透明なオーケストラ
『今日の東京の気温は十八度。睡眠スコアは八十一点。朝食の推奨メニューは――』
「はいはい」
僕は目も開けないまま、脳内の声に適当に相槌を打った。
長谷川遥斗、二十四歳。都内勤務のシステム最適化コンサルタント。そして、世界に存在するおよそ四十二億人の「接続者」のうちの、ごく普通のひとり。
朝が来るたびに思う。この世界って、本当によくできてるな、と。
◇
ベッドから起き上がると同時に、頭の中に情報が流れ込んできた。
ニュース、天気、渋滞情報、同僚の今日のスケジュール、美咲が昨夜見ていた映画のジャンル傾向――。膨大なデータが、でも不思議と煩わしくない。川のせせらぎみたいに、自然に、滑らかに、意識の中を流れていく。
これが「集合知」だ。
全人類の脳がネットワークで繋がり、互いの情報や感情、思考の断片を共有し合うシステム。二十年前に実装されて以来、世界はがらりと変わった。戦争の数が激減した。貧困が減った。医療ミスがほぼゼロになった。そして人々は、ひとりでいながら、ひとりじゃなくなった。
僕が生まれた頃にはもうあったから、ない世界なんて想像もできない。
空気みたいなものだ。あって当たり前の。
◇
キッチンに立つと、さっそく指示が来た。
『本日の推奨メニュー:全粒粉トースト、半熟卵×2、アボカドスライス、ブラックコーヒー。タンパク質が昨日比で不足しています。』
「卵、二個か」
声に出して言いながら、冷蔵庫を開ける。独り言の習慣は子どもの頃からで、三回くらい「軽度の非効率行動」としてフラグが立ったけど、害なしと判断されてそのままだ。
フライパンにバターを落とす。じゅわっ、といい音がした。
『火力を下げてください。焦げ付きリスクが上昇しています。』
「わかってるって」
ダイヤルを回しながら、頭の中の「声」に話しかける。正確には声じゃない。文字でも映像でもない。もっと直接的な、概念の流れ込み、とでも言うべきもの。でも僕の中ではずっと「声」と呼んでいる。
バターの焦げるにおいが、少しだけ鼻をついた。
悪くない朝だ。
◇
コーヒーを飲みながら、窓の外を眺める。
空は晴れていた。薄い青の向こうに、白い雲がゆっくり流れている。
『あの雲はCb型――積乱雲の前駆体です。午後から天候が崩れる可能性があります。傘の携帯を推奨します。』
「ありがとう」
僕は本気でそう思いながら言った。
嘲笑う気持ちはまったくない。だってこれのおかげで、傘を忘れて雨に濡れることも、栄養バランスが崩れることも、大事な締め切りを忘れることもない。集合知は、つねに僕より賢くて、つねに僕より先を見ている。
それに逆らう理由が、どこにある?
◇
食器を片付けながら、意識の端で「声」たちの合唱を聴く。
誰かが怒っている。誰かが泣いている。どこかで赤ちゃんが生まれた。老人がひとり、静かに眠るように逝った。南米の小さな村では今日も朝日が昇り、北欧の誰かは今夜ようやく眠れた。
それら全部が、薄い膜の向こうで同時に起きていて、必要な情報だけが自動的に届く。
まるで透明なオーケストラだ、といつも思う。
指揮者のいない、完璧に調律された演奏。誰もが誰かのパートを知っていて、誰もがずれることなく音を鳴らし続けている。不協和音なんてひとつもない、美しい世界の交響曲。
僕はその中の、小さなひとつの楽器だ。
今日も変わらず音を鳴らす。それだけでいい。
◇
出かける準備を終えて、玄関で靴を履く。
『最適なルートを設定しました。乗り換え一回、所要時間二十二分。いつもより三分短縮できます。』
「完璧じゃん」
僕は小さく笑って、ドアを開けた。
朝の空気が頬に触れる。少し冷たくて、でも清々しい。
世界はいつも通り、滑らかに回っていた。
――この朝が、最後の「普通の朝」になるとも知らずに。




