プツン、という断絶
それは、トーストを口に運んだ瞬間のことだった。
『今日の会議は十時からです。事前に共有された議題は――』
プツン。
……。
「……え」
僕は咀嚼を止めた。
静かだ。
いや、違う。静かじゃない。これは――無音だ。
川のせせらぎが、ある日突然、ダムでせき止められたような。ずっと鳴り続けていたはずのBGMが、世界ごと消え去ったような。そんな感覚が、頭の中を支配した。
『……?』
声が、ない。
◇
最初は、ラグだと思った。
集合知だって、たまには通信が乱れる。スマホの電波が一瞬途切れるみたいに、接続が不安定になることだって、ゼロじゃない。
だから僕は落ち着いて、トーストを皿に置いて、目を閉じた。
意識を集中させる。集合知に「繋がろう」とする感覚は、筋肉を動かすのと似ている。普段は無意識にやっていることを、意図的にやろうとすると、なんか変な感じがするやつ。
繋がれ。繋がれ。繋がれ――。
……。
何も来ない。
「おい」
声に出した。誰に言うでもなく。
頭の中は、まだ静かなままだった。嘘みたいに、完璧に、静かなままだった。
◇
五分後。
僕はダイニングの椅子に座ったまま、動けなくなっていた。
おかしい。明らかにおかしい。単なるラグじゃない。もう五分も経つのに、何も届かない。ニュースも、天気も、美咲の朝の気配も、同僚たちの意識の揺らぎも――全部、全部、消えた。
四十二億人が、いなくなった。
そう言い換えると、急に怖くなった。
手のひらに汗が滲む。呼吸が浅くなる。当たり前のように「そこにいた」はずの存在たちが、突然ごっそり消えた感覚。これは孤独とか寂しいとかそういう次元じゃない。もっと根源的な、体の一部がなくなったような――。
「落ち着け、落ち着け、落ち着け」
自分に言い聞かせながら、額を手で押さえる。
深呼吸。一回、二回。
でも静寂は、びくともしなかった。
◇
気づいたら、耳鳴りがしていた。
キーン、という高い音。集合知の「声」が消えた後の、脳が生み出す幻の残響。まるで身体が「あれがないとおかしい」と訴えているみたいに、ひたすらキーンと鳴り続けている。
僕は立ち上がろうとして、よろけた。
テーブルに手をついて、どうにかこうにか体を支える。足がちゃんと床についているのに、なんか浮いているみたいな感覚がある。自分の身体の輪郭が、ぼやけている気がする。
そうか、と思った。
僕はずっと、自分の境界線を「集合知込み」で認識していたんだ。
皮膚の外側にまで広がる、数億人分の意識。それが僕の「自分」だった。なのに今は、皮膚の内側だけに閉じ込められている。この狭い、たった一個の肉体の中だけに。
息が、詰まった。
◇
「美咲っ」
気づいたら電話をかけていた。
スマートフォンを耳に当てる。集合知とは別の、古くさいインフラ。普段はほとんど使わないから、持ち方すら少しぎこちない。
コール音が三回鳴って、繋がった。
「……遥斗? 珍しい、電話なんて」
美咲の声だ。本物の、音声の声。久しぶりに聞いた気がして、なぜか少しだけ泣きそうになった。
「集合知、繋がってる? お前のとこ」
「え? うん、普通に繋がってるけど。どうしたの、なんか変な声してる」
普通に。
彼女のところは、普通に繋がっている。
「……いや、なんでもない。ちょっと調子悪くて」
「もしかして風邪? 集合知のメンタルスコアは?」
「……わかんない。今、見れないから」
沈黙。
美咲が何か言いかけて、止まった。集合知越しなら一瞬で伝わるはずのことが、言葉にならないまま宙に浮いている。その間が、針みたいに刺さった。
「とりあえず、メンテナンスセンター行きなよ」
「……うん」
「大丈夫だって。きっとすぐ直るよ」
電話が切れた。
部屋に、静寂が戻ってきた。
◇
窓の外を見る。
空は、さっきと変わらず青かった。雲も、さっきと変わらず流れている。
でも、もう誰も「あれは積乱雲の前駆体です」と教えてくれない。
ただの雲だ。名前も意味も知らない、ただの白い塊。
それだけのことが、なんでか無性に怖かった。
僕は震える手でコートを掴んで、玄関へ向かった。
ドアを開けると、朝の空気が頬に触れる。
冷たい。さっきと同じ冷たさのはずなのに――今は、刃みたいに感じた。




