色彩のない部屋
美咲から、正式なメッセージが来たのは、翌日の夜だった。
『少し距離を置かせてほしい。嫌いになったわけじゃないけど、今の私には、遥斗についていけない。ごめんなさい』
短かった。
集合知があれば、もっと多くのことが届いたかもしれない。感情のデータが、言葉にならない気持ちが、後悔や迷いや、それでも好きだという気持ちが。全部まとめて、同期されて。
でも今夜は、この三行だけだった。
僕は画面を見つめて、何も返せなかった。
◇
返事を打とうとした。
何度か試みた。
『分かった』
消した。
『ありがとう、正直に言ってくれて』
消した。
『俺も好きだった』
消した。
何を書いても、足りない気がした。何を書いても、余る気がした。言葉というのはつくづく不便だと思いながら、結局何も送らなかった。
スマートフォンを、裏返してテーブルに置いた。
◇
部屋が、暗かった。
電気はついている。でも、暗い気がした。
美咲がよく座っていたソファの角が、いつもと同じ場所にある。美咲が使っていたカップが、洗って乾燥ラックに伏せてある。美咲が忘れていったヘアゴムが、洗面台の端に一個。
全部、いつもと同じ場所にある。
でも、色がない気がした。
部屋の色が、抜けた気がした。
◇
ソファに座って、膝を抱えた。
大人のすることじゃないと思いながら、それでも膝を抱えた。
失恋だ、と思った。
八ヶ月間、一緒にいた。集合知が選んだ相性九十九・九パーセントの相手と。完璧に調律された関係だった。摩擦もなかった、すれ違いもなかった、不満もなかった。
それが、終わった。
痛い。
シンプルに、痛い。データでもなく、分析でもなく、ただ痛い。胸の真ん中に、何かが刺さっている感じがする。抜こうとすると、もっと痛い。だから、そのままにしている。
◇
そこで、気づいた。
集合知があれば、この痛みは消せる。
脳内物質の不均衡として処理されて、自動的に「適切な精神状態」へと調整される。失恋の痛みは、データ上では「セロトニンとオキシトシンの低下、コルチゾールの上昇」だ。それをシステムが整えてくれる。
再接続すれば、いい。
それだけで、この痛みは消える。
そう気づいた瞬間、手が動きかけた。
デバイスに、手が伸びかけた。
◇
止まった。
自分でも、なんで止まったのか、一瞬分からなかった。
痛みを消したい。それは本当だ。今すぐ消えてほしい。胸に刺さったままのこの感覚を、きれいにリセットしたい。
でも。
この痛みは、美咲と八ヶ月間、一緒にいた証拠じゃないか。
そう思った。
痛いということは、確かに何かがあったということだ。本物の何かが、そこにあったということだ。データで消したら、その「確かにあった何か」も、一緒に薄れていく気がした。
手が、戻った。
◇
泣けるかな、と思った。
でも、泣けなかった。
涙が出てくる手前で、何かが詰まっている感じがした。悲しいのか、怒っているのか、虚しいのか、自分でも分からない。感情の輪郭が、ぼんやりしている。
集合知があれば「現在の感情状態:悲嘆、推定強度七十三パーセント」とか届いたんだろうか。
そしたら、泣けたのか。
自分の悲しみに、数字が貼られたら、泣きやすくなるのか。
そんなことを考えながら、ソファの上で膝を抱えたまま、時間が過ぎた。
◇
お腹が鳴った。
そういえば、夕飯を食べていなかった。
立ち上がる気にもなれなくて、でもお腹は容赦なく鳴り続けた。
仕方なく、台所に立った。
冷蔵庫を開けた。
卵が一個。ハムが少し。昨日の豆腐が半丁。何も買い足していなかった。美咲が来る前は、集合知が「冷蔵庫の在庫が減っています、購入を推奨します」と教えてくれたから、切らしたことがなかった。
今は、誰も教えてくれない。
自分で気づかないといけない。
気づかないと、こうなる。
卵を割って、豆腐を崩して、ハムと一緒に炒めた。味付けは醤油だけ。栄養バランスは知らない。最適かどうかも知らない。
ただ、食べた。
美味しくはなかった。不味くもなかった。ただの食事だった。
でも、食べながら、少しだけ落ち着いた。
お腹が満たされるというのは、集合知と関係ない。痛みとも関係ない。ただ、お腹が空いていたから、食べた。それだけだ。
◇
食器を洗いながら、美咲のことを考えた。
美咲は今頃、何をしているだろう。
集合知の中で、感情を整えてもらっているかもしれない。「別れの悲嘆:適切な処理を開始します」とか届いて、じわじわと落ち着いていくかもしれない。
羨ましい、とは思わなかった。
思わなかったことが、少し意外だった。
一週間前なら、羨ましかったと思う。こんな痛みを抱えているなら、消してもらえるほうがいいと思っていたはずだ。
でも今夜は、消えなくていいと思っている。
この痛みを、もう少し、抱えていたいと思っている。
◇
ソファに戻った。
スマートフォンを表に返した。
美咲からの三行が、まだ画面に残っていた。
『少し距離を置かせてほしい。嫌いになったわけじゃないけど、今の私には、遥斗についていけない。ごめんなさい』
読み返した。
一回、二回、三回。
三行の中に、美咲がいた。怖がっていて、正直で、ちゃんと向き合おうとしている美咲が。完璧な同期じゃなく、不完全な言葉の中に、確かにいた。
『ありがとう』
それだけ、送った。
既読がついた。
返事は、来なかった。
それで、良かった。
◇
電気を消した。
暗い部屋に、外の街灯が窓から差し込んだ。オレンジ色の、ぼんやりした光。
ベッドに横になった。
天井を見た。
痛かった。まだ痛かった。消えない。消えてくれない。胸の真ん中に刺さったままで、呼吸のたびに、少しずつ疼いた。
でも。
今夜この痛みを感じているのは、僕だけだ。
誰とも同期されていない。データにもならない。集合知のネットワークのどこにも存在しない、僕だけの痛みだ。
美咲と、確かに何かがあった。
その証拠が、今夜、ここにある。
◇
さくらの手の温かさを思い出した。
あの小さな手。汗ばんでいて、温かくて、しっかり握り返してきた手。
あの感触は、まだここにある。
たい焼きの熱さも。カスタードの甘さも。商店街の夜のにおいも。川沿いの桜も。
全部、集合知のネットワークには残っていない。
でも、僕の中に、ある。
美咲との八ヶ月も、同じだ。
システムのデータには残っても、僕の体の中にある記憶は、僕だけのものだ。
その記憶が、今夜、痛みという形で、ここにある。
◇
目を閉じた。
眠れるかどうか、分からなかった。
でも、再接続に手を伸ばしたいという気持ちは、もう来なかった。
あの手が動きかけた瞬間のことを、ぼんやりと思い返した。
痛みを消すために、集合知に戻ろうとした。
でも、止まった。
なぜ止まったのか、さっきよりは分かってきた気がした。
痛みは、消えてほしいものじゃなかった。
抱えていたいものだった。
この痛みが、僕が生きている証拠だから。
誰にも最適化されていない、僕だけの感覚だから。
◇
どこかで、風が鳴った。
窓のサッシが、かすかに振動した。
春の夜の風だった。
暗くて、色のない部屋の中で、その音だけが、生きていた。
僕は目を閉じたまま、その音を聞いていた。
眠れなくてもいいと思った。
この痛みと、この暗さと、この風の音の中に、今夜は居続けようと思った。
消えない夜を、消えないまま、過ごそうと思った。
それが、今夜の僕には、必要な気がした。




