鏡の中の異邦人
朝日が来た。
カーテンの端から、細い光の刃が一本、床を切り裂いた。遥斗はソファの上で、いつの間にか眠っていた。豆腐は食べた。冷えていて、少し酸っぱかった。それでも、飲み込んだ。
体を起こすと、節々が鳴った。
集合知に接続されていた頃は、睡眠の質がスコア化されて朝に届いた。深睡眠の割合、レム睡眠の長さ、翌日のパフォーマンス予測値。目覚めた瞬間にはもう、今日という日の輪郭が決まっていた。だが今朝の遥斗には、何もない。体がだるいのか、それとも回復しているのか、自分でもよく分からない。
ただ、目が覚めた。
それだけが、事実だった。
遥斗はゆっくりと立ち上がり、洗面所へ向かった。廊下が暗い。スイッチを手で探り、灯りを点ける。その小さな手間が、ひどく久しぶりに思えた。
洗面台の前に立った。
鏡の中の男を見た。
最初、一瞬だけ、他人だと思った。
頬がこけている。顎のあたりに、不揃いな無精髭が伸びている。目の下には、うっすらとした陰が半月型に張り付いている。髪は乾いたまま放置されて、寝癖が奇妙な方向へはねている。システムの管理下にあった頃の遥斗は、肌の状態も、体重も、姿勢さえも最適値の近傍に保たれていた。脳内に流れる健康指標が、わずかな逸脱も見逃さなかったから。
今の自分は、その逸脱の集積だ。
遥斗は鏡から目を逸らさなかった。
醜い、と思った。正直に。それは自己嫌悪ではなく、ただの観察だった。健康的ではない。効率的でもない。どこかのシステムが採点すれば、おそらく赤点だろう。
しかし。
遥斗は、鏡の中の男の目を見た。
充血している。疲れている。何かを堪えたあとの、乾いた目だ。だがその奥に、うっすらと、何かが灯っていた。炎と呼ぶには小さすぎる。火花と呼ぶには静かすぎる。あえて言葉にするなら——意志、とでも呼ぶべきものが、その目の底に沈んでいた。
誰も点けてくれなかった灯りだ、と遥斗は思った。
システムが調整したものでも、集合知が運んできたものでも、美咲が微笑みかけてくれたものでもない。あの三日間、空洞の中で、誰の助けも借りずに自分が何とか燃やし続けた、小さな灯り。
蛇口を捻ると、水が出た。
冷たい水に両手を浸し、顔を洗った。水温の最適化も、ミネラルバランスの調整も何もない、ただの水道水が、頬を打った。冷たかった。目が覚めた。それだけで十分だった。
タオルで顔を拭いながら、もう一度鏡を見た。
濡れた顔の男が、こちらを見ていた。相変わらず髭は不揃いで、髪はぼさぼさで、頬はこけている。何も変わっていない。だが遥斗は、さっきよりもずっと落ち着いた目でその男を見ることができた。
お前は誰だ、と問いかけるように。
遥斗晴斗、四十歳。元会社員。集合知から切り離された男。恋人に去られた男。三日間、豆腐一丁で生き延びた男。昨夜、数億人分の安らぎを自分の意志で手放した男。
肩書きは、それだけだ。
最適化された人生のプロフィールとしては、惨憺たるものだろう。だが遥斗は今、奇妙なことに気づいていた。この惨憺たる肩書きの一つひとつが、すべて「自分がやったこと」で構成されている、ということに。良いことも、悪いことも、選択も、失敗も、全部、自分の輪郭を作るための傷だ。
傷のない人間には、輪郭がない。
窓の外から、鳥の声が聞こえた。
何という鳥か分からない。集合知があれば、鳴き声のパターンから種を特定し、渡りの時期や生息域まで教えてくれただろう。だが今の遥斗には、それが何の鳥であるかよりも、それが「鳴いている」という事実の方が、ずっと大きく届いた。
世界がある。
自分の外側に、自分とは無関係に、世界が動いている。
それが今朝の遥斗には、脅威ではなく——どこか、懐かしいもののように感じられた。
洗面所を出て、カーテンを開けた。
朝日が部屋に流れ込んだ。昨日まで気づかなかったが、光は思ったより温かかった。美咲の観葉植物が、その光の中でひっそりと息をしていた。葉の端は丸まっているが、まだ緑だった。まだ、生きていた。
遥斗は台所へ行き、コップに水を汲んだ。
植物の根元に、静かに注いだ。
正しい量かどうか分からない。最適な水やりのタイミングかどうかも分からない。ただ、そうしたかったから、そうした。それだけのことだ。
コップを置いて、遥斗は再び窓の外を見た。
東京の朝が動いていた。ナビに従って歩く人々。最適化された信号のリズム。データの流れに乗って進む、滑らかな都市の呼吸。その中に、遥斗の居場所はもうない。
だがそれでいい、と今朝の遥斗は思った。
透明なオーケストラの中に溶け込む代わりに、自分だけの不揃いな音を出して生きていく。下手でも、ずれていても、誰かに聞かせるためではなく、ただ、自分が鳴っていることを確かめるために。
鳥がまた鳴いた。
遥斗はそれを聞きながら、ゆっくりと、深く息を吸った。
肺の底まで、空気が満ちた。冷たくて、少し埃っぽくて、完璧からは程遠い東京の空気が。
これが「再生」の始まりだと、誰かに教えてもらったわけではない。
ただ、そう感じた。
自分で。




