辞表と静かな決意
辞表を書くのに、一時間かかった。
かつての遥斗なら、集合知が退職に関する法的な文言、提出のタイミング、後任への引き継ぎの最適スケジュールまで、まとめて脳内に流し込んでくれただろう。書類仕事など、考える前に終わっていた。
だが今朝の遥斗は、引き出しの奥から取り出した古い罫線ノートに、ボールペンで一字ずつ書いた。
『一身上の都合により、退職いたします。』
それだけの一文を、何度も書き直した。「一身上の都合」という言葉が、ひどく嘘くさく感じられたからだ。都合などではない。これは選択だ。しかし人事書類にそんな哲学は要らない。遥斗は苦笑いをして、結局その文言を残した。
鏡の前で、久しぶりに髭を剃った。
完璧には剃れなかった。顎の輪郭に沿って、うっすら剃り残しが残る。以前ならシステムが最適な圧力と角度を皮膚の感覚フィードバックで調整してくれたが、今は自分の手だけが頼りだ。不揃いでも、今日はこれでいい。
スーツを着た。
クローゼットの中で、少し型崩れしていた。肩のラインが微妙に歪んでいる。それでも袖を通すと、不思議と気持ちが整う感覚があった。鎧ではなく、けじめとして。
駅までの道を歩きながら、遥斗は空を見た。
薄い雲が流れていた。特に美しいわけでも、劇的でもない、平凡な春の空だ。集合知はこれを「晴れ、降水確率八パーセント、紫外線指数は中程度」と処理するだろう。だが遥斗の目には、ただ白くて、ゆっくりしていて、どこかへ向かっている雲だった。どこへ行くのかは、雲だけが知っている。
電車は混んでいた。
接続された人々の群れの中に立つと、相変わらずうっすらとした疎外感がある。隣に立つ若い女性は、焦点の合わない目で微かに微笑んでいる。ネットワークの向こう側で、誰かと何かを共有しているのだろう。かつての遥斗もそうだった。電車の揺れすら、互いの体重移動データとして共有され、車内全体がひとつの生き物のように揺れを吸収していた。
今の遥斗はただ、つり革を握って立っている。
それだけだ。それで、十分だった。
◇
会社のビルは、いつもと変わらずそこにあった。
ガラス張りの外壁が朝日を照り返し、清潔で、無機質で、どこかの建築賞を受賞したエントランスが、訪れる者を静かに品定めしている。遥斗は自動ドアをくぐりながら、このビルを最後に出る瞬間のことを、ふと想像した。
受付を通り過ぎ、エレベーターへ。
ボタンを押す指が、特に震えていないことに気づいた。三日前までは、出社するたびに胃が重かった。同僚たちの視線、会議での疎外感、「接続不良のバグ」という噂。それらがすべて、今朝はひどく遠く感じられる。嵐の中にいる間は嵐しか見えないが、外に出てしまえば、それがどれほど小さな嵐だったか分かる。
フロアに出ると、オフィスの空気が遥斗を迎えた。
空調の音。キーボードの音。それから、音のない会話——同僚たちが意識を同期させて情報を交わす、あの独特の静けさ。誰かが顔を上げて遥斗を見た。また誰かが視線を外した。透明な壁は、今日も健在だ。
遥斗は構わず歩いた。
部長の席へ、真っ直ぐに。
◇
部長の高橋は、五十代の半ばだった。
温厚で、優秀で、集合知との同期精度が社内で最も高いと言われている男だ。遥斗が近づくと、高橋はちょうど思考の海から引き上げるように、ゆっくりと焦点を遥斗へ合わせた。
「遥斗くん、今日は体調が——」
「辞表です」
遥斗は封筒をデスクに置いた。
高橋の目が、わずかに細くなった。封筒を手に取り、中を確認し、それから遥斗の顔を見た。情報を処理する時の、あの特有の目の動きで。
「……座りなさい」
「いいえ」と遥斗は言った。「立ったままで構いません。長くなりませんから」
高橋は少し黙った。それから、椅子に背を預けて言った。
「治療の見通しは立っていないのか」
「治療はしません」
「遥斗くん」高橋の声は穏やかだった。システムが生成した定型文ではなく、本人なりの誠実さが、その声には滲んでいた。「君の能力は買っている。接続が回復すれば、ポジションも保証できる。しかし接続なしでは——正直なところ、この職場では難しい」
「分かっています」
「非効率な選択だ」
遥斗は少し考えた。
非効率。その言葉を、三週間前の自分が聞いたなら、きっと怯えただろう。システムの外側に弾き出されることへの恐怖。評価されない人間になることへの恐怖。だが今の遥斗の耳には、その言葉はひどく軽かった。
「そうかもしれません」と遥斗は言った。「でも、効率のいい選択が、正しい選択とは限らないと、最近思うんです」
高橋は何も言わなかった。
ただ、かすかに——本当にかすかに——その表情の奥に、何かが揺れた気がした。羨望なのか、困惑なのか、あるいはもっと別の何かなのか、遥斗には分からなかった。集合知があればその感情の微細な変化も読めただろうが、今の遥斗にはただ、揺れた、という事実しか見えない。
それで、十分だった。
「お世話になりました」
遥斗は頭を下げた。深く、丁寧に。高橋だけではなく、このフロアにいるすべての人間に向けて。自分を透明な存在として扱った人々にも、それでも時折気にかけてくれた人々にも、システムの合唱に溶け込んだまま遥斗を見えなくなった人々にも、等しく。
フロアを横切る間、いくつかの視線を感じた。
山田が、席から立ち上がりかけた。遥斗はそれに小さく首を振って見せた。山田は、口を開いて、それから何も言わずに座り直した。言葉にならない何かが、その動作の中にあった。これがシステムを通じない、不格好な感情の形だ。遥斗はそれを、ありがたく受け取った。
エレベーターのボタンを押す。
扉が開いて、閉じる。
ゆっくりと、階数の数字が減っていく。
◇
ビルを出ると、風があった。
春の、少しだけ埃っぽい、体温より低い風が、遥斗のこめかみを撫でた。思わず目を閉じた。情報ではない。快適さの指標でもない。ただの風だ。どこかから来て、どこかへ消えていく、名前のない風。
遥斗は目を開けた。
東京が、いつも通り動いていた。最適化された人の流れ、信号のリズム、ガラスに映る空。その世界の外側に、今の遥斗は立っている。
怖いか、と自問した。
怖い、と正直に答えが返ってきた。
だがそれは、闇の中で声を失ったあの朝の恐怖とは、まるで質が違う。あれは喪失の恐怖だった。今感じているのは、一歩を踏み出す前の、足元が定まらない感覚。崖から飛び降りるのではなく、まだ見えない地面へ向かって、自分の足で歩いていく恐怖だ。
遥斗はポケットに手を入れた。
財布と、鍵と、それから何もないことを確かめた。デバイスは持ってきていない。今日は、自分の足と目と耳だけで、この街を歩く。
どこへ行こうか、と思った。
システムが最適な目的地を示してくれることは、もうない。地図もない。ナビもない。どこかへ向かわなければならない理由も、今日はない。
それが途方もなく、自由だった。
遥斗は歩き始めた。
風の吹いてくる方へ。それだけを頼りに、決めた。




