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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
ノイズの監獄

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16/22

色彩のない部屋


 美咲から、正式なメッセージが来たのは、翌日の夜だった。


『少し距離を置かせてほしい。嫌いになったわけじゃないけど、今の私には、遥斗についていけない。ごめんなさい』


 短かった。


 集合知があれば、もっと多くのことが届いたかもしれない。感情のデータが、言葉にならない気持ちが、後悔や迷いや、それでも好きだという気持ちが。全部まとめて、同期されて。


 でも今夜は、この三行だけだった。


 僕は画面を見つめて、何も返せなかった。



 返事を打とうとした。


 何度か試みた。


『分かった』


 消した。


『ありがとう、正直に言ってくれて』


 消した。


『俺も好きだった』


 消した。


 何を書いても、足りない気がした。何を書いても、余る気がした。言葉というのはつくづく不便だと思いながら、結局何も送らなかった。


 スマートフォンを、裏返してテーブルに置いた。



 部屋が、暗かった。


 電気はついている。でも、暗い気がした。


 美咲がよく座っていたソファの角が、いつもと同じ場所にある。美咲が使っていたカップが、洗って乾燥ラックに伏せてある。美咲が忘れていったヘアゴムが、洗面台の端に一個。


 全部、いつもと同じ場所にある。


 でも、色がない気がした。


 部屋の色が、抜けた気がした。



 ソファに座って、膝を抱えた。


 大人のすることじゃないと思いながら、それでも膝を抱えた。


 失恋だ、と思った。


 八ヶ月間、一緒にいた。集合知が選んだ相性九十九・九パーセントの相手と。完璧に調律された関係だった。摩擦もなかった、すれ違いもなかった、不満もなかった。


 それが、終わった。


 痛い。


 シンプルに、痛い。データでもなく、分析でもなく、ただ痛い。胸の真ん中に、何かが刺さっている感じがする。抜こうとすると、もっと痛い。だから、そのままにしている。



 そこで、気づいた。


 集合知があれば、この痛みは消せる。


 脳内物質の不均衡として処理されて、自動的に「適切な精神状態」へと調整される。失恋の痛みは、データ上では「セロトニンとオキシトシンの低下、コルチゾールの上昇」だ。それをシステムが整えてくれる。


 再接続すれば、いい。


 それだけで、この痛みは消える。


 そう気づいた瞬間、手が動きかけた。


 デバイスに、手が伸びかけた。



 止まった。


 自分でも、なんで止まったのか、一瞬分からなかった。


 痛みを消したい。それは本当だ。今すぐ消えてほしい。胸に刺さったままのこの感覚を、きれいにリセットしたい。


 でも。


 この痛みは、美咲と八ヶ月間、一緒にいた証拠じゃないか。


 そう思った。


 痛いということは、確かに何かがあったということだ。本物の何かが、そこにあったということだ。データで消したら、その「確かにあった何か」も、一緒に薄れていく気がした。


 手が、戻った。



 泣けるかな、と思った。


 でも、泣けなかった。


 涙が出てくる手前で、何かが詰まっている感じがした。悲しいのか、怒っているのか、虚しいのか、自分でも分からない。感情の輪郭が、ぼんやりしている。


 集合知があれば「現在の感情状態:悲嘆、推定強度七十三パーセント」とか届いたんだろうか。


 そしたら、泣けたのか。


 自分の悲しみに、数字が貼られたら、泣きやすくなるのか。


 そんなことを考えながら、ソファの上で膝を抱えたまま、時間が過ぎた。



 お腹が鳴った。


 そういえば、夕飯を食べていなかった。


 立ち上がる気にもなれなくて、でもお腹は容赦なく鳴り続けた。


 仕方なく、台所に立った。


 冷蔵庫を開けた。


 卵が一個。ハムが少し。昨日の豆腐が半丁。何も買い足していなかった。美咲が来る前は、集合知が「冷蔵庫の在庫が減っています、購入を推奨します」と教えてくれたから、切らしたことがなかった。


 今は、誰も教えてくれない。


 自分で気づかないといけない。


 気づかないと、こうなる。


 卵を割って、豆腐を崩して、ハムと一緒に炒めた。味付けは醤油だけ。栄養バランスは知らない。最適かどうかも知らない。


 ただ、食べた。


 美味しくはなかった。不味くもなかった。ただの食事だった。


 でも、食べながら、少しだけ落ち着いた。


 お腹が満たされるというのは、集合知と関係ない。痛みとも関係ない。ただ、お腹が空いていたから、食べた。それだけだ。



 食器を洗いながら、美咲のことを考えた。


 美咲は今頃、何をしているだろう。


 集合知の中で、感情を整えてもらっているかもしれない。「別れの悲嘆:適切な処理を開始します」とか届いて、じわじわと落ち着いていくかもしれない。


 羨ましい、とは思わなかった。


 思わなかったことが、少し意外だった。


 一週間前なら、羨ましかったと思う。こんな痛みを抱えているなら、消してもらえるほうがいいと思っていたはずだ。


 でも今夜は、消えなくていいと思っている。


 この痛みを、もう少し、抱えていたいと思っている。



 ソファに戻った。


 スマートフォンを表に返した。


 美咲からの三行が、まだ画面に残っていた。


『少し距離を置かせてほしい。嫌いになったわけじゃないけど、今の私には、遥斗についていけない。ごめんなさい』


 読み返した。


 一回、二回、三回。


 三行の中に、美咲がいた。怖がっていて、正直で、ちゃんと向き合おうとしている美咲が。完璧な同期じゃなく、不完全な言葉の中に、確かにいた。


『ありがとう』


 それだけ、送った。


 既読がついた。


 返事は、来なかった。


 それで、良かった。



 電気を消した。


 暗い部屋に、外の街灯が窓から差し込んだ。オレンジ色の、ぼんやりした光。


 ベッドに横になった。


 天井を見た。


 痛かった。まだ痛かった。消えない。消えてくれない。胸の真ん中に刺さったままで、呼吸のたびに、少しずつ疼いた。


 でも。


 今夜この痛みを感じているのは、僕だけだ。


 誰とも同期されていない。データにもならない。集合知のネットワークのどこにも存在しない、僕だけの痛みだ。


 美咲と、確かに何かがあった。


 その証拠が、今夜、ここにある。



 さくらの手の温かさを思い出した。


 あの小さな手。汗ばんでいて、温かくて、しっかり握り返してきた手。


 あの感触は、まだここにある。


 たい焼きの熱さも。カスタードの甘さも。商店街の夜のにおいも。川沿いの桜も。


 全部、集合知のネットワークには残っていない。


 でも、僕の中に、ある。


 美咲との八ヶ月も、同じだ。


 システムのデータには残っても、僕の体の中にある記憶は、僕だけのものだ。


 その記憶が、今夜、痛みという形で、ここにある。



 目を閉じた。


 眠れるかどうか、分からなかった。


 でも、再接続に手を伸ばしたいという気持ちは、もう来なかった。


 あの手が動きかけた瞬間のことを、ぼんやりと思い返した。


 痛みを消すために、集合知に戻ろうとした。


 でも、止まった。


 なぜ止まったのか、さっきよりは分かってきた気がした。


 痛みは、消えてほしいものじゃなかった。


 抱えていたいものだった。


 この痛みが、僕が生きている証拠だから。


 誰にも最適化されていない、僕だけの感覚だから。



 どこかで、風が鳴った。


 窓のサッシが、かすかに振動した。


 春の夜の風だった。


 暗くて、色のない部屋の中で、その音だけが、生きていた。


 僕は目を閉じたまま、その音を聞いていた。


 眠れなくてもいいと思った。


 この痛みと、この暗さと、この風の音の中に、今夜は居続けようと思った。


 消えない夜を、消えないまま、過ごそうと思った。


 それが、今夜の僕には、必要な気がした。



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