脳の反乱
家に帰って、真っ先にシャワーを浴びた。
雨に濡れたのもあるけど、それだけじゃない。なんか、洗い流したかった。田中医師の言葉を。あの診察室の白い壁を。「お気の毒に」という、温度のない慰めを。
シャワーの音だけが、浴室に響いていた。
集合知があれば、今頃「体温が下がっています、お湯の温度を上げることを推奨します」とか届くんだろうけど、今日は何も来ない。自分でダイヤルを回して、自分で温度を決める。少し熱めにした。
肩にお湯が当たる。
『あなたの脳が、システムを拒絶しています。』
「……うるさい」
誰もいない浴室で、独り言を言った。
◇
着替えて、ソファに倒れ込む。
天井を見ながら、ぼんやりと考える。
拒絶、か。
言葉の意味は分かる。でも、実感が全然ない。田中医師は「無意識」と言っていたけど、じゃあ僕の「意識」はどこにあるんだ。意識が知らないところで、脳が勝手に何かを嫌がっている? そんなこと、あり得るのか。
スマートフォンで「集合知 拒絶反応」と検索してみた。
出てきた記事は三件。どれも五年以上前のもので、「理論上は起こりうる」という仮説レベルの話だった。実際の症例報告はゼロ。
僕が、初めての事例に近いのかもしれない。
笑えない。本当に笑えない。
◇
夕方になっても、食欲がなかった。
冷蔵庫を開けてみたけど、何も食べたくなくて閉めた。集合知があれば「空腹状態が続いています、栄養補給を推奨します」と促されて、言われるがまま何かを口に入れていたはずだ。でも今日は、そのリマインダーすらない。
本当に、何もない。
ソファに戻って、また天井を見る。
頭の中で、田中医師との会話をリプレイしていた。
『無意識のうちに、あなた自身が接続を望んでいない可能性があります』
望んでいない。
僕が、集合知を。
「ないわ」
声に出して否定した。
だってそうだろう。集合知がなかったら、今日みたいな一日が毎日続くわけだ。何も分からない、何も届かない、傘を持たずに雨に濡れる毎日。そんな生活、望むわけがない。
望むわけが――。
◇
ふと、高校の頃のことを思い出した。
十六の時、集合知のインプラントを入れた。義務教育が終わった年に、ほとんどの人が入れる。あの頃は「やっと繋がれる」と思った記憶がある。
でも本当にそうだったか?
記憶の奥を探ると、もう一個の感情が引っかかってきた。
手術の前夜。ベッドの中で、なんか変な気持ちだった。嬉しいとか楽しみとか、そういう感情の裏側に、なんか薄い膜みたいなものがあって。
あれは、怖かったのか。
嫌だったのか。
当時の自分に聞いても、もう答えられない。あの感情は、接続した瞬間に、集合知が「適切な精神状態」へと最適化してくれたから。消えた。きれいさっぱり。
……消えた?
「待って」
僕は跳ね起きた。
◇
考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。
でも止まらなかった。
集合知は、精神状態も管理する。ネガティブな感情が強くなりすぎると、脳内物質のバランスを自動調整して、適切な落ち着きや前向きさに戻してくれる。それは事実だ。
じゃあ、僕が「嫌だ」と思った瞬間は?
全部、最適化されてきたんじゃないか。
不満も、疑問も、違和感も。集合知に対して芽生えかけた感情が、全部「適切な状態」に上書きされてきたとしたら?
脳の「拒絶」というのは、その積み重ねが、どこかで限界を超えた結果なんじゃないか。
「……そんなわけないだろ」
声に出したけど、さっきより弱かった。
否定する根拠が、薄くなっていた。
◇
スマートフォンが震えた。
美咲からのメッセージだった。
『検査どうだった?』
僕は少し迷ってから、返した。
『物理的には異常なしだって。心理的な原因かもって言われた』
既読がついて、すぐに返ってきた。
『心理的? どういうこと?』
どう説明すればいいか分からなくて、しばらく画面を見つめた。
集合知があれば、こんなやり取りをしなくていい。今の気分も、今日あったことも、全部ダイレクトに伝わるから。言葉を選ぶ必要も、誤解される心配も、ない。
でも今は、言葉しかない。
『僕の脳が集合知を拒絶してるらしい。自分では全然そのつもりないんだけど』
また既読がついた。今度は少し間があった。
『……それって、治るの?』
一番聞きたいことを、美咲も一番に聞いてきた。
『まだわかんない。来週また検査』
『そっか。無理しないでね』
それで、会話が終わった。
スマートフォンを置いて、また天井を見る。
美咲の「無理しないでね」は、本当に心配してくれた言葉なのか。それとも、集合知が「この状況での最適な返答」として提案した文句なのか。
また、分からなかった。
集合知がある世界で、言葉の「本物」を確かめる方法を、僕は知らない。
◇
夜になった。
結局、夕食はコンビニで買ったおにぎりを一個だけ食べた。集合知なしで自分の意志だけで選んだ食事は、なんか、変な感じがした。
美味しいか美味しくないかも、よく分からなかった。
「最適な食事」じゃないから、これが正解なのかどうか、判断する基準がない。
おにぎりを食べ終えて、電気を消した。
暗い部屋の中で、目を閉じる。
脳の中は、まだ静かだ。静寂に、少しずつ慣れてきている自分がいる。慣れてしまうのが、なんか怖かった。
慣れたくない。
早く、元に戻りたい。
そう思いながら眠ろうとした。
でも、手術前夜のあの感情が、ずっと引っかかっていた。
あれは、本当に何だったんだろう。
集合知に繋がる前の、たった一夜の、僕だけの感情。
あれが拒絶の、最初の一粒だったとしたら――。
答えが出ないまま、僕はようやく眠りに落ちた。




