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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
不協和音の目覚め

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透明なオーケストラ


 『今日の東京の気温は十八度。睡眠スコアは八十一点。朝食の推奨メニューは――』


「はいはい」


 僕は目も開けないまま、脳内の声に適当に相槌を打った。


 長谷川遥斗、二十四歳。都内勤務のシステム最適化コンサルタント。そして、世界に存在するおよそ四十二億人の「接続者」のうちの、ごく普通のひとり。


 朝が来るたびに思う。この世界って、本当によくできてるな、と。



 ベッドから起き上がると同時に、頭の中に情報が流れ込んできた。


 ニュース、天気、渋滞情報、同僚の今日のスケジュール、美咲が昨夜見ていた映画のジャンル傾向――。膨大なデータが、でも不思議と煩わしくない。川のせせらぎみたいに、自然に、滑らかに、意識の中を流れていく。


 これが「集合知」だ。


 全人類の脳がネットワークで繋がり、互いの情報や感情、思考の断片を共有し合うシステム。二十年前に実装されて以来、世界はがらりと変わった。戦争の数が激減した。貧困が減った。医療ミスがほぼゼロになった。そして人々は、ひとりでいながら、ひとりじゃなくなった。


 僕が生まれた頃にはもうあったから、ない世界なんて想像もできない。


 空気みたいなものだ。あって当たり前の。



 キッチンに立つと、さっそく指示が来た。


 『本日の推奨メニュー:全粒粉トースト、半熟卵×2、アボカドスライス、ブラックコーヒー。タンパク質が昨日比で不足しています。』


「卵、二個か」


 声に出して言いながら、冷蔵庫を開ける。独り言の習慣は子どもの頃からで、三回くらい「軽度の非効率行動」としてフラグが立ったけど、害なしと判断されてそのままだ。


 フライパンにバターを落とす。じゅわっ、といい音がした。


 『火力を下げてください。焦げ付きリスクが上昇しています。』


「わかってるって」


 ダイヤルを回しながら、頭の中の「声」に話しかける。正確には声じゃない。文字でも映像でもない。もっと直接的な、概念の流れ込み、とでも言うべきもの。でも僕の中ではずっと「声」と呼んでいる。


 バターの焦げるにおいが、少しだけ鼻をついた。


 悪くない朝だ。



 コーヒーを飲みながら、窓の外を眺める。


 空は晴れていた。薄い青の向こうに、白い雲がゆっくり流れている。


 『あの雲はCb型――積乱雲の前駆体です。午後から天候が崩れる可能性があります。傘の携帯を推奨します。』


「ありがとう」


 僕は本気でそう思いながら言った。


 嘲笑う気持ちはまったくない。だってこれのおかげで、傘を忘れて雨に濡れることも、栄養バランスが崩れることも、大事な締め切りを忘れることもない。集合知は、つねに僕より賢くて、つねに僕より先を見ている。


 それに逆らう理由が、どこにある?



 食器を片付けながら、意識の端で「声」たちの合唱を聴く。


 誰かが怒っている。誰かが泣いている。どこかで赤ちゃんが生まれた。老人がひとり、静かに眠るように逝った。南米の小さな村では今日も朝日が昇り、北欧の誰かは今夜ようやく眠れた。


 それら全部が、薄い膜の向こうで同時に起きていて、必要な情報だけが自動的に届く。


 まるで透明なオーケストラだ、といつも思う。


 指揮者のいない、完璧に調律された演奏。誰もが誰かのパートを知っていて、誰もがずれることなく音を鳴らし続けている。不協和音なんてひとつもない、美しい世界の交響曲。


 僕はその中の、小さなひとつの楽器だ。


 今日も変わらず音を鳴らす。それだけでいい。



 出かける準備を終えて、玄関で靴を履く。


 『最適なルートを設定しました。乗り換え一回、所要時間二十二分。いつもより三分短縮できます。』


「完璧じゃん」


 僕は小さく笑って、ドアを開けた。


 朝の空気が頬に触れる。少し冷たくて、でも清々しい。


 世界はいつも通り、滑らかに回っていた。


 ――この朝が、最後の「普通の朝」になるとも知らずに。


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