インプラントの沈黙
予約は、三週間前に入れていた。
「集合知離脱支援センター」という名称の施設が、東京にはまだ数えるほどしかない。需要がほとんどないからだ。接続を自らの意志で断つ人間は、統計的に見て全人口の〇・〇三パーセント以下。事故や疾患による非自発的な切断と違い、この施設を訪れるのは文字通りの「好き好んで孤独を選ぶ者たち」だ。
遥斗がネットで施設を探したとき、口コミはほとんどなかった。
あったとしても、「理解できない」「なぜそんな選択を」という困惑の声ばかりで、参考になるものは何もなかった。それでも遥斗は予約フォームに名前を打ち込み、送信ボタンを押した。デバイスを使った最後の作業が、それだった。
◇
施設は、新宿から二駅の、古いビルの四階にあった。
エレベーターのない雑居ビルを、遥斗は階段で上がった。踊り場に観葉植物が置かれていて、葉が少し埃をかぶっていた。美咲の置いていった植物を思い出した。今朝、出かける前に水をやってきた。
ドアを開けると、受付の女性が顔を上げた。
三十代前半だろうか。目に、集合知との接続中を示す光がない。遥斗と同じ側の人間だ、とすぐに分かった。
「遥斗さんですね。お待ちしていました」
その声には、田中医師のような「システムが生成した」感触がなかった。少し鼻声で、少し早口で、言葉の端が微妙に噛んでいる。不完全な、人間の声だ。
「担当の佐々木です。こちらへどうぞ」
◇
処置室は、思ったより小さかった。
歯科医院の椅子に似た、リクライニングの施術台。天井に蛍光灯。窓が一枚、外の景色を切り取っている。遥斗は促されるまま椅子に座り、首の後ろに触れた。
そこに、ある。
生まれて間もない頃に埋め込まれた、米粒ほどの小さなデバイス。この国に生まれたすべての人間が持っている、集合知への接続端子。物理的には皮膚の下、頸椎の第三節付近に収まっている。これを「オフ」にする。それだけのことだ。摘出するわけではない。ただ、永続的に停止させる。
「緊張していますか」と佐々木が聞いた。
「少し」と遥斗は答えた。
「正直に言ってくれてありがとうございます」彼女は小さな器具を手に取りながら言った。「みなさんだいたい『緊張していない』とおっしゃるんですが、後で手が震え始めるんです」
遥斗は苦笑いした。「何人くらい来るんですか、ここに」
「月に三、四人ですね」佐々木は答えた。「増えてはいます。少しずつですが」
「どんな人が多いですか」
「色々です」彼女は少し考えてから言った。「でも、みなさんに共通しているのは——何か、手放すものを持っている方たちだということですね」
手放すもの、と遥斗は心の中で繰り返した。
「処置の時間は三分ほどです。痛みはほとんどありません。ただ」佐々木は一度手を止め、遥斗の目を見た。「処置の瞬間に、少し——独特の感覚があります。事前にお伝えしておいた方がいいと思って」
「どんな感覚ですか」
「言葉にするのが難しいんですが」彼女はわずかに目を細めた。「みなさん、違う表現をされます。ある方は『音が消えた』と言いました。ある方は『自分の輪郭が戻ってきた』と。ある方は、ただ泣いていました」
遥斗は頷いた。
「準備ができたら、おっしゃってください」
遥斗は一度、目を閉じた。
数億人の気配が、今もうっすらとある。完全に接続されているわけではないが、インプラントが生きている限り、世界の端の方から、かすかなノイズが届き続ける。波の音のように、意識の縁で絶え間なく打ち寄せる、他者の存在の気配。
それが消える。
これから、それが消える。
怖いか、と自問した。
三週間前なら、怖かっただろう。いや、三週間前の遥斗には、この選択そのものが存在しなかった。集合知なしの生など、考えたことすらなかった。
だが今は——。
遥斗は目を開けた。
「お願いします」
◇
首の後ろに、冷たい器具が当たった。
消毒の匂い。佐々木の息遣い。窓の外で、鳩が鳴いた。
それから。
『プツン。』
音ではなかった。感覚でもなかった。強いて言うなら、ずっと鳴り続けていた耳鳴りが、突然止んだような——あるいは、ずっと誰かに手を握られていたのが、そっと離されたような。
喪失ではなかった。
帰還だった。
遥斗はしばらく、動けなかった。
天井の蛍光灯が見えた。その光は、データとして処理されることなく、ただ白く、まぶしく、目に飛び込んできた。窓の外の鳩が、また鳴いた。その声が、ひどく大きく聞こえた。情報としてではなく、音として。ただの、音として。
「大丈夫ですか」
佐々木の声が届いた。遠くから来るように、しかし妙にはっきりと。
「……ええ」
遥斗は答えながら、自分の声の質が変わった気がした。集合知に乗っていた頃の声は、どこかで均されていた。感情の揺れが、情報として最適化されて出力されていた。今の声は、そういう処理を経ていない。ただの、自分の声だ。
少し、震えていた。
佐々木は何も言わなかった。ただ、タオルを一枚そっとテーブルに置いた。
遥斗は気づいた。目が、濡れていた。
泣いているつもりはなかった。悲しいわけでも、嬉しいわけでもなかった。ただ、何か巨大なものが終わった、という感覚が、涙という形で溢れていた。四十年間、ずっと握り続けていた何かを、ようやく置いた。その手のひらの、空になった軽さのような。
タオルで目を拭いながら、遥斗は窓の外を見た。
ビルとビルの間の、切り取られた空。電線が二本、横切っている。その電線に、さっき鳴いていた鳩が一羽、止まっていた。何を考えているのか分からない、丸い目をした鳩だ。
集合知があれば、鳩の生態も、この個体が何時にここに来たかも、瞬時に分かっただろう。
だが今の遥斗には、ただ「鳩がいる」という事実だけがあった。
それがひどく、豊かだった。
◇
施設を出ると、街が変わっていた。
正確には、街は何も変わっていない。変わったのは、遥斗の受け取り方だ。
これまで都市の喧騒は、情報として処理されていた。車のエンジン音は交通状況のデータに、人の話し声は言語情報に、工事の音は迂回経路の必要性に、それぞれ変換されてから届いていた。音が音になる前に、意味になっていた。
だが今、音が音として来る。
車が走る。人が笑う。どこかで金属を叩く音がする。子どもが何かを叫ぶ。コーヒーの匂いがする。アスファルトが午後の日差しを受けて、微かに揺らいでいる。
うるさい、と思った。
それから、これが世界か、と思った。
ずっとここにあったのに、処理されて届いていたから、本当の音量で聞いたことがなかった。フィルターを外したら、世界はこんなに賑やかだったのか。雑然として、脈絡がなくて、どこにも最適化されていなくて、ひどく生き生きとしている。
遥斗は歩道の端に立って、しばらくその音の洪水の中に立っていた。
圧倒されていた。しかし溺れてはいなかった。
これは自分の外側にある世界だ、と遥斗は思った。
これまでの集合知の中では、世界は常に「自分の延長」だった。数億人の意識と繋がり、世界の情報が自分の内側に流れ込み、自分の感覚が世界の情報として流れ出す。内側と外側の境界が、限りなく薄かった。
だが今は——。
自分がここにいる。世界があそこにある。
その間に、境界線がある。
それは孤独だが、同時に、初めて「自分」というものが確かな重さを持った瞬間でもあった。世界に溶けていた輪郭が戻ってきた、と佐々木の言葉を思い出した。そうだ。これが、自分の輪郭だ。
遥斗は歩き始めた。
あてはなかった。どこかへ辿り着く必要もなかった。ただ、自分の足で、自分の目で、音のままの世界の中を歩くことが、今は何よりも必要だった。
夕暮れが近かった。
西の空が、オレンジと灰色が混じり合って、境界の曖昧なグラデーションを作っていた。美しいかどうか、正直まだよく分からない。ただ、見ていたかった。集合知の「推奨夕景スポット」ではなく、今自分が立っているこの歩道から見える、何でもない空の色を。
電車の音が遠くから響いた。
どこかへ向かう列車の音だ。
遥斗はその音を聞きながら、ポケットの中で、片道切符のことを考えた。
まだ買っていない。しかしもう、行き先は決まっていた。




