シンクロニシティの終わり
美咲から連絡が来たのは、木曜日の夜だった。
「今週、会える?」
スマートフォンの画面に、その一文だけ。
集合知があれば、こんな聞き方はしない。相手のスケジュールも、体調も、気分も、全部リアルタイムで共有されているから。「会える?」と聞く前に、答えはすでに届いている。
でも今の僕には届かないから、美咲は言葉で聞いてきた。
久しぶりに、そういう形で。
*金曜の夜、どうかな*
返したら、すぐに既読がついた。
*いいよ。家に行く*
◇
金曜日の夜、七時過ぎに美咲が来た。
インターホンが鳴って、ドアを開けると、美咲が立っていた。
一週間ぶりだった。
黒いコートに、白いマフラー。髪が少し伸びていた。顔を見た瞬間に、なんか安心した。それと同時に、なんか遠い気もした。
「久しぶり」
「久しぶり。元気そうじゃん」
「そう見える?」
「なんか、顔が違う。やつれてるわけじゃなくて」と美咲は少し首をかしげた。「なんだろ、引き締まってる感じ?」
それが嬉しいのか悲しいのか、よく分からなかった。
◇
夕食は、一緒に作ることにした。
美咲の提案だった。「何か作ろう」と言って、冷蔵庫を開けて、残っている食材を確認して、「パスタでよくない?」と言った。
集合知があれば、この流れは成立しない。
食事の前に「今夜の最適なメニュー」が両方に届いて、食材の買い出しリストも自動生成されて、作業の分担も最適化される。台所に二人で立って「何作ろっか」と話す必要が、そもそもない。
でも今夜は、言葉でやり取りした。
「パスタか。トマト缶ある」
「じゃあアマトリチャーナにしよう。ベーコンは?」
「冷蔵庫に」
「玉ねぎは?」
「一個だけ」
「十分じゃん」
美咲がエプロンをつけながら、テキパキと指示を出した。僕は言われた通りに動いた。玉ねぎを切って、ベーコンを炒めて、トマト缶を開けた。
シンプルな作業が、なんか楽しかった。
◇
問題は、食べ始めてからだった。
向かい合って座って、ワインを一杯ずつ注いで、いただきますを言って、フォークを持った。
沈黙が来た。
以前は、この沈黙が心地よかった。言葉がなくても、集合知越しに繋がっていて、互いの「今」が分かっていたから。沈黙は「何もない」じゃなくて、「全部ある」だった。
でも今夜の沈黙は、違う。
本当に、何もない。
僕は美咲の「今」が分からない。疲れているのか、機嫌がいいのか、今何を考えているのか。全部、見て、聞いて、確かめるしかない。
「美味しい?」
先に口を開いたのは、僕だった。
「うん、美味しい」と美咲は言った。フォークを置いて、ワインを飲んだ。「遥斗は?」
「美味しい。一緒に作ったからかな」
「そういうこと言うじゃん」と美咲は少し笑った。
でも、笑いが少し短かった。
◇
ワインが進んだ。
美咲が話した。職場のこと、最近見た映画のこと、先週末に友達と行ったカフェのこと。
僕は聞いた。相槌を打って、質問して、また聞いた。
集合知があれば、これも必要なかった。美咲の一週間は、リアルタイムで僕の意識に流れ込んでいたはずだから。映画を見た時の感動も、カフェのコーヒーの味も、全部、同期されていた。
でも今夜は、言葉で聞いた。
それが悪いとは思わなかった。
むしろ、話してくれる美咲の顔を見ながら聞くのが、なんか、新鮮だった。表情が変わる。目が輝く。手が動く。言葉と一緒に、体が語る。
集合知の同期では届かないものが、ここにある気がした。
◇
食事が終わって、食器を片付けた後、ソファに並んで座った。
テレビをつけた。集合知と連携した番組案内が自動で出てくるはずだが、僕の端末は接続できないから、普通のリモコンで操作した。
チャンネルをぱらぱら変えた。
旅番組。ニュース。バラエティ。料理番組。
「これでいいじゃん」と美咲が言った。
料理番組だった。南フランスの家庭料理を、現地の女性が作っている。言葉は分からないけど、映像だけで美味しそうだった。
「うん」
番組を見ながら、ソファに深く沈み込んだ。
美咲の肩が、僕の肩に触れていた。
その感触が、あたたかかった。
◇
番組が終わって、CMになった。
美咲がリモコンで音量を下げた。
「ねえ」
声のトーンが、少し変わった。
「うん」
「接続、最近どう? 良くなってる?」
「先週より拒絶反応が弱まってるって言われた」
「そっか」と美咲は言った。「良かった」
良かった、という言葉が、少し平らだった。
田中医師の「お気の毒に」を思い出した。形は違うけど、似た感触の平らさ。
「美咲は、どうしたい?」と聞いてみた。
「どうしたいって?」
「僕に、早く戻ってきてほしい?」
美咲は少し黙った。
「そりゃ、そうだよ」
「なんで?」
「なんでって」と美咲は眉を寄せた。「不便じゃん、いろいろ。スケジュールの共有もできないし、感情の同期もできないし、こうやってわざわざ言葉で説明しないといけないし」
不便だから、か。
僕は窓の外を見た。夜の街に、灯りが点いている。
「不便なのは分かる」
「じゃあ」
「でも」と僕は続けた。「今夜、一緒にパスタ作って、ワイン飲んで、南フランスの料理番組見て。それって、不便だったか?」
美咲は少し考えた。
「……不便ではなかったけど」
「俺は、楽しかった」
「私も」と美咲は言った。「でも、それは集合知があっても同じじゃない?」
◇
そうだろうか、と思った。
集合知があれば、今夜は違っていた。
メニューは最適化されていた。会話は同期で補完されていた。沈黙は「情報なし」じゃなくて「全部共有済み」だった。
同じ夜だっただろうか。
別の夜だったんじゃないか。
「集合知があったら」と僕は言った。「今夜の沈黙は、なかったと思う」
「それの何が問題なの」
「沈黙がなかったら、お前が話しかけてくることも、なかったと思う」
美咲は、何も言わなかった。
「お前が映画の話をしてくれて、俺が聞いて。そのやり取りも、なかったと思う。全部、同期で済むから」
「それの何が悪いの」と美咲は言った。少し声が硬くなっていた。「効率的じゃん。同じ情報が届くなら、わざわざ言葉にしなくていい」
「効率的だけど」
「だけど、何」
言葉を探した。
うまく出てこなかった。
◇
「今夜、お前の顔を見ながら話を聞いた」と僕は言った。「映画の話をしてる時、目が輝いてた。カフェの話をしてる時、少し口角が上がってた。それ、集合知の同期じゃ届かない」
「届くよ」と美咲は言った。「感情の同期で」
「感情の同期と、顔を見ることは違う」
「何が違うの」
「分からない」と僕は正直に言った。「うまく説明できない。でも、違う気がする」
美咲は少し黙った。
ワインのグラスを持って、また置いた。
「遥斗、最近変わった」
「そうかな」
「うん」と美咲は言った。「前は、こんなこと言わなかった。感情の同期と顔を見ることが違うとか、そういうこと」
「考えたことがなかっただけだと思う」
「考えなくていいことを、考えてる感じがする」
その言い方が、少し刺さった。
考えなくていいこと、か。
◇
「美咲」と僕は言った。「一個だけ聞いていいか」
「何」
「お前が好きなのは、俺か、それとも俺との同期か」
沈黙が落ちた。
今夜一番長い沈黙だった。
美咲の表情が、少し固まった。怒っているわけじゃない。でも、何かを整理しようとしているような顔だった。
「……何、その質問」
「変な質問だとは思う」
「変というか」と美咲は言葉を選んだ。「分けられないじゃん、そんなの。遥斗と同期することと、遥斗のことは、セットだから」
「セットじゃなくなったら?」
「だから、早く治してほしいんだよ」
その言葉が、すとんと落ちてきた。
治してほしい。
セットじゃなくなったままの僕は、美咲にとって不完全だということか。
◇
「怒らないで聞いてほしいんだけど」と美咲が言った。
「うん」
「治す気、あるよね? ちゃんと」
「あるよ」
「良かった」と美咲は息を吐いた。「なんか最近、治すことに積極的じゃない気がして。遠回りして歩くとか、たい焼き食べるとか、それはそれでいいんだけど」
「田中医師に、続けるよう言われた」
「治療として?」
「そういう意味だと思う」
美咲は少し考えた後、「そっか」と言った。
「信じてるよ、遥斗のことは」
それは、本当だと思った。
美咲が嘘をついているとは思わない。でも「信じてる」の中に、「早く戻ってきて」が混ざっていることも、分かった。
◇
二時間ほどして、美咲が帰った。
玄関で、少しだけ抱きしめた。
コートの上からでも、体温が伝わった。さくらの手ほど鮮烈じゃないけど、確かな温かさだった。
「また連絡する」と美咲は言った。
「うん」
「無理しないでね」
「お前も」
ドアが閉まった。
廊下に、足音が遠ざかっていった。
◇
ソファに戻って、ワインの残りを飲んだ。
今夜の会話を、頭の中でゆっくり巻き戻した。
美咲は、変わっていない。集合知の中で、いつも通り生きている。それが正しいんだと思う。何もおかしくない。
変わったのは、僕だ。
でも、変わったことが間違いなのかどうか、まだ分からない。
一つだけ分かったのは。
今夜の沈黙は、以前の「全部共有されている沈黙」じゃなかった。
何も共有されていない、本物の沈黙だった。
それが、不安でもあったけど。
どこかで、懐かしかった。
懐かしい、という感覚が不思議だった。
経験したことのないはずのものが、なぜか懐かしかった。
◇
グラスを洗って、電気を消した。
ベッドに入りながら、美咲の問いを思い返した。
*好きなのは、俺か、それとも俺との同期か。*
自分で言っておきながら、自分にも同じ問いが返ってきた気がした。
僕が好きなのは、美咲か。
それとも、美咲と繋がっている状態か。
答えが出ないまま、目を閉じた。
外で風が鳴っていた。
集合知とは関係ない、ただの風の音が、部屋に染み込んでいた。




