった。


 でも、コーヒーの苦さは確かだった。


 誰かに最適化されていない、自分だけの苦さが、舌の上に残っていた。


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