幽霊たちの囁き
三日間、ほとんど食べなかった。
食べなかったというより、食べる気が起きなかった。冷蔵庫を開けても、何も買い足していないから、中身はどんどん減っていく。卵もなくなった。ハムもなくなった。豆腐もなくなった。
残ったのは、調味料と、賞味期限が来年のインスタント味噌汁だけだった。
それを、朝と夜に一杯ずつ飲んだ。
お湯を注いで、かき混ぜて、飲む。それだけの三日間だった。
◇
会社には、一応行っていた。
行っていた、というより、行くという動作をこなしていた。席に座って、パソコンを開いて、個人作業の案件リストを眺めた。でも、手が動かなかった。
画面の文字を、目で追った。意味は入ってこなかった。
木村さんが「大丈夫か」と声をかけてきた。
「大丈夫です」と言った。
山田が昼食に誘ってきた。
「今日はいいです」と断った。
二人とも、それ以上は聞かなかった。集合知で何かを察したのかもしれない。あるいは、僕の顔を見れば分かったのかもしれない。
どちらでも、良かった。
◇
三日目の夜、限界が来た。
空腹というより、全部が限界だった。
孤独と、痛みと、静寂と、疲労が、全部一度に押し寄せてきた。
部屋の電気もつけずに、床に座り込んだ。ソファまで移動する気力もなかった。ただ、壁に背中をあずけて、暗い部屋の真ん中に、座っていた。
脳が、うずいた。
◇
それは、囁くような感覚だった。
集合知の「声」とも違う。脳が生み出す幻の残響とも違う。もっと内側から来る、自分自身の声のような、でも自分じゃないような。
『繋いでみれば、いい。』
その声が、したような気がした。
一瞬だけ。ほんの少しだけ。繋いでみれば、と。
◇
デバイスは、テーブルの上にあった。
暗い部屋の中で、うっすらと光っていた。スタンバイ状態の青い光。
見つめた。
集合知への再接続は、このデバイスから試みることができる。医師の許可は必要だが、強制的に繋ごうとすることは技術的には可能だ。完全には繋がらないかもしれない。でも、部分的な接続くらいは、できるかもしれない。
そう、思った。
思った瞬間に、また思った。
『部分的でも、いい。少しだけでも、いい。この孤独が、少しでも埋まれば。この痛みが、少しでも薄れれば。』
声が、大きくなった。
◇
立ち上がった。
床から、ゆっくりと。膝が笑っていた。三日間まともに食べていない体は、情けないほど頼りなかった。
テーブルへ、一歩。
二歩。
三歩。
デバイスの青い光が、近づいてきた。
◇
手を伸ばした。
指先が、デバイスの表面に触れた。
冷たかった。機械の、無機質な冷たさ。
起動画面が開いた。
接続を試みますか、という文字が出た。
はい、を押そうとした。
◇
その瞬間。
さくらの手の感触が、蘇った。
小さくて、温かくて、汗ばんでいた手。ぎゅっと握り返してきた、四歳か五歳の力。
理由は分からない。何かのきっかけがあったわけじゃない。ただ、突然、手のひらに、あの温かさが戻ってきた。
指が、止まった。
◇
画面を、見た。
接続を試みますか。
はい。 いいえ。
その二択が、静かに光っていた。
はい、を押せば、何かが届く。声が戻る。情報が流れ込む。孤独が薄れる。痛みが処理される。空腹すら、忘れられるかもしれない。
それは、嘘じゃない。
本当にそうなる。
でも。
さくらを探して歩き回った夜のことを、思い出した。
地図もなく、ナビもなく、手がかりは「黄色い看板のパン屋」だけで、暗い住宅街を歩き回った。泥臭くて、非効率で、何度も迷いそうになった。
でも、見つけた。
自分の足で、見つけた。
あの夜のことを、集合知は教えてくれなかった。あの夜のことは、僕の中にしかない。
◇
たい焼きの熱さを、思い出した。
舌が焼けた、あの熱さ。カスタードのとろとろとした甘さ。正解かどうか分からないまま、直感で選んだ結果。
あの選択は、集合知がいなかったから、できた。
桜を、思い出した。
川沿いの、三分咲きの桜。名前も月齢も教えてくれる人がいない中で、ただ自分の目で見て、きれいだと思った。
木村さんの「大変だな」を、思い出した。
三文字だけ。説明もフォローもない、不完全な言葉。でも、わざわざ立ち上がって、歩いてきて、声に出した三文字。
そして、美咲の涙を、思い出した。
コートの上に落ちた雫。数値にできない痛みの形。
◇
画面を、見た。
接続を試みますか。
はい。 いいえ。
指が、ゆっくりと動いた。
いいえ、を押した。
◇
画面が、暗くなった。
部屋に、また静寂が戻った。
立ったまま、しばらく動けなかった。
手が、少し震えていた。空腹のせいか、それとも別のせいか、分からなかった。
でも、押さなかった。
自分の意志で、押さなかった。
◇
床に、また座り込んだ。
壁に背中をあずけて、天井を見た。
暗い天井だった。でも、さっきより少し、違う暗さだった気がした。さっきの暗さは、色が抜けた暗さだった。今の暗さは、ただの暗さだ。
お腹が、また鳴った。
今度は、笑えた。
笑えた自分が、少し意外だった。
「うるさいな」
暗い部屋で、お腹に言った。
お腹は、また鳴った。
◇
立ち上がった。
今度は、テーブルじゃなく、玄関へ向かった。
靴を履いた。コートを羽織った。財布を掴んだ。
ドアを開けると、夜の空気が入ってきた。
冷たかった。でも、きれいだった。三日間、部屋に閉じこもっていた体に、外の空気が染み込んだ。
コンビニへ、行こう。
それだけを、考えた。
◇
夜の街を歩いた。
人が少なかった。遅い時間だから、当然だ。
でも、いた。
犬を散歩させている老人。自転車で通り過ぎる若い男。コンビニから出てきた、白い袋を提げた女性。
みんな、それぞれの夜を、生きていた。
集合知の中で、あるいはその外で、それぞれに。
僕は三日ぶりに、外の空気を吸いながら歩いた。
◇
コンビニに入った。
蛍光灯の白い光が、目に刺さった。
棚を見た。
おにぎり、サンドイッチ、パン、弁当、カップ麺。集合知の推奨もなく、栄養バランスの計算もなく、ただずらっと並んでいる。
何を選んでもいい。
どれが正解かも、分からない。
でも、それでいい。
鮭のおにぎりを、一個取った。
それから、なんとなく、肉まんも一個。温かそうだったから。
あとは、温かい缶のお茶。
レジで会計した。店員さんが「温めますか」と聞いてきた。
「はい、お願いします」
声を出したのが、三日ぶりな気がした。
◇
コンビニの前のベンチに座った。
肉まんの袋を開けた。
湯気が出た。
ふわっと、甘い豚肉のにおいがした。
一口かじった。
熱かった。
口の中に、じんわりと旨みが広がった。たい焼きとは違う種類の、でも確かな温かさが、喉を通って、胃まで届いた。
目が、少し潤んだ。
泣きそうだった。
肉まんで泣きそうになるとは思わなかった。でも、なった。三日間まともに食べていなかった体に、温かい食べ物が入ってきた、それだけのことで。
あるいは、デバイスに触れて、でも押さなかった、そのことで。
どちらでも、良かった。
◇
おにぎりも食べた。
鮭の塩気が、おいしかった。
お茶を飲んだ。
温かかった。
夜の街を見ながら、食べ続けた。
車が通った。どこかで猫が鳴いた。風が吹いて、コートの裾が揺れた。
世界は、普通に動いていた。
僕が三日間、部屋に閉じこもっている間も、世界は普通に動いていた。
当たり前のことだけど、それが、今夜は少しだけ、ありがたかった。
◇
食べ終えて、空の袋をゴミ箱に捨てた。
立ち上がって、空を見た。
星が出ていた。
先週より少し多い気がした。空気が澄んでいるのか、雲が少ないのか、理由は分からない。でも、確かに多かった。
集合知があれば「今夜の星の見えやすさ指数は――」と届いたんだろう。
でも今夜は、ただ多かった。
それだけ、分かった。
◇
帰り道、歩きながら考えた。
さっき、デバイスに触れた。
指先が、画面に触れた。
それは本当のことだ。否定しない。あと一秒、別の気持ちだったら、押していたと思う。
でも、押さなかった。
さくらの手の温かさが、止めてくれた。
それも、本当のことだ。
幽霊みたいだな、と思った。
あの夜の記憶が、幽霊みたいに現れて、僕の手を止めた。
集合知のネットワークには残っていない記憶が、データにならない温かさが、幽霊みたいに、でも確かに、ここにいる。
◇
部屋に帰り着いた。
電気をつけた。
さっきまでの、色のない暗さとは違う部屋が、そこにあった。
同じ部屋だ。何も変わっていない。美咲のカップも、ヘアゴムも、同じ場所にある。
でも、さっきとは違う気がした。
自分が少し、違う気がした。
デバイスを、テーブルの上から、引き出しの中にしまった。
見えないところに、置いた。
必要になったら、取り出せる。でも、見えるところにあると、また触れてしまいそうだから。
引き出しを、閉めた。
◇
ベッドに入った。
天井を見た。
まだ痛かった。美咲のことも、孤独なことも、まだ変わっていない。
でも、お腹は満たされていた。
温かい肉まんと、鮭のおにぎりと、缶のお茶。最適じゃない夜食。でも、今夜の体には、十分だった。
さくらの手の温かさが、また、手のひらにある気がした。
幽霊みたいに。
でも、温かい幽霊だった。
冷たい機械の画面より、ずっと温かい幽霊が、今夜も、ここにいた。
◇
目を閉じた。
風の音がした。
今夜は、すぐに眠れる気がした。
まだ何も解決していない。痛みも、孤独も、美咲のことも、接続のことも。
全部、明日もそのまま、ここにある。
でも今夜は、自分の意志で、いいえを押した。
それだけが、今夜の、僕の話だった。
それで、十分だった。




