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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
空白の診断書

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脳の反乱


 家に帰って、真っ先にシャワーを浴びた。


 雨に濡れたのもあるけど、それだけじゃない。なんか、洗い流したかった。田中医師の言葉を。あの診察室の白い壁を。「お気の毒に」という、温度のない慰めを。


 シャワーの音だけが、浴室に響いていた。


 集合知があれば、今頃「体温が下がっています、お湯の温度を上げることを推奨します」とか届くんだろうけど、今日は何も来ない。自分でダイヤルを回して、自分で温度を決める。少し熱めにした。


 肩にお湯が当たる。


 『あなたの脳が、システムを拒絶しています。』


「……うるさい」


 誰もいない浴室で、独り言を言った。



 着替えて、ソファに倒れ込む。


 天井を見ながら、ぼんやりと考える。


 拒絶、か。


 言葉の意味は分かる。でも、実感が全然ない。田中医師は「無意識」と言っていたけど、じゃあ僕の「意識」はどこにあるんだ。意識が知らないところで、脳が勝手に何かを嫌がっている? そんなこと、あり得るのか。


 スマートフォンで「集合知 拒絶反応」と検索してみた。


 出てきた記事は三件。どれも五年以上前のもので、「理論上は起こりうる」という仮説レベルの話だった。実際の症例報告はゼロ。


 僕が、初めての事例に近いのかもしれない。


 笑えない。本当に笑えない。



 夕方になっても、食欲がなかった。


 冷蔵庫を開けてみたけど、何も食べたくなくて閉めた。集合知があれば「空腹状態が続いています、栄養補給を推奨します」と促されて、言われるがまま何かを口に入れていたはずだ。でも今日は、そのリマインダーすらない。


 本当に、何もない。


 ソファに戻って、また天井を見る。


 頭の中で、田中医師との会話をリプレイしていた。


『無意識のうちに、あなた自身が接続を望んでいない可能性があります』


 望んでいない。


 僕が、集合知を。


「ないわ」


 声に出して否定した。


 だってそうだろう。集合知がなかったら、今日みたいな一日が毎日続くわけだ。何も分からない、何も届かない、傘を持たずに雨に濡れる毎日。そんな生活、望むわけがない。


 望むわけが――。



 ふと、高校の頃のことを思い出した。


 十六の時、集合知のインプラントを入れた。義務教育が終わった年に、ほとんどの人が入れる。あの頃は「やっと繋がれる」と思った記憶がある。


 でも本当にそうだったか?


 記憶の奥を探ると、もう一個の感情が引っかかってきた。


 手術の前夜。ベッドの中で、なんか変な気持ちだった。嬉しいとか楽しみとか、そういう感情の裏側に、なんか薄い膜みたいなものがあって。


 あれは、怖かったのか。


 嫌だったのか。


 当時の自分に聞いても、もう答えられない。あの感情は、接続した瞬間に、集合知が「適切な精神状態」へと最適化してくれたから。消えた。きれいさっぱり。


 ……消えた?


「待って」


 僕は跳ね起きた。



 考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。


 でも止まらなかった。


 集合知は、精神状態も管理する。ネガティブな感情が強くなりすぎると、脳内物質のバランスを自動調整して、適切な落ち着きや前向きさに戻してくれる。それは事実だ。


 じゃあ、僕が「嫌だ」と思った瞬間は?


 全部、最適化されてきたんじゃないか。


 不満も、疑問も、違和感も。集合知に対して芽生えかけた感情が、全部「適切な状態」に上書きされてきたとしたら?


 脳の「拒絶」というのは、その積み重ねが、どこかで限界を超えた結果なんじゃないか。


「……そんなわけないだろ」


 声に出したけど、さっきより弱かった。


 否定する根拠が、薄くなっていた。



 スマートフォンが震えた。


 美咲からのメッセージだった。


 『検査どうだった?』


 僕は少し迷ってから、返した。


 『物理的には異常なしだって。心理的な原因かもって言われた』


 既読がついて、すぐに返ってきた。


 『心理的? どういうこと?』


 どう説明すればいいか分からなくて、しばらく画面を見つめた。


 集合知があれば、こんなやり取りをしなくていい。今の気分も、今日あったことも、全部ダイレクトに伝わるから。言葉を選ぶ必要も、誤解される心配も、ない。


 でも今は、言葉しかない。


 『僕の脳が集合知を拒絶してるらしい。自分では全然そのつもりないんだけど』


 また既読がついた。今度は少し間があった。


 『……それって、治るの?』


 一番聞きたいことを、美咲も一番に聞いてきた。


 『まだわかんない。来週また検査』


 『そっか。無理しないでね』


 それで、会話が終わった。


 スマートフォンを置いて、また天井を見る。


 美咲の「無理しないでね」は、本当に心配してくれた言葉なのか。それとも、集合知が「この状況での最適な返答」として提案した文句なのか。


 また、分からなかった。


 集合知がある世界で、言葉の「本物」を確かめる方法を、僕は知らない。



 夜になった。


 結局、夕食はコンビニで買ったおにぎりを一個だけ食べた。集合知なしで自分の意志だけで選んだ食事は、なんか、変な感じがした。


 美味しいか美味しくないかも、よく分からなかった。


 「最適な食事」じゃないから、これが正解なのかどうか、判断する基準がない。


 おにぎりを食べ終えて、電気を消した。


 暗い部屋の中で、目を閉じる。


 脳の中は、まだ静かだ。静寂に、少しずつ慣れてきている自分がいる。慣れてしまうのが、なんか怖かった。


 慣れたくない。


 早く、元に戻りたい。


 そう思いながら眠ろうとした。


 でも、手術前夜のあの感情が、ずっと引っかかっていた。


 あれは、本当に何だったんだろう。


 集合知に繋がる前の、たった一夜の、僕だけの感情。


 あれが拒絶の、最初の一粒だったとしたら――。


 答えが出ないまま、僕はようやく眠りに落ちた。


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