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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
さらば、完璧な世界

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19/22

辞表と静かな決意


辞表を書くのに、一時間かかった。


かつての遥斗なら、集合知が退職に関する法的な文言、提出のタイミング、後任への引き継ぎの最適スケジュールまで、まとめて脳内に流し込んでくれただろう。書類仕事など、考える前に終わっていた。


だが今朝の遥斗は、引き出しの奥から取り出した古い罫線ノートに、ボールペンで一字ずつ書いた。


『一身上の都合により、退職いたします。』


それだけの一文を、何度も書き直した。「一身上の都合」という言葉が、ひどく嘘くさく感じられたからだ。都合などではない。これは選択だ。しかし人事書類にそんな哲学は要らない。遥斗は苦笑いをして、結局その文言を残した。


鏡の前で、久しぶりに髭を剃った。


完璧には剃れなかった。顎の輪郭に沿って、うっすら剃り残しが残る。以前ならシステムが最適な圧力と角度を皮膚の感覚フィードバックで調整してくれたが、今は自分の手だけが頼りだ。不揃いでも、今日はこれでいい。


スーツを着た。


クローゼットの中で、少し型崩れしていた。肩のラインが微妙に歪んでいる。それでも袖を通すと、不思議と気持ちが整う感覚があった。鎧ではなく、けじめとして。


駅までの道を歩きながら、遥斗は空を見た。


薄い雲が流れていた。特に美しいわけでも、劇的でもない、平凡な春の空だ。集合知はこれを「晴れ、降水確率八パーセント、紫外線指数は中程度」と処理するだろう。だが遥斗の目には、ただ白くて、ゆっくりしていて、どこかへ向かっている雲だった。どこへ行くのかは、雲だけが知っている。


電車は混んでいた。


接続された人々の群れの中に立つと、相変わらずうっすらとした疎外感がある。隣に立つ若い女性は、焦点の合わない目で微かに微笑んでいる。ネットワークの向こう側で、誰かと何かを共有しているのだろう。かつての遥斗もそうだった。電車の揺れすら、互いの体重移動データとして共有され、車内全体がひとつの生き物のように揺れを吸収していた。


今の遥斗はただ、つり革を握って立っている。


それだけだ。それで、十分だった。



会社のビルは、いつもと変わらずそこにあった。


ガラス張りの外壁が朝日を照り返し、清潔で、無機質で、どこかの建築賞を受賞したエントランスが、訪れる者を静かに品定めしている。遥斗は自動ドアをくぐりながら、このビルを最後に出る瞬間のことを、ふと想像した。


受付を通り過ぎ、エレベーターへ。


ボタンを押す指が、特に震えていないことに気づいた。三日前までは、出社するたびに胃が重かった。同僚たちの視線、会議での疎外感、「接続不良のバグ」という噂。それらがすべて、今朝はひどく遠く感じられる。嵐の中にいる間は嵐しか見えないが、外に出てしまえば、それがどれほど小さな嵐だったか分かる。


フロアに出ると、オフィスの空気が遥斗を迎えた。


空調の音。キーボードの音。それから、音のない会話——同僚たちが意識を同期させて情報を交わす、あの独特の静けさ。誰かが顔を上げて遥斗を見た。また誰かが視線を外した。透明な壁は、今日も健在だ。


遥斗は構わず歩いた。


部長の席へ、真っ直ぐに。



部長の高橋は、五十代の半ばだった。


温厚で、優秀で、集合知との同期精度が社内で最も高いと言われている男だ。遥斗が近づくと、高橋はちょうど思考の海から引き上げるように、ゆっくりと焦点を遥斗へ合わせた。


「遥斗くん、今日は体調が——」


「辞表です」


遥斗は封筒をデスクに置いた。


高橋の目が、わずかに細くなった。封筒を手に取り、中を確認し、それから遥斗の顔を見た。情報を処理する時の、あの特有の目の動きで。


「……座りなさい」


「いいえ」と遥斗は言った。「立ったままで構いません。長くなりませんから」


高橋は少し黙った。それから、椅子に背を預けて言った。


「治療の見通しは立っていないのか」


「治療はしません」


「遥斗くん」高橋の声は穏やかだった。システムが生成した定型文ではなく、本人なりの誠実さが、その声には滲んでいた。「君の能力は買っている。接続が回復すれば、ポジションも保証できる。しかし接続なしでは——正直なところ、この職場では難しい」


「分かっています」


「非効率な選択だ」


遥斗は少し考えた。


非効率。その言葉を、三週間前の自分が聞いたなら、きっと怯えただろう。システムの外側に弾き出されることへの恐怖。評価されない人間になることへの恐怖。だが今の遥斗の耳には、その言葉はひどく軽かった。


「そうかもしれません」と遥斗は言った。「でも、効率のいい選択が、正しい選択とは限らないと、最近思うんです」


高橋は何も言わなかった。


ただ、かすかに——本当にかすかに——その表情の奥に、何かが揺れた気がした。羨望なのか、困惑なのか、あるいはもっと別の何かなのか、遥斗には分からなかった。集合知があればその感情の微細な変化も読めただろうが、今の遥斗にはただ、揺れた、という事実しか見えない。


それで、十分だった。


「お世話になりました」


遥斗は頭を下げた。深く、丁寧に。高橋だけではなく、このフロアにいるすべての人間に向けて。自分を透明な存在として扱った人々にも、それでも時折気にかけてくれた人々にも、システムの合唱に溶け込んだまま遥斗を見えなくなった人々にも、等しく。


フロアを横切る間、いくつかの視線を感じた。


山田が、席から立ち上がりかけた。遥斗はそれに小さく首を振って見せた。山田は、口を開いて、それから何も言わずに座り直した。言葉にならない何かが、その動作の中にあった。これがシステムを通じない、不格好な感情の形だ。遥斗はそれを、ありがたく受け取った。


エレベーターのボタンを押す。


扉が開いて、閉じる。


ゆっくりと、階数の数字が減っていく。



ビルを出ると、風があった。


春の、少しだけ埃っぽい、体温より低い風が、遥斗のこめかみを撫でた。思わず目を閉じた。情報ではない。快適さの指標でもない。ただの風だ。どこかから来て、どこかへ消えていく、名前のない風。


遥斗は目を開けた。


東京が、いつも通り動いていた。最適化された人の流れ、信号のリズム、ガラスに映る空。その世界の外側に、今の遥斗は立っている。


怖いか、と自問した。


怖い、と正直に答えが返ってきた。


だがそれは、闇の中で声を失ったあの朝の恐怖とは、まるで質が違う。あれは喪失の恐怖だった。今感じているのは、一歩を踏み出す前の、足元が定まらない感覚。崖から飛び降りるのではなく、まだ見えない地面へ向かって、自分の足で歩いていく恐怖だ。


遥斗はポケットに手を入れた。


財布と、鍵と、それから何もないことを確かめた。デバイスは持ってきていない。今日は、自分の足と目と耳だけで、この街を歩く。


どこへ行こうか、と思った。


システムが最適な目的地を示してくれることは、もうない。地図もない。ナビもない。どこかへ向かわなければならない理由も、今日はない。


それが途方もなく、自由だった。


遥斗は歩き始めた。


風の吹いてくる方へ。それだけを頼りに、決めた。



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