警告の赤色
メンテナンスセンターへ向かう前に、一度だけ試してみることにした。
壁に埋め込まれたホームパネル。集合知との接続状態をモニタリングする、家庭用の端末だ。普段は壁紙と同化して存在感を消しているそれが、今朝は薄く光を放っていた。
近づいてみて、息を呑んだ。
画面の隅に、赤いアイコンが点滅していた。
見たことのない色だった。いや、正確には「見たことがない」わけじゃない。ただ、自分の画面に出たのは初めてだった。お知らせや警告は、いつも青か緑か、せいぜい黄色だ。赤は――重大なエラーの色だ。
『接続エラー(コード:E-7743)』
『集合知ネットワークとの同期が確立できません。』
『デバイスを再起動してください。』
「再起動」
僕は迷わずボタンを押した。
パネルがいったん暗くなって、ローディングのアニメーションが回り始める。くるくる、くるくる。五秒。十秒。二十秒。
画面が戻ってきた。
赤いアイコンは、まだそこにあった。
◇
もう一度。
『接続エラー(コード:E-7743)』
もう一度。
『接続エラー(コード:E-7743)』
もう一度。
『接続エラー――』
「うるさい」
僕はパネルから離れた。
膝が、笑っていた。文字通り、がくがくと笑っていた。情けない。二十四歳の男が、壁のエラー表示ひとつで膝を震わせている。
でも仕方ないだろう、と思う。
これは風邪じゃない。骨折でもない。目に見えない、触れられない、形のない断絶だ。繋がっていた何かが切れた、ということだけは分かるのに、どこをどう直せばいいのか、まったく分からない。
エラーコードをネットで調べようとして――そうだ、集合知が使えないんだった、と気づいた。
スマートフォンを取り出す。こちらは独立した回線だから使える。ブラウザを開いて「E-7743」と入力する。
検索結果がゼロ件だった。
「……マジか」
存在しないエラーコード。僕だけに表示された、誰も経験したことのない赤色。
笑えない冗談だ。
◇
結局、家を出た。
エレベーターのボタンを押す。ドアが開く。乗り込む。閉まる。降りる。自動ドアをくぐる。
当たり前の動作が、妙に重かった。
集合知があれば「今、エレベーターが混んでいます。三分待てば空きます」とか「自動ドアの開閉に〇・三秒の遅延が生じています、センサーに問題あり」とか、どうでもいい情報が自動的に届く。今はそれが何もない。ただ乗って、ただ降りて、ただ歩く。
こんなに、何もないのか。
外の世界って、こんなに静かだったのか。
交差点で信号待ちをしながら、周りを見渡した。
スーツ姿の男性が、虚空を見つめながら口元だけ動かしている。集合知越しに誰かと話しているんだろう。隣の女性は目を閉じたまま微動だにしない。情報を処理中の顔だ。学生らしき子は、視線が定まっていない。あの遠い目は、膨大なデータを受信している時のものだ。
みんな、繋がっている。
僕だけが、繋がっていない。
信号が青に変わった。人波に流されながら、僕はひとり、透明な壁の中を歩いていた。
◇
メンテナンスセンターは、駅から徒歩三分のビルの二階にある。
白を基調とした清潔な空間。受付カウンターの向こうに、制服を着たスタッフが三人。壁には「集合知は、あなたの毎日をもっと豊かに」というスローガンが、優しいフォントで書かれていた。
受付で用件を告げると、スタッフの女性が一瞬だけ目の焦点をずらした。集合知にアクセスして、何かを確認したのだろう。二秒後には元の顔に戻って、「少々お待ちください」と微笑んだ。
僕はソファに座って、部屋を眺めた。
他の来訪者が二人いた。どちらも穏やかな顔をしている。接続が不安定なのか、デバイスのメンテナンスなのか、理由は分からないけど、少なくとも僕みたいに青ざめてはいない。
待合室には、小さなスピーカーからBGMが流れていた。
ゆるいジャズ。集合知の「声」がない分、その音がやけにはっきり聞こえた。こんな音楽、流れてたんだな、といつも来るたびに気づかなかったことを今更知る。
情報のない耳は、案外いろんなものを拾うらしい。
◇
「長谷川様、どうぞ」
案内されたのは、小さな診察室みたいな個室だった。
担当の医師が、すでに椅子に座って待っていた。
四十代くらいの女性。白衣に胸章。名札には「田中」と書いてある。穏やかな顔立ちだけど、目の焦点が一瞬ずれたり戻ったりを繰り返していた。集合知でリアルタイムに情報処理をしながら診察を進めるタイプだ。
「今朝から急に繋がらなくなって。エラーコードがE-7743で――」
「はい、確認しました」
僕が言い終わる前に、田中医師は静かに頷いた。
カルテはもう集合知経由で共有されているんだろう。言葉で説明する必要すらない。
「お気の毒に」
そう言った田中医師の声は、柔らかかった。
でも僕はその瞬間、妙な違和感を覚えた。
『お気の毒に。』
その言葉が、なんか――平らだった。温度がなかった。まるでシステムが最適な慰めのフレーズを選んで、口から出力したみたいな。
こういう患者には「お気の毒に」と言うのが正解、とデータが判断した結果の言葉。
そう思ったら、なぜか余計に寒くなった。
◇
「いくつか確認させてください」
田中医師が端末を操作しながら続ける。
「今朝、接続が切れる前後で、何か変わったことはありましたか? 強いストレス、睡眠不足、外傷、感染症の兆候――」
「何もないです。普通に寝て、普通に起きたら、切れてました」
「頭痛や吐き気は?」
「ないです。耳鳴りはありましたけど、今は少しマシです」
田中医師は無言で入力を続ける。
僕はその横顔を見ながら、さっきの「お気の毒に」をまだ引きずっていた。
本当に、気の毒だと思ってくれているんだろうか。
それとも、そう言うのが「最適解」だったから言っただけなんだろうか。
集合知がない今の僕には、その区別をする方法が、一切なかった。
◇
検査の説明を受けながら、窓の外に目をやった。
空は、まだ青かった。
さっき「積乱雲の前駆体かもしれない」と思った雲が、少し大きくなっていた。雨が降るのかもしれない。誰も教えてくれないから、分からない。
傘、持ってくればよかった。
そんな、ひどく些細なことを考えながら――
僕は「たった一人の肉体」という檻に閉じ込められたまま、まだ、赤色のエラーの意味を知らなかった。




