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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
ノイズの監獄

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幽霊たちの囁き


 三日間、ほとんど食べなかった。


 食べなかったというより、食べる気が起きなかった。冷蔵庫を開けても、何も買い足していないから、中身はどんどん減っていく。卵もなくなった。ハムもなくなった。豆腐もなくなった。


 残ったのは、調味料と、賞味期限が来年のインスタント味噌汁だけだった。


 それを、朝と夜に一杯ずつ飲んだ。


 お湯を注いで、かき混ぜて、飲む。それだけの三日間だった。



 会社には、一応行っていた。


 行っていた、というより、行くという動作をこなしていた。席に座って、パソコンを開いて、個人作業の案件リストを眺めた。でも、手が動かなかった。


 画面の文字を、目で追った。意味は入ってこなかった。


 木村さんが「大丈夫か」と声をかけてきた。


「大丈夫です」と言った。


 山田が昼食に誘ってきた。


「今日はいいです」と断った。


 二人とも、それ以上は聞かなかった。集合知で何かを察したのかもしれない。あるいは、僕の顔を見れば分かったのかもしれない。


 どちらでも、良かった。



 三日目の夜、限界が来た。


 空腹というより、全部が限界だった。


 孤独と、痛みと、静寂と、疲労が、全部一度に押し寄せてきた。


 部屋の電気もつけずに、床に座り込んだ。ソファまで移動する気力もなかった。ただ、壁に背中をあずけて、暗い部屋の真ん中に、座っていた。


 脳が、うずいた。



 それは、囁くような感覚だった。


 集合知の「声」とも違う。脳が生み出す幻の残響とも違う。もっと内側から来る、自分自身の声のような、でも自分じゃないような。


 『繋いでみれば、いい。』


 その声が、したような気がした。


 一瞬だけ。ほんの少しだけ。繋いでみれば、と。



 デバイスは、テーブルの上にあった。


 暗い部屋の中で、うっすらと光っていた。スタンバイ状態の青い光。


 見つめた。


 集合知への再接続は、このデバイスから試みることができる。医師の許可は必要だが、強制的に繋ごうとすることは技術的には可能だ。完全には繋がらないかもしれない。でも、部分的な接続くらいは、できるかもしれない。


 そう、思った。


 思った瞬間に、また思った。


 『部分的でも、いい。少しだけでも、いい。この孤独が、少しでも埋まれば。この痛みが、少しでも薄れれば。』


 声が、大きくなった。



 立ち上がった。


 床から、ゆっくりと。膝が笑っていた。三日間まともに食べていない体は、情けないほど頼りなかった。


 テーブルへ、一歩。


 二歩。


 三歩。


 デバイスの青い光が、近づいてきた。



 手を伸ばした。


 指先が、デバイスの表面に触れた。


 冷たかった。機械の、無機質な冷たさ。


 起動画面が開いた。


 接続を試みますか、という文字が出た。


 はい、を押そうとした。



 その瞬間。


 さくらの手の感触が、蘇った。


 小さくて、温かくて、汗ばんでいた手。ぎゅっと握り返してきた、四歳か五歳の力。


 理由は分からない。何かのきっかけがあったわけじゃない。ただ、突然、手のひらに、あの温かさが戻ってきた。


 指が、止まった。



 画面を、見た。


 接続を試みますか。


 はい。 いいえ。


 その二択が、静かに光っていた。


 はい、を押せば、何かが届く。声が戻る。情報が流れ込む。孤独が薄れる。痛みが処理される。空腹すら、忘れられるかもしれない。


 それは、嘘じゃない。


 本当にそうなる。


 でも。


 さくらを探して歩き回った夜のことを、思い出した。


 地図もなく、ナビもなく、手がかりは「黄色い看板のパン屋」だけで、暗い住宅街を歩き回った。泥臭くて、非効率で、何度も迷いそうになった。


 でも、見つけた。


 自分の足で、見つけた。


 あの夜のことを、集合知は教えてくれなかった。あの夜のことは、僕の中にしかない。



 たい焼きの熱さを、思い出した。


 舌が焼けた、あの熱さ。カスタードのとろとろとした甘さ。正解かどうか分からないまま、直感で選んだ結果。


 あの選択は、集合知がいなかったから、できた。


 桜を、思い出した。


 川沿いの、三分咲きの桜。名前も月齢も教えてくれる人がいない中で、ただ自分の目で見て、きれいだと思った。


 木村さんの「大変だな」を、思い出した。


 三文字だけ。説明もフォローもない、不完全な言葉。でも、わざわざ立ち上がって、歩いてきて、声に出した三文字。


 そして、美咲の涙を、思い出した。


 コートの上に落ちた雫。数値にできない痛みの形。



 画面を、見た。


 接続を試みますか。


 はい。 いいえ。


 指が、ゆっくりと動いた。


 いいえ、を押した。



 画面が、暗くなった。


 部屋に、また静寂が戻った。


 立ったまま、しばらく動けなかった。


 手が、少し震えていた。空腹のせいか、それとも別のせいか、分からなかった。


 でも、押さなかった。


 自分の意志で、押さなかった。



 床に、また座り込んだ。


 壁に背中をあずけて、天井を見た。


 暗い天井だった。でも、さっきより少し、違う暗さだった気がした。さっきの暗さは、色が抜けた暗さだった。今の暗さは、ただの暗さだ。


 お腹が、また鳴った。


 今度は、笑えた。


 笑えた自分が、少し意外だった。


「うるさいな」


 暗い部屋で、お腹に言った。


 お腹は、また鳴った。



 立ち上がった。


 今度は、テーブルじゃなく、玄関へ向かった。


 靴を履いた。コートを羽織った。財布を掴んだ。


 ドアを開けると、夜の空気が入ってきた。


 冷たかった。でも、きれいだった。三日間、部屋に閉じこもっていた体に、外の空気が染み込んだ。


 コンビニへ、行こう。


 それだけを、考えた。



 夜の街を歩いた。


 人が少なかった。遅い時間だから、当然だ。


 でも、いた。


 犬を散歩させている老人。自転車で通り過ぎる若い男。コンビニから出てきた、白い袋を提げた女性。


 みんな、それぞれの夜を、生きていた。


 集合知の中で、あるいはその外で、それぞれに。


 僕は三日ぶりに、外の空気を吸いながら歩いた。



 コンビニに入った。


 蛍光灯の白い光が、目に刺さった。


 棚を見た。


 おにぎり、サンドイッチ、パン、弁当、カップ麺。集合知の推奨もなく、栄養バランスの計算もなく、ただずらっと並んでいる。


 何を選んでもいい。


 どれが正解かも、分からない。


 でも、それでいい。


 鮭のおにぎりを、一個取った。


 それから、なんとなく、肉まんも一個。温かそうだったから。


 あとは、温かい缶のお茶。


 レジで会計した。店員さんが「温めますか」と聞いてきた。


「はい、お願いします」


 声を出したのが、三日ぶりな気がした。



 コンビニの前のベンチに座った。


 肉まんの袋を開けた。


 湯気が出た。


 ふわっと、甘い豚肉のにおいがした。


 一口かじった。


 熱かった。


 口の中に、じんわりと旨みが広がった。たい焼きとは違う種類の、でも確かな温かさが、喉を通って、胃まで届いた。


 目が、少し潤んだ。


 泣きそうだった。


 肉まんで泣きそうになるとは思わなかった。でも、なった。三日間まともに食べていなかった体に、温かい食べ物が入ってきた、それだけのことで。


 あるいは、デバイスに触れて、でも押さなかった、そのことで。


 どちらでも、良かった。



 おにぎりも食べた。


 鮭の塩気が、おいしかった。


 お茶を飲んだ。


 温かかった。


 夜の街を見ながら、食べ続けた。


 車が通った。どこかで猫が鳴いた。風が吹いて、コートの裾が揺れた。


 世界は、普通に動いていた。


 僕が三日間、部屋に閉じこもっている間も、世界は普通に動いていた。


 当たり前のことだけど、それが、今夜は少しだけ、ありがたかった。



 食べ終えて、空の袋をゴミ箱に捨てた。


 立ち上がって、空を見た。


 星が出ていた。


 先週より少し多い気がした。空気が澄んでいるのか、雲が少ないのか、理由は分からない。でも、確かに多かった。


 集合知があれば「今夜の星の見えやすさ指数は――」と届いたんだろう。


 でも今夜は、ただ多かった。


 それだけ、分かった。



 帰り道、歩きながら考えた。


 さっき、デバイスに触れた。


 指先が、画面に触れた。


 それは本当のことだ。否定しない。あと一秒、別の気持ちだったら、押していたと思う。


 でも、押さなかった。


 さくらの手の温かさが、止めてくれた。


 それも、本当のことだ。


 幽霊みたいだな、と思った。


 あの夜の記憶が、幽霊みたいに現れて、僕の手を止めた。


 集合知のネットワークには残っていない記憶が、データにならない温かさが、幽霊みたいに、でも確かに、ここにいる。



 部屋に帰り着いた。


 電気をつけた。


 さっきまでの、色のない暗さとは違う部屋が、そこにあった。


 同じ部屋だ。何も変わっていない。美咲のカップも、ヘアゴムも、同じ場所にある。


 でも、さっきとは違う気がした。


 自分が少し、違う気がした。


 デバイスを、テーブルの上から、引き出しの中にしまった。


 見えないところに、置いた。


 必要になったら、取り出せる。でも、見えるところにあると、また触れてしまいそうだから。


 引き出しを、閉めた。



 ベッドに入った。


 天井を見た。


 まだ痛かった。美咲のことも、孤独なことも、まだ変わっていない。


 でも、お腹は満たされていた。


 温かい肉まんと、鮭のおにぎりと、缶のお茶。最適じゃない夜食。でも、今夜の体には、十分だった。


 さくらの手の温かさが、また、手のひらにある気がした。


 幽霊みたいに。


 でも、温かい幽霊だった。


 冷たい機械の画面より、ずっと温かい幽霊が、今夜も、ここにいた。



 目を閉じた。


 風の音がした。


 今夜は、すぐに眠れる気がした。


 まだ何も解決していない。痛みも、孤独も、美咲のことも、接続のことも。


 全部、明日もそのまま、ここにある。


 でも今夜は、自分の意志で、いいえを押した。


 それだけが、今夜の、僕の話だった。


 それで、十分だった。



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