愛の再定義
三日間、連絡がなかった。
美咲からも、僕からも。
その三日間、僕は普通に過ごした。会社に行って、個人作業をこなして、遠回りして帰った。商店街を通って、たい焼き屋の前で少し足を止めて、でも今日は入らずに通り過ぎた。
美咲のことを、考えていなかったわけじゃない。
ただ、答えが出る気もしなかった。
◇
日曜日の午後、美咲からメッセージが来た。
『会いたい。話したい』
短い文だった。
『いつでもいい。来られる?』
『今から行っていい?』
『どうぞ』
三十分後、インターホンが鳴った。
◇
美咲は、落ち着いていた。
先週みたいに目が赤くなかった。コートもちゃんと脱いだ。ソファに座って、膝の上で手を組んで、僕を見た。
「三日間、考えてた」
「俺も」
「遥斗は、何を考えてた?」
「お前のことと、俺たちのことと、愛ってなんだろうということ」
美咲は少し目を細めた。
「愛ってなんだろう、か」
「大げさかもしれないけど」
「ううん」と美咲は言った。「私も、同じことを考えてた」
◇
お茶を淹れた。
ポットのお湯が沸く音。カップに注ぐ音。シンプルな音が、静かな部屋に響いた。
二つのカップをローテーブルに置いて、向かいに座った。
美咲がカップを両手で包んだ。温めているんだろう。その仕草が、なんか好きだった。昔から知っていた仕草だったけど、今日は初めて気づいたみたいに見えた。
「先に話していい?」と美咲が言った。
「どうぞ」
「三日間で、一個だけ分かったことがある」
「うん」
「私、遥斗のことが好きだ」と美咲は言った。迷わず、はっきりと。「九十九・九パーセントとか関係なく。この三日間、集合知で他のことを処理しながら、それでも遥斗のことを考えてた。それは、データのせいじゃないと思う」
その言葉は、真っ直ぐ届いた。
「……ありがとう」
「でも」と美咲は続けた。「遥斗に、戻ってきてほしいのも本当。接続が戻って、また同期できるようになってほしい。その気持ちも、変わってない」
「うん」
「この二つは、矛盾してないと思う。私の中では」
◇
僕は少し考えてから、口を開いた。
「俺も、一個だけ分かったことがある」
「何?」
「お前のことが、好きだ」
美咲が、少し息を吸った。
「それも、九十九・九パーセントと切り離せるかどうか、正直まだ分からない」と僕は続けた。「でも、先週お前が泣いてた時に痛かったのは、本当だった。三日間、ぼんやりとお前のことを考えてたのも、本当だった」
「うん」
「だから好きなんだと思う。理屈じゃなくて」
美咲は頷いた。
でも、その目が少し揺れていた。
「じゃあ」と美咲は言った。「私たち、大丈夫なんじゃない?」
◇
そこで、止まった。
大丈夫。
その言葉が、妙に引っかかった。
「一個だけ、聞いていいか」と僕は言った。
「うん」
「お前は、分からないことが怖いか」
「分からないこと?」
「俺の今日の気分とか、何を考えてるかとか、今どんな状態かとか。同期できないから、言葉で確認するまで分からない。それが、怖いか」
美咲は少し間を置いた。
「……怖いというか、不安、かな」
「なんで不安?」
「知らないままでいるのが、落ち着かないから」
「知らないまま、でいいんじゃないかと俺は思う」
美咲の眉が、少し動いた。
◇
「知らないままでいい、ってどういうこと?」と美咲は言った。
「分からないから、聞く。分からないから、会いに来る。分からないから、傍に居たいと思う。それが愛なんじゃないかと、この三日間で思った」
「でも、分かってたほうが、もっとうまくいくじゃない」
「うまくいく、か」と僕は繰り返した。「うまくいくって、何?」
「摩擦が少ないとか、すれ違いが減るとか」
「摩擦がなかったら、何も削れない。削れなかったら、形が変わらない」
「形が変わる必要があるの?」
「変わらない関係って、最初から完成してるってことだよな」と僕は言った。「でも最初から完成してたら、二人でいる意味って何なんだろう」
美咲は少し黙った。
「それって、非効率を肯定してるじゃない」
「そうかもしれない」
「なんで非効率のほうがいいの」
「分からないことが、あったほうが、相手を知りたいと思えるから」
◇
「遥斗」と美咲は言った。声が、少し固くなっていた。「それって、綺麗ごとだと思う」
「そうかな」
「摩擦とかすれ違いとか、それって苦しいことじゃない。傷つくことじゃない。それをわざわざ選ぶのは、ただの我慢じゃないの」
「我慢と苦労は違う」
「どう違うの」
「我慢は、本当は嫌なのに耐えることだ」と僕は言った。「でもこの三日間、お前のことを考えながら、お前がどんな気持ちか知りたいと思いながら、苦しかったけど嫌じゃなかった。それが苦労だと思う」
「苦労を美化してる」
「美化かもしれない。でも、先週一緒にパスタを作った時、楽しかっただろ」
「楽しかったよ」
「あの楽しさは、言葉でやり取りして、確認しながら進んで、時間をかけて分かり合ったからじゃなかったか」
美咲は答えなかった。
カップのお茶が、少し冷めていた。
◇
「遥斗の言ってることは」と美咲はゆっくり言った。「集合知を否定してる」
「そうじゃない」
「でも、分からないほうがいいとか、摩擦があったほうがいいとか、それって集合知の反対じゃない」
「集合知がある世界で、分からないことを大切にする、ってことだと思う」
「矛盾してる」
「矛盾してるかな」
「してるよ」と美咲は言った。少し強い声になっていた。「集合知があって、最適化されて、それで私たちは出会えた。その恩恵の上にいるくせに、摩擦とかすれ違いとか言うのは、ずるいよ」
それは、正しいかもしれない、と思った。
集合知があったから、美咲に出会えた。集合知があったから、八ヶ月間、大きなすれ違いなく一緒にいられた。その上で「摩擦がいい」と言うのは、恵まれた場所から綺麗ごとを言っているだけかもしれない。
「そうかもしれない」と僕は言った。「ずるいのかもしれない」
「じゃあ」
「でも、それでも思うんだ」
◇
僕は少し前のめりになった。
「美咲、お前は俺のことを、全部知ってると思うか」
「全部は知らないよ」
「集合知で同期してた時、俺が何を怖いと思ってるか、知ってたか」
「……詳しくは、知らなかった」
「俺も、お前が何を怖いと思ってるか、知らなかった。同期してても、知らなかった」
美咲は少し黙った。
「集合知は、表面を滑らかにしてくれる」と僕は続けた。「でも、奥の奥まで届くわけじゃない。俺が接続を失ってから、お前が何を怖がってるか、初めて分かった気がする」
「何が分かったの」
「九十九・九パーセントが崩れることが、怖いんだろ」
美咲は、少し目を伏せた。
「そうかもしれない」
「それが分かったのは、言葉でやり取りしたからだと思う。同期してたら、怖さの輪郭が見えなかった。データに溶けてた」
「……それが、何だって言うの」
「怖さの輪郭が見えたから、俺はお前のことを、もう少し知れた気がする」
◇
美咲が、カップを置いた。
音がした。小さな、陶器の音。
「遥斗の言ってること」と美咲は言った。「理屈では、分かる部分もある」
「うん」
「でも、私には受け入れられない」
その言葉は、静かだったけど、はっきりしていた。
「なんで?」
「怖いから」と美咲は言った。「分からないままでいることが、怖い。苦労することが、怖い。摩擦で傷つくことが、怖い。集合知がある世界で、わざわざそれを選ぶことの意味が、私には分からない」
「意味は、すぐには分からないと思う」
「じゃあ意味が分からないまま、怖いことを受け入れろってこと?」
「それが、一緒に歩くことなんじゃないかと思う」
美咲の目が、また潤んだ。
「それって」と美咲は言った。「遥斗には分かって、私には分からない、ってこと?」
「そういうつもりじゃないけど」
「でも、そういうことじゃない。遥斗は集合知から切り離されて、いろんなことを経験して、変わった。でも私は変わってない。変わる理由がない。その差が、埋まらない気がして」
◇
沈黙が来た。
今夜一番長い沈黙だった。
時計の音。外の車の音。どこかで鳥が鳴いた。夕方の鳥だ。
美咲が、静かに言った。
「遥斗が言う愛は、分からないことを楽しめる人の愛だと思う」
「美咲は、楽しめないか」
「楽しめる自信がない」と美咲は言った。「集合知の中で生きてきて、ずっと最適化されてきて。分からないことは、埋めるものだって思ってきた。それを急に、大切にしろって言われても」
「急には無理だよな」
「うん」と美咲は言った。「無理だと思う。私には」
◇
美咲が立ち上がった。
コートを手に取った。
僕も立ち上がった。
「遥斗のこと、嫌いになったわけじゃない」と美咲は言った。
「分かってる」
「ただ、ついていけない気がする。今の遥斗には」
「うん」
「それって、ひどいことを言ってる?」
「ひどくない」と僕は言った。「正直だと思う」
美咲は少し目を閉じた。
「接続が戻ったら、また話せる?」
その言葉が、優しくて、でも遠かった。
「戻った時の俺が、今の俺と同じかどうか、分からない」
「それって、どういう意味?」
「接続が戻っても、この三日間が消えるわけじゃない。たい焼きの味も、さくらの手の温かさも、商店街の夜も、消えない」
美咲は、何も言わなかった。
「戻っても、俺は前の俺じゃないと思う」
◇
玄関で、美咲が靴を履いた。
ドアノブに手をかけて、振り返った。
「遥斗」
「うん」
「分からないことを大切にする愛、か」
「うん」
「それって」と美咲は少し考えてから言った。「すごく、疲れそうな愛だね」
それは皮肉じゃなかった。本当にそう思っている声だった。
「疲れると思う」と僕は言った。「でも、疲れた分だけ、何かが積み上がる気がする」
「私には、それが分からない」
「うん」
「分からないまま、別れるのは、嫌だけど」
「俺も嫌だ」
「でも」と美咲は言った。「今夜は、答えが出ない気がする」
「うん。出ないと思う」
◇
ドアが開いた。
廊下の蛍光灯が、白く光っていた。
美咲が一歩、外に出た。
振り返らなかった。
でも、少しだけ足を止めた。
「遥斗の言う愛が正しいとしたら」と美咲は廊下に向かって言った。「私たちは、最初から、愛し方が違ったのかもしれない」
僕は何も言えなかった。
「それが、〇・一パーセントなのかな」
足音が、廊下を遠ざかった。
エレベーターのボタンを押す音がして、扉が開いて、閉まった。
静寂が、戻ってきた。
◇
ドアを閉めて、ソファに座った。
美咲のカップが、まだそこにあった。
お茶が冷めていた。湯気はもう出ていない。
手で包んでみた。
かすかに温かかった。
美咲が両手で包んでいた温もりが、まだ陶器の中に残っていた。
それが消えていくのを、手のひらで感じながら、僕はしばらく動かなかった。
◇
夜になった。
窓の外に、先週と同じ月が出ていた。
今夜は少し丸くなっていた。三日分、満月に近づいた月だ。
〇・一パーセントが、最初から、愛し方の違いだったとしたら。
システムは九十九・九パーセントの相性を弾き出した。残りの〇・一パーセントは計算できなかった。
その〇・一パーセントの中に、美咲と僕の「愛し方の差」が入っていたとしたら。
完璧なシステムが、唯一見落とした部分が、そこだったとしたら。
笑えるのか、泣けるのか、分からなかった。
ただ、月が少し丸くなっていた。
誰も教えてくれなくても、三日前より丸くなっていることを、僕は知っていた。
自分の目で、見ていたから。




