待ち時間の再発見
来週の水曜日まで、六日間ある。
翌朝、目が覚めて最初にそれを確認した。スマートフォンの画面に表示された予約票。「次回検査:水曜日10:00」という文字を見て、ため息をついた。
集合知は、まだ沈黙したままだ。
昨夜眠れるか心配だったけど、意外とすぐ落ちた。夢も見なかった。脳が静かすぎて、逆に深く眠れたのかもしれない。それが少し、悔しかった。
◇
会社には結局、今日も行くことにした。
休んでいても、することがない。集合知なしで家にこもっていると、時間の流れ方がおかしくなる。何かをしようとしても「最適な選択肢」が提示されないから、何から手をつければいいかが分からない。情報のない部屋は、思ったより息苦しかった。
だったら会社に行ったほうがマシだ。
そう判断したのは、自分の意志だった。
当たり前のことなのに、なんか少し、誇らしかった。
◇
午前中は会議が二本あった。
どちらもひどかった。
同僚たちは集合知越しに意識を同期させながら、瞬時に合意を形成していく。発言すら必要ない。「あ、それいいね」とか「その方向で」とか、口から出てくる言葉は、すでに結論が出た後の確認作業にすぎない。
でも僕には、その「すでに出た結論」が届かない。
気づいたら、会議が終わっていた。何が決まったのか、よく分からないまま。
隣の席の先輩、木村さんが「大丈夫か」と声をかけてくれた。
「あ、はい。ちょっと接続が不安定で」
「そっか。無理すんなよ」
それだけ言って、木村さんは視線を虚空に戻した。もう別の処理が始まっているんだろう。
僕は「ありがとうございます」と言ったけど、木村さんはもう聞いていなかった。
◇
午後の検査予約まで、二時間の空き時間ができた。
追加の問診が入ったのだ。メンテナンスセンターから連絡が来て、「もう少し詳しく話を聞きたい」とのこと。予約は十五時。今は十三時。
どうするか、一瞬迷った。
集合知があれば「この二時間の最適な過ごし方」が即座に提示されるはずだ。カフェの混雑状況、近くのランチスポット、業務の優先度順リスト。全部まとめて届いて、その通りに動けばいい。
でも今日は、何も来ない。
僕はとりあえず、ビルの外に出た。
◇
四月の昼下がりだった。
風が少しあって、日差しはぬるくて、悪くない天気だった。
あてもなく歩き始める。目的地がない歩き方なんて、いつぶりだろう。いつも「最適なルート」を歩いているから、道を「なんとなく」進むことが、ほとんどなかった。
交差点で、なんとなく右を選んだ。
理由はない。なんとなく、右の空が少し明るかったから。
それだけで、方向を決めた。
変な感じがした。ばかみたいに自由な感じがした。
◇
五分ほど歩くと、小さな公園があった。
ベンチが三つ。砂場と、錆びたすべり台。街路樹が二本、風に揺れている。
誰もいなかった。
僕はベンチに座った。特に理由はない。疲れてもいないし、目的もない。ただ、座りたかったから座った。
空を見上げる。
雲が流れていた。
白くて、丸くて、ゆっくりと西から東へ動いている。昨日「積乱雲の前駆体かもしれない」と思った雲とは違う、もっとふわふわした、のんきな形の雲だ。
誰も教えてくれないから、名前を知らない。
ただの、雲だ。
それをぼんやり眺めていたら、気づいたら五分が経っていた。
◇
いつぶりだろう、と思った。
空を、こんなふうに眺めたのは。
集合知がある生活では、空を見上げる「必要」がない。天気は脳内に届く。雲の種類も、降水確率も、全部データで来る。わざわざ目で確認するのは非効率だ。
だから、見なかった。
何年も、見なかったのかもしれない。
雲が、少しだけ形を変えた。風に押されて、右端がぼやけた。さっきまで丸かったのが、今は少し崩れて、犬みたいな形になっている。
犬?
いや、もっとぺちゃんこだから、カエルかな。
「カエルっぽいな」
誰もいない公園で、ひとりごとを言った。
誰も反応しない。データも来ない。
でも、その沈黙が、今日は少しだけ違う感じがした。
不安じゃなくて、静かな感じ。
◇
隣のベンチに、鳩が一羽降りてきた。
灰色の、ずんぐりした鳩。首をくいくい動かしながら、べンチの上を歩き回っている。
僕のことを見た。
二秒くらい、目が合った。つぶらな目だった。何を考えているのか、まったく分からない目だった。
鳩は興味をなくしたのか、ぱたぱたと飛んで行った。
それだけのことなのに、なんか可笑しくて、小さく笑った。
集合知があれば「ドバト、学名Columba livia domestica、都市部に多く生息し――」と情報が来るんだろう。でも今日は来なかった。ただの鳩だった。名前も、生態も、何も知らない、ただの鳩。
それで、良かった気がした。
◇
十四時になった。
メンテナンスセンターへ向かうために立ち上がる。
ベンチを離れながら、ふと振り返った。
公園は、まだそのままだった。砂場と、すべり台と、街路樹と、青い空。
一時間前は、二時間の空き時間が途方もなく感じた。何をすればいいか分からなくて、途方に暮れた。
でも実際には、なんか、あっという間だった。
雲を眺めて、鳩と目が合って、それだけで一時間が過ぎた。
何の生産性もない一時間だった。
集合知なら絶対に選ばない過ごし方だった。
なのに、なんか悪くなかった。
胸の中に、小さな、名前のつけられない何かが生まれた気がした。
それが何なのか、今の僕にはまだ分からなかった。
でも確かに、そこにあった。
◇
歩きながら、また空を見上げた。
さっきのカエル雲は、もうどこかへ行っていた。代わりに、細長い雲が一本、西の空を横切っていた。
飛行機雲かな、とぼんやり思った。
誰も教えてくれなかったけど、なんか、自分でそう思った。
それで十分な気がした。




