言語という不便な道具
会議室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。
気のせいじゃない。本当に変わった。十人ほどが席についていて、全員がこちらを一瞬だけ見て、また視線を虚空に戻した。その「一瞬」の中に、明確な情報交換があったのが分かった。
-- 接続不良の長谷川が来た --
言葉にはならない。でも、そういうことだ。
僕は一番端の席に、静かに座った。
◇
今日の会議は、第三四半期のプロジェクト進捗確認だった。
部長の川島さんが口を開く前に、すでに全員の意識は同期されていたと思う。資料の共有も、前提の確認も、根回しも、全部集合知の上で終わっている。会議室という物理的な場所に集まること自体、ほとんど形式的な儀式に近い。
川島部長が言った。
「では、Aプロジェクトの現状から」
同僚の田辺さんが頷く。口は開かない。でも川島部長も、他の全員も、田辺さんが「了解」したことを知っている。
それどころか、田辺さんの報告内容も、すでに全員の脳内に共有されているんだろう。
川島部長が「問題ないですね」と確認すると、また全員が無言で頷いた。
会議が、進んでいく。
僕だけが、何も分からないまま。
◇
五分が経った。
たぶん、三個か四個の議題が終わっていた。
言葉は最小限しか発されない。「では」「はい」「了解です」「問題ありません」。そんな短いフレーズが時折飛び交うだけで、あとは全員が静かに同期している。
僕は手元のメモ帳に、聞き取れた単語だけを書き留めていた。
Aプロジェクト。進捗八十パーセント。Bの件は保留。来月の納期は――。
断片しか拾えない。文脈が分からない。何が決まって、何が保留で、自分が何をすべきなのか、さっぱり分からなかった。
川島部長が「長谷川くん、Cプロジェクトの件は?」と振ってきた。
全員の視線が集まった。
僕は息を吸った。
◇
「すみません、少し確認させてください」
声に出した瞬間、会議室の空気がわずかに揺れた。気のせいじゃない。「声に出した」ということ自体が、この場では少し異質なんだろう。
「Cプロジェクトの現在の優先度と、前回からの変更点を、言葉で説明してもらえますか」
沈黙が落ちた。
二秒か三秒の、ごく短い沈黙。でもそれが、妙に長く感じた。
川島部長が口を開く前に、隣の山本さんが小さく眉を動かした。集合知越しに何かを確認したんだろう。「接続不良のため情報が届いていない」という事実を、今さら受け取ったような顔だった。
「……ああ、そうか。君は今、接続が」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ないんですが、言葉で共有していただけると助かります」
また、短い沈黙。
川島部長が咳払いをした。
「Cプロジェクトは、先週の同期で方針が変更になっています。クライアントの要望で納期が二週間前倒しに。それに伴い、長谷川くんが担当していたフェーズ三の作業を、来週頭までに仕上げてもらう必要があって――」
説明が始まった。
言葉で。口から出る、音声の言葉で。
川島部長の声は、少しぎこちなかった。言葉で説明することに、慣れていないんだろう。当然だ。この部屋で、声に出して何かを説明するなんて、ほとんどしないはずだから。
◇
説明が終わった。
三十秒くらいだったと思う。
でも会議室には、微妙な気まずさが漂っていた。僕のせいで、いつもは一瞬で終わることが三十秒かかった。非効率。明らかに、非効率。全員がそれを感じているのが、集合知なしでも分かった。
山本さんが、視線を落とした。
田辺さんが、僅かに口元を引いた。
正面に座っている新入社員の子が、なんか居心地が悪そうに手元を見た。
誰も、何も言わない。言葉では。
でも集合知越しに、何かが流れているんだろう。僕には聞こえない、何かが。
「……ありがとうございます」
僕はそれだけ言って、メモ帳に「フェーズ三、来週月曜まで」と書いた。
◇
会議が終わった後、川島部長が残るよう目配せしてきた。
全員が出て行って、二人になった。
「大丈夫か、長谷川くん」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ないです」
「迷惑とかじゃなくてさ」と川島部長は少し困った顔をした。「その、治療はしてるんだろ?」
「来週また検査があります」
「そうか」
川島部長は腕を組んで、少し考えてから言った。
「正直に言うと、社内でどう扱えばいいか、前例がなくてな。今日みたいに逐一説明するのが、現実的にちょっと難しい部分もあって」
遠回しだけど、意味は分かった。
「……リモートワークにしましょうか。しばらく」
「いや、そこまでは。ただ」
川島部長は言葉を選んでいた。
その姿が、少し滑稽に見えた。普段は言葉なんてほとんど使わないくせに、こういう時だけ言葉に頼る。でも言葉に慣れていないから、うまく出てこない。
言語って、不便だな、と思った。
そして同時に、集合知がない僕は、この不便な道具しか持っていないんだ、とも思った。
「まあ、無理するな。何かあれば言ってくれ」
「はい。ありがとうございます」
川島部長が出て行った。
空になった会議室で、僕はしばらく動けなかった。
◇
自席に戻ると、山本さんが声をかけてきた。
山本さんは入社三年目の先輩で、僕とは同じプロジェクトを担当することが多い。温厚で、仕事が速くて、集合知の扱いが社内でも一番上手いと言われている人だ。
「さっきはごめんな、言葉で説明するのあんまり得意じゃなくて」
「川島部長が説明してくれたので、大丈夫です」
「そっか」と山本さんは頷いた。「でも、分からないことあったらいつでも聞いてくれ。できる限り言葉で説明する」
「……ありがとうございます」
素直に、ありがたかった。
でも一秒後には、疑問が浮かんだ。
この申し出は、山本さん自身の気持ちから来たのか。それとも集合知が「接続不良の同僚へのフォローとして最適な声かけ」として提示した内容なのか。
分からない。
確かめる術が、ない。
「ありがとうございます」と言った後の、山本さんの微笑みが本物かどうかも、分からない。
◇
昼休み、ひとりでコンビニに行った。
誰かと一緒にいる気分になれなかった。
サンドイッチとコーヒーを買って、外のベンチで食べた。
言葉のことを、考えていた。
言語って、つくづく不便だな、と思う。
言いたいことの半分も伝わらない。伝わったと思ったら誤解されてる。言葉にした瞬間に、ニュアンスが削ぎ落とされる。「嬉しい」という言葉ひとつに、百種類の嬉しさがあるのに、全部「嬉しい」というたった三文字に押し込めるしかない。
集合知はそれを解決した。
言葉を介さず、感情の解像度そのままで伝わる。「嬉しい」じゃなくて、その人の嬉しさそのものが届く。完璧な伝達。完璧な相互理解。
素晴らしいシステムだ。
なのに。
なのに、なんで僕の脳は、それを拒絶しているんだろう。
◇
コーヒーを一口飲んだ。
苦かった。集合知があれば「カフェイン摂取量が本日の推奨値に近づいています」と届くんだろうけど、今日は何も来ない。ただ苦い。
ぼんやりと、行き交う人を眺めた。
みんな、どこかを見ている。虚空を。自分の内側を。集合知の海の中を。
誰も、外を見ていない。
僕だけが、外を見ていた。
それが孤独なのか、それとも何か別のことなのか、まだ分からなかった。
でも、コーヒーの苦さは確かだった。
誰かに最適化されていない、自分だけの苦さが、舌の上に残っていた。




