99.9%の呪縛
週が明けた月曜日、美咲からメッセージが来た。
『今週末、うちの親に挨拶しようって話、覚えてる?』
覚えていた。
三ヶ月前に、集合知越しに決めた約束だ。美咲の両親と初めて会う予定。正式な挨拶ではないけど、「一度食事でも」という話が進んでいた。
『覚えてる。土曜日だよな』
『そう。でも、その前に話したいことがあって』
『今夜、電話できる?』
嫌な予感がした。
根拠はない。データもない。ただ、胸の奥が少し重くなった。
『いいよ。何時でも』
◇
夜の九時、電話が鳴った。
「もしもし」
「うん、もしもし」
美咲の声は、落ち着いていた。落ち着きすぎていた。何かを整理し終えた後の、静かな声だった。
「今週末の話なんだけど」
「うん」
「少し、延期にしたいんだ」
「そっか」
延期。延期か。
「理由、聞いていい?」
美咲は少し間を置いた。
「うちの親、集合知の接続状態をすごく気にする人たちで。接続不良の状態で会わせるのは、ちょっと」
言葉が途切れた。
続きは言わなかった。言わなくても、分かった。
「……うん、分かった。治ったら、また考えよう」
「ごめんね」
「謝らなくていいよ」
電話が切れた。
部屋に静寂が戻った。
窓の外で、車が一台通り過ぎた。
◇
木曜日の夜、また着信があった。
今度は電話じゃなくて、「会いに行っていい?」というメッセージだった。
『いいよ』
三十分後に、美咲が来た。
顔を見た瞬間、今夜は先週と違うと分かった。目が赤かった。泣いていたのか、それとも泣くのを堪えているのか。
「上がって」
美咲は靴を脱いで、リビングに入った。ソファに座った。コートも脱がなかった。
僕は向かいに座って、待った。
◇
「ねえ、遥斗」
美咲が口を開いた。
「うん」
「正直に話すね」
「うん」
「私ね、今週ずっと考えてた」と美咲は言った。「遥斗のこと。私たちのこと」
「どんなことを」
「私たち、システムが選んだ相性九十九・九パーセントのカップルじゃない」
「そうだな」
「最初に繋がった時から、ずっとそうだった」と美咲は続けた。「感情の同期がすごく自然で、好みも近くて、生活リズムも合って。システムが弾き出した数字の通りだって、ずっと思ってた」
「俺も、そう思ってた」
「だから」と美咲は顔を上げた。「遥斗が接続できなくなって、私、すごく怖かった」
「怖かった?」
「九十九・九パーセントが、なくなる気がして」
その言葉が、空気の中に沈んだ。
◇
僕は少し考えてから、聞いた。
「九十九・九パーセントがなくなったら、何が変わると思う?」
「分からない」と美咲は言った。「だから怖い。分からないから怖いんだよ」
「俺たちが変わると思う?」
「変わらないとは言えない」
正直な答えだ、と思った。
「システムが私たちを選んだのは、確かなことじゃない」と美咲は続けた。「それって、すごいことだよ。何億人もいる中から、最も合う相手を選んでくれた。それを信じて、一緒にいてきた」
「うん」
「でも遥斗が切れてから、同期できなくなってから」と美咲は言葉を選んだ。「私、遥斗のことが分からなくなった気がして」
「先週、一緒にパスタ作っただろ」
「うん」
「その時、分からなかったか?」
美咲は少し黙った。
「分からなかったわけじゃないけど」と美咲は言った。「同期とは、違う分かり方だった」
「どう違った?」
「もっと、時間がかかる感じ。確認しながら進む感じ。集合知なら一瞬で分かることが、言葉で聞いて、見て、考えて、やっと分かる」
「それが嫌だったか?」
また沈黙。
「……嫌じゃなかった。でも不安だった」
◇
美咲が、目元を押さえた。
泣いているのか、と思ったら、泣いていた。声は出さないけど、目から涙が伝っていた。
「美咲」
「ごめん、変なこと言うかもしれないけど」と美咲は言った。涙声になっていた。「早く治してほしい。早く戻ってきてほしい。私、遥斗のことが好きなんだけど、このままだと何が正しいのか分からなくて」
「美咲」
「九十九・九パーセントって、すごい数字じゃない。それを壊したくない。私たちのこと、壊したくない。だから治療、ちゃんとしてほしいんだ」
涙が、顎のラインを伝って、コートに落ちた。
僕はその雫を見ながら、胸が痛かった。
美咲は、僕のことが好きだ。それは本当だと思う。
でも、九十九・九パーセントのことも、好きなんだ。
◇
「一個だけ、聞いていいか」
美咲が顔を上げた。
「なに」
「お前が好きなのは、俺か。それとも、相性九十九・九パーセントというデータか」
美咲の表情が、止まった。
先週も同じことを聞いた。でも先週より、直接的に聞いた。
「……それ、ひどくない?」
「ひどいのは分かってる。でも聞きたい」
「遥斗と九十九・九パーセントは、セットじゃん」と美咲は言った。先週と同じ言葉だった。「分けられない」
「分けてみたら、どうなると思う?」
「分けられないって言ってる」
「九十九・九パーセントじゃない男のことを、お前は好きになれると思うか」
美咲は、何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった気がした。
◇
「遥斗は」と美咲が逆に聞いてきた。「私のことが好きなの? それとも、九十九・九パーセントのデータが好きなの?」
返ってくる言葉として、予想していなかった。
僕は、考えた。
美咲のことが好きだ。それは本当だ。でも、その「好き」はどこから来ている。集合知が「この人が最適です」と示し続けた八ヶ月の間に、積み上がったものだ。
データなしで、最初から出会っていたら。
同期なしで、言葉だけで知り合っていたら。
それでも、好きになっていたのか。
「……分からない」と僕は正直に言った。「分からないけど」
「けど?」
「今夜、お前が泣いてるのを見て、痛かった。それはデータじゃない」
美咲は少し顔を歪めた。
「それだけじゃ、答えになってない」
「なってないのは分かってる」
◇
二人で、しばらく黙った。
リビングに、時計の音だけが響いた。
集合知があれば、この沈黙の中でも何かが流れている。感情のデータが、状態の情報が、言葉にならないやり取りが。でも今夜は何もない。
ただ、時計が刻んでいる。
美咲が、鼻をすすった。
「私ね」と美咲は小さく言った。「遥斗に戻ってきてほしいのは、本当だよ。でも」
「でも?」
「最近の遥斗を見てると、なんか」と美咲は言葉を探した。「どんどん遠いところに行ってる気がして。接続が戻っても、前の遥斗には戻らないんじゃないかって」
その言葉が、静かに刺さった。
「前の遥斗に戻ってほしいのか」と聞いた。
「……違うかな」と美咲は言った。「違うと思いたいけど、そうなのかもしれない」
正直だ、と思った。
美咲はずっと、正直だ。
でも、その正直さが、今夜は少し苦しかった。
◇
「俺さ」と僕は言った。
「うん」
「集合知が切れてから、毎日何かを自分で決めてる。何を食べるか、どっちの道を歩くか、カスタードかつぶ餡か」
「たい焼きの話?」
「そう。くだらないけど、それが毎日ある。で、自分で決めたことって、結果が良くても悪くても、なんか自分のものな気がする」
「うん」
「でも集合知の中にいる時、俺、自分で決めてたのかな」
美咲は何も言わなかった。
「お前と付き合い始めたのも、システムが選んだからだよな。九十九・九パーセントって言われたから、そうだって思ったんだよな」
「それは」と美咲は言った。「みんなそうじゃん。みんなシステムの提示を参考にして、付き合うかどうか決める」
「参考にするだけじゃなくて、従ってるんじゃないかって思う」
「従うのと参考にするのは違う」
「どう違う?」
美咲は答えを出せなかった。
◇
「遥斗」と美咲はゆっくり言った。「それって、私たちのことを否定してるの?」
「否定はしてない」
「じゃあ何」
「分からなくなっただけだ」と僕は言った。「俺たちの気持ちが、本物かどうか」
「本物じゃないって思ってるの?」
「本物かどうか、確かめる方法がない、って思ってる」
美咲の目が、また潤んだ。
「それって、ひどい」と美咲は言った。声が震えていた。「八ヶ月間、一緒にいて。それがひどいって思う。本物かどうか分からないって」
「ひどいのは分かってる」
「分かってるならなんで言うの」
「言わないといけない気がしたから」
美咲は立ち上がった。
目が赤い。でも泣くのを止めようとしている顔だった。
「今夜は、帰る」
「うん」
「もう少し、考えさせて」
「うん」
「遥斗も、考えてよ」
「考える」
◇
玄関で靴を履きながら、美咲が振り返った。
「一個だけ言っていい?」
「どうぞ」
「九十九・九パーセントって、残りの〇・一パーセントは何だと思う?」
予想外の問いだった。
「分からない。システムも弾き出せなかった何か、じゃないか」
「私もそう思う」と美咲は言った。「その〇・一パーセントのことを、最近ずっと考えてる」
ドアが開いて、閉まった。
廊下に足音が遠ざかった。
先週と同じように。
◇
ソファに座って、天井を見た。
九十九・九パーセント。
その数字が、八ヶ月間ずっと、僕たちの背骨だった。これだけ合っているんだから大丈夫、という安心感。これだけ最適化されているんだから間違いない、という確信。
その骨が、今夜、少し揺れた気がした。
美咲を傷つけた、という自覚はある。
でも、嘘をつくよりは良かった、という気持ちもある。
〇・一パーセントの話。
システムが弾き出せなかった何か。データにならない部分。数字の外側にあるもの。
それを、僕たちはまだ知らない。
八ヶ月間、知ろうとしてこなかった。
知る必要がなかったから。
でも今は、そこが一番、気になった。
◇
窓の外に、月が出ていた。
丸くはない。半分より少し欠けた月だ。
集合知があれば「本日の月齢は――」と届くんだろう。
でも今夜は、ただの月だ。
名前も、月齢も、関係ない。
ただそこにあって、ただ光っていた。
九十九・九パーセントじゃない月が、静かに、欠けたまま、輝いていた。




