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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
さらば、完璧な世界

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21/22

境界線を越えて


切符を買ったのは、翌朝だった。


駅の券売機の前に立って、遥斗は少し迷った。集合知があれば、目的地の気候、交通手段の乗り継ぎ、宿泊施設の空き状況まで、脳内に一括して展開されていただろう。最適な出発時刻と、最短の到達経路と、荷物の重量制限まで。決断の前に、答えが来る。


だが今の遥斗には、路線図だけがある。


色とりどりの線が、東京から四方八方へ伸びている。北へ、南へ、海へ、山へ。どの線の先に何があるか、遥斗はほとんど知らない。集合知に頼りきりだったこの十年で、地理の感覚がひどく錆びついていた。


指が、路線図の上を彷徨った。


東京から離れること。ネットワークの電波が届かない場所へ向かうこと。それだけが条件だ。あとは——


指が止まった。


地図の端の方、山と海が近い小さな駅の名前。読み方も分からない、見たこともない地名。それがなぜか、今日の遥斗には正しい気がした。理由はない。データもない。ただ、そこへ行く、という気持ちだけがある。


それで十分だ、と遥斗は思った。


ボタンを押した。切符が出てきた。小さな紙切れを手に持つと、その薄さと軽さが妙に現実感を持って指先に伝わった。これが全部だ。この一枚が、次の場所への唯一の根拠だ。


ホームへの階段を下りながら、遥斗はふと笑っていた。



列車は空いていた。


東京を離れるにつれて、乗客が減っていく。最初は満員だった車内が、駅を重ねるごとに静かになり、二時間が過ぎる頃には、遥斗の車両に他の乗客は三人しかいなかった。老いた夫婦と、窓側に座って本を読む中学生くらいの少年。


遥斗は窓に額を近づけて、外を見た。


景色が変わっていく。


高層ビルが消え、住宅街が現れ、やがてそれも薄くなり、田畑が広がり始める。山の稜線が遠くに見え、少しずつ近づいてくる。春の田んぼはまだ水が入っておらず、土が剥き出しのまま日を受けていた。


遥斗はその景色を、ただ見ていた。


検索しなかった。分類しなかった。「あれは何という山か」「この地域の農業生産量は」という問いを、立てなかった。ただ、山があって、土があって、空があって、列車が走っている。それだけの事実を、目に入れていた。


向かいの席の老夫婦が、小声で話していた。


断片的に聞こえてくる言葉は、他愛のないことばかりだ。駅弁のどちらを食べるか。孫の名前の話。帰りの列車の時刻。会話に重要な情報は何もない。システムなら処理する価値のないノイズとして処理するだろう。


だが遥斗には、その会話が美しく聞こえた。


長く連れ添った二人の間にある、言葉の質感。説明しなくても通じるものと、それでも丁寧に言葉にしようとする姿勢。集合知の同期とは違う、時間をかけて作り上げた、二人だけの小さな言語。


美咲のことが、浮かんだ。


痛みはあった。しかし三日前のような、息ができなくなる種類の痛みではなかった。遠くの山を見るような、少し胸が締まるが、それでも眺めていられる痛みだ。


あれは愛ではなかったのか、という問いに、遥斗はもう答えを出そうとしなかった。答えは出ない。出なくていい。ただ、共に過ごした時間は確かにあって、その時間の中に笑った夜も、言葉に詰まった朝もあった。それは誰にも消せない。システムにも。



三時間が過ぎた頃、車窓に海が見えた。


突然だった。山の斜面がトンネルに飲み込まれ、闇の中を数分走って、出た瞬間に——海があった。


遥斗は思わず身を乗り出した。


水平線が、どこまでも続いていた。午後の日差しを受けた海面が、鈍く光っている。白い波が、遠くで砕けている。空との境界が、薄い霞の中で曖昧になっている。


これが海だ、と遥斗は思った。


当たり前のことだ。海を知らないわけではない。しかしデータとして知っている海と、今目の前にある海は、全く別のものだった。塩の匂いは、まだここまで届かない。波の音は、列車の走行音に消えている。それでも、この水の広大さは、脳内の情報として届いたことは一度もなかった。


窓ガラスに手のひらを当てた。


冷たかった。その冷たさの向こうに、海があった。


少年が本を閉じて、同じように窓を見ていた。遥斗と目が合った。少年は少し照れたように、視線を海へ戻した。遥斗も海へ戻した。二人とも、しばらく黙って同じ海を見ていた。


言葉はなかった。同期もなかった。


それでも、何かが通じた気がした。



目的の駅に着いたのは、夕方の四時を過ぎた頃だった。


ホームに降り立った瞬間、空気が変わった。


東京の空気とは違う。湿度が高く、草と土と、遠くの海の気配が混ざり合っている。風が吹いてきて、遥斗の髪を乱した。誰も整えてくれない、誰も最適化してくれない、土地の風だ。


改札を出ると、駅前は小さかった。


タクシーが一台停まっている。商店が数軒。自動販売機が一台。それだけだ。案内板はあるが、観光地図は色褪せていた。


遥斗は立ち止まって、周囲を見渡した。


どこへ行けばいいか分からない。宿の予約もしていない。この土地に知り合いも、手がかりも、何もない。東京を出る前、荷物をまとめながら考えた。最低限の着替えと、現金と、古い文庫本一冊。デバイスは持ってこなかった。地図もない。


あるのは、自分の目と足と、僅かな現金だけだ。


恐ろしいはずだった。


実際、怖かった。胃の底に、冷たい石が沈んでいるような感覚がある。これは正しい選択なのか。この土地で何をすればいいのか。明日の朝、何を食べるのか。誰も教えてくれない。


だが同時に——。


遥斗は深く息を吸った。


草の匂いがした。どこかで夕飯を作り始めた家の匂いが、風に乗って届いた。遠くで犬が吠えた。山の稜線が、茜色に染まり始めた空を背景に、黒くくっきりと浮かびあがっている。


この土地は、遥斗を知らない。


遥斗の過去も、属性も、接続エラーの履歴も、元カノに去られたことも、会社を辞めたことも、この土地には何ひとつ届いていない。ここでは遥斗は、ただの見知らぬ旅人だ。名前さえ、必要なければ名乗らなくていい。


それがひどく、清々しかった。


タクシーの運転手が、窓を開けた。


「どちらまで?」


遥斗は少し考えた。


「宿を探しているんですが、この辺で泊まれる場所はありますか」


運転手は初老の男だった。日に焼けた顔に、深い皴がある。その顔が、少し意外そうに遥斗を見た。それから、呑み込むように頷いた。


「一軒、あるにはある。古いが」


「構いません」


「案内できるが、安くはないよ」


「分かりました」


遥斗は助手席のドアを開けた。


乗り込む前に、もう一度振り返った。駅舎の向こうに、山が見えた。てっぺんに、まだ白いものが残っている。雪なのか、雲なのか、この距離では分からない。


分からなくていい、と遥斗は思った。


明日、晴れれば見えるだろう。雨なら見えないだろう。それはそのときに決まることで、今の遥斗が知る必要はない。


ドアを閉めると、タクシーが動き出した。


見知らぬ土地の道を、見知らぬ人間に連れられて走る。窓の外に、夕暮れの田畑が流れていく。電線に鳥が止まっている。誰かの家の庭で、洗濯物がまだ干されている。取り込み忘れているのか、それとも夜風に当てているのか、それも分からない。


「東京から来たの?」と運転手が聞いた。


「ええ」


「仕事?」


「いいえ」遥斗は少し考えてから言った。「来たかったから、来ました」


運転手はそれ以上聞かなかった。


ただ「そうか」と短く言って、前を向いた。その受け取り方が、遥斗には心地よかった。理由を求めない。データで補完しない。ただ「そうか」と受け取って、次の道を走る。


窓を少し開けた。


夕方の風が、細く入ってきた。草と土と、遠い海の匂い。東京では嗅いだことのない空気が、遥斗の肺を満たした。


明日何をするか、まだ分からない。


この土地で何日過ごすのか、どこへ向かうのか、最終的にどこへ辿り着くのか、何ひとつ決まっていない。それは三週間前の遥斗には、耐えられない不確かさだったはずだ。


だが今は——ただ、それが「これからのこと」として、ここにある。


解決すべき問題ではなく、開いていく時間として。


タクシーが山裾の道に入り、両脇に木が迫ってきた。葉の間から、最後の夕陽が断片的に差し込んでくる。光と影が、交互に遥斗の顔を叩いていく。


境界線を、越えた。


東京と、ここ。接続と、沈黙。集合知と、自分。その境界線を、今日一日かけて、少しずつ越えてきた。完全に越えたわけではないかもしれない。傷はまだある。迷いもある。正直なところ、怖さもある。


それでも、今の遥斗は確かにここにいる。


この車の、この座席に。この土地の、この夕暮れの中に。


自分の重さで、座っている。



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