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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
空白の診断書

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光のない瞳


 検査は、思ったより時間がかかった。


 MRIみたいな機械に頭を突っ込んで、脳波を測って、血液を採って、インプラントの物理状態を確認して。それだけで午前中が丸ごと消えた。会社には「体調不良」と連絡を入れた。スマートフォンで文字を打って送る、という作業が久しぶりすぎて、変換ミスを三回した。


 『集合知があれば一瞬で終わるのに。』


 そう思ってから、その思考が悲しくなった。


 結果が出るまで、また待合室に戻ることになった。



 ソファに座って、ぼんやりと部屋を眺める。


 さっきまでいた二人の来訪者は、もういなかった。代わりに、六十代くらいの男性がひとり、入口近くの椅子に腰かけていた。背筋がぴんと伸びていて、目は虚空を見ている。集合知に深くアクセスしている顔だ。


 羨ましい、と思った。


 素直に、シンプルに、羨ましかった。


 あの人は今、どんな情報を受け取っているんだろう。孫の学校の成績か、今日の昼食の推奨メニューか、それとも旧友の近況か。なんでもいい。なんでもいいから、何かが届いてくる状態に、今すぐ戻りたかった。


 スマートフォンをいじる気にもなれなくて、僕はただ天井を見上げた。


 ジャズが、まだ流れていた。



 十分ほど経った頃、隣に人が座った。


 二十代後半くらいの女性。きっちりした服装で、膝の上に薄いタブレットを乗せている。目の焦点が、さっきの男性と同じように虚空に向いていた。


 集合知で仕事をしているんだろう。


 その横顔を、なんとなく眺める。


 目が、光っていた。


 比喩じゃなくて、本当に。瞳の奥に、薄い青白い光が揺れている。集合知が膨大な情報を処理している時に出る、インプラントのインジケーターだ。普段は自分もそうなっているはずで、だから気にしたことがなかったけど――こうして切れた側から見ると、なんか不思議な光景だった。


 人間の目じゃない、みたいな。


 失礼なことを考えているな、と自分でも思う。でも止まらなかった。あの光は、何億人分かの情報が流れている証拠だ。僕にはもうない光だ。


 女性が、ふいにこちらを見た。


 目が合った。


 一秒も経たないうちに、彼女の視線は戻った。たぶん、集合知で「隣の人物:長谷川遥斗、接続状態:エラー中」という情報が流れたんだろう。それだけ確認して、興味なし、と判断した目だった。


 僕はそっと視線を床に落とした。



 また十分くらい待って、田中医師が現れた。


「結果が出ました。個室でお話しましょう」


 さっきと同じ個室。さっきと同じ椅子。さっきと同じ白い壁。


 田中医師は端末を操作しながら、静かに口を開いた。


「まず、物理的な異常は一切ありませんでした」


「物理的な、異常がない」


「はい。インプラント自体は正常です。脳にも損傷はない。血液検査も問題なし。MRIも異常なし」


 僕は少しだけ安堵した。と同時に、嫌な予感もした。


 異常がないのに、繋がらない。それはつまり――。


「じゃあ、なんで切れてるんですか」


 田中医師は一瞬だけ目の焦点をずらした。集合知にアクセスして、何かを確認している。二秒後、こちらを見て、静かに言った。


「あなたの脳が、システムを拒絶しています」



 しばらく、言葉の意味が飲み込めなかった。


「……拒絶?」


「はい。免疫反応に近い現象です。詳しいメカニズムはまだ解明されていませんが、脳が自発的に集合知への接続を遮断している状態です。原因はおそらく――心理的なものだと考えられています」


「心理的」


「つまり」と田中医師は続けた。「無意識のうちに、あなた自身が接続を望んでいない可能性があります」


 僕は、思わず笑いそうになった。


「それ、どういう意味ですか。僕が集合知を嫌ってるってことですか」


「嫌っている、という表現は正確ではないかもしれませんが――脳のどこかが、強い拒否反応を示しているのは事実です」


「そんなわけないでしょう」


 声が、自分でも思ったより強くなった。


「僕は集合知に助けてもらって生きてるんですよ。仕事も、生活も、全部。それを嫌うなんて、そんなこと――」


「長谷川さん」


 田中医師が、静かに遮った。


 その目の光が、ゆっくりと揺れた。


「無意識、というのがポイントです。あなたが意識の上でそう思っていないことは、データも示しています。でも脳は正直です。どこかで、何かを、拒んでいる」



 沈黙が落ちた。


 僕は拳を膝の上で握って、窓の外を見た。


 雲が、さっきより大きくなっていた。灰色がかってきた。雨が降りそうだ。


 誰も教えてくれないから、自分で見て、自分で判断する。


 『拒絶している。』


 その言葉が、頭の中でぐるぐる回った。


 あり得ない。あり得ないと思う。でも田中医師の目は、嘘をついているようには見えなかった。光の揺れ方が、ちゃんとデータを処理している目の動きだった。


 じゃあ、僕の「無意識」は、何を嫌がっているんだ。


「……治りますか」


 やっとそれだけ聞いた。


「治療法はいくつかあります。ただ」と田中医師は少し間を置いた。「心理的な要因が原因の場合、物理的なアプローチだけでは限界があることも多いです。もう少し詳しく調べさせてください。次の検査の予約を入れましょう」


 予約票が、スマートフォンに送られてきた。


 来週の水曜日。


 六日後。


 六日間、このまま。


 その事実だけが、じわりと重くのしかかった。



 センターを出ると、空がどんよりと曇っていた。


 やっぱり、雨が降りそうだ。


 傘はない。集合知があれば朝に教えてくれたのに、今日は誰も教えてくれなかったから、持ってこなかった。


 田中医師の「お気の毒に」が、またよみがえった。


 あれは、本当に気の毒だと思ってくれた言葉だったのか。それとも、システムが選んだ最適な慰めの文句だったのか。


 分からない。確かめる方法がない。


 そもそも、と思う。


 集合知がある世界で、人の「本音」って、どこにあるんだ。


 ぽつ、と額に雨粒が落ちた。


 僕はコートのフードを被って、駅へ向かって歩き出した。


 『あなたの脳が、システムを拒絶しています。』


 その言葉を、雨音の中に溶かしながら。



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