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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
五感の再起動

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12/22

選択の味


 水曜日の朝、目が覚めた。


 今日は検査の日だ。


 スマートフォンのアラームが七時に鳴って、僕は素直に起き上がった。カーテンを開けると、春らしい薄い陽光が部屋に入ってきた。天気は良さそうだ。集合知がなくても、窓を見れば分かる。


 シンプルなことだけど、それが少し嬉しかった。



 朝食は、自分で決めた。


 冷蔵庫を開けて、残っていた食材を確認する。卵が二個、ハムが少し、トマトが一個。集合知の「本日の推奨メニュー」はない。栄養バランスの計算もない。


 ただ、見て、考えて、決める。


 卵を二個割って、ハムと一緒に炒めた。トマトはそのまま切って、横に添えた。それだけ。シンプルで、たぶん最適じゃない朝食。


 でも、食べながら思った。


 悪くない、と。


 自分で選んだというだけで、なんか、味が違う気がした。気のせいかもしれない。でも気のせいでも、そう感じたのは本当だった。



 メンテナンスセンターには十時の予約だった。


 少し早めに家を出て、遠回りして歩いた。最近の習慣になりつつある。最適なルートじゃない道を、なんとなく選ぶ。


 今日は川沿いを歩いた。


 桜が咲いていた。


 満開、というわけじゃない。まだ三分咲きくらいで、枝の半分は茶色いままだ。でも咲いているところは確かに咲いていて、薄いピンクが春の光に透けていた。


 集合知があれば「今年の桜の開花状況、近くの花見スポット情報」が届いたんだろう。でも今日は、ただ桜がある。名前は知っている。でも情報じゃなくて、目の前にあるものとして、ただそこにある。


 足を止めて、見上げた。


 風が吹くと、花びらが一枚、二枚、川の上に落ちた。


 きれいだな、と思った。


 それだけだった。それだけで十分だった。



 メンテナンスセンターに着いた。


 田中医師が待っていた。いつもと同じ白衣、いつもと同じ穏やかな顔。目の奥の、集合知処理中を示す光。


「先週より顔色がいいですね」


 開口一番、そう言われた。


「そうですか」


「データじゃなくて、見た感じで、です」


 珍しいことを言う人だ、と思った。


 田中医師が「データじゃなくて」という言い方をするのは、初めてだった。



 検査は一時間ほどで終わった。


 結果を聞きながら、僕はどこかで覚悟していた。「変化なし」という言葉を。また来週も検査で、また六日間このままで、そういう話を。


「少し変化があります」


 田中医師が言った。


「変化?」


「拒絶反応が、弱まっています。接続できるレベルにはまだ遠いですが、脳がシステムを拒否する強度が、先週と比べて下がっています」


 それは良いことのはずだった。


 なのに、素直に喜べなかった。


「なんで、弱まったんですか」


「それがまだ分からなくて」と田中医師は端末を操作しながら言った。「生活に何か変化はありましたか? 食事、睡眠、行動パターン」


 僕は少し考えた。


「……遠回りして帰るようになりました。迷子の子どもを探したり、たい焼きを食べたり、川沿いを歩いたり」


「集合知なしで、自分で判断することが増えた?」


「そうなりますね」


 田中医師は何かを入力して、少し黙った。


 目の光が揺れた。集合知で何かを調べているんだろう。


「興味深いですね」


 それだけ言って、田中医師はこちらを見た。


「続けてみてください。今のままで」


「治療しないんですか」


「今のあなたの状態は、治療で無理に戻すより、自然な変化を見守るほうがいいかもしれません。もちろんこれは仮説ですが」


 田中医師の目が、珍しく、データ処理じゃない光り方をした気がした。



 センターを出たのは、十一時過ぎだった。


 天気は相変わらず良くて、気温も上がっていた。


 次の検査は二週間後でいい、と田中医師は言った。先週は来週また、と言っていたのに。


 それが何を意味するのか、正確には分からない。


 でも、少し軽かった。気持ちが。



 帰り道、あの商店街の近くを通った。


 たい焼き屋「もち」の看板が、昼間でも出ていた。


 足が止まった。


 お腹は空いていない。昼にはまだ早い。集合知があれば「現在の血糖値と食事時間から、間食は非推奨です」と届いたかもしれない。


 でも今日は、何も来ない。


 食べるかどうか、自分で決めていいんだ。


 考えた。三秒くらい考えた。


 *食べよう*



 店に入ると、昨日と同じ中年の女性がいた。


 今日は少し混んでいた。僕の前に二人並んでいる。


 メニューを見た。


 たい焼きは二種類。「つぶ餡」と「カスタード」だ。先週食べたのはつぶ餡だった。美味しかった。確実に美味しいと分かっている。


 でも、カスタードが気になった。


 データはない。口コミもない。食べたことがない。どちらが正解か、判断する材料がない。


 集合知があれば「あなたの過去の食の好みから、つぶ餡を推奨します」と届いたかもしれない。


 でも今日は、何も来ない。


 直感で、選ぶしかない。


 二十秒くらい、真剣に悩んだ。


 *カスタードにしよう*


 理由はなかった。なんとなく、今日の気分がカスタードだった。それだけだ。



「カスタード、一個ください」


「はい、少しお待ちを」


 女性が手際よく型を操る。じゅわっという音。湯気。焦げた甘いにおい。


 二分ほどで、紙に包まれたたい焼きが出てきた。


 受け取った瞬間、また熱さが来た。


 先週と同じ熱さだった。当たり前だけど、同じ温度だった。でも、先週より少し落ち着いて受け取れた気がした。



 商店街のベンチに座った。


 先週と同じベンチだ。たぶん。


 紙を開いた。


 きつね色の表面。今日も焦げ目がある。完璧じゃない形。でも、良い香りがした。


 一口、かじった。


 熱かった。また舌が、少し焼けた。


 それから、甘さが来た。


 つぶ餡とは違う甘さだった。もっとなめらかで、とろりとした甘さ。バニラの香りが鼻を抜けて、卵の濃さが後から来た。皮のさくっとした食感と、カスタードのとろとろが混ざって、口の中でひとつになった。


 目を閉じた。


 美味しい。


 正解だったのかどうか、分からない。つぶ餡のほうが好きだったかもしれない。でも今日の気分には、これが合っていた。


 それで十分だ。



 二口目を食べながら、考えた。


 集合知が脳に届ける快楽信号は、たぶん、この感覚より効率的だ。


 食事の満足感を最大化するように、脳内物質を精密に調整する。どんな食事でも「美味しい」と感じられるように。不満が出ないように。最適化された幸福感が、毎食後に届く。


 それは素晴らしいことだと、ずっと思っていた。


 でも。


 カスタードにするかつぶ餡にするか、二十秒悩んだあの時間。


 正解が分からないまま、直感で選んだあの瞬間。


 そして今、口の中に広がっているこの味が「自分で選んだ結果」だということ。


 それを、集合知は与えてくれない。


 最適解は与えてくれる。でも、選ぶ過程は与えてくれない。



 三口目を食べた。


 カスタードが少し、指に垂れた。


 慌てて紙で拭いた。


 なんか、笑えた。こういう失敗も、集合知があれば「食べ方の最適な角度」として事前に教えてくれたかもしれない。


 でも、垂れた。


 指がべとついた。


 それで良かった。



 食べ終えて、紙を丁寧に折りたたんだ。


 先週も同じことをした。習慣になりつつある。


 ゴミ箱に捨てながら、田中医師の言葉を思い出した。


*「続けてみてください。今のままで」*


 今のまま、というのは、遠回りして、迷子を探して、たい焼きを食べる、ということだろうか。


 それが治療になるのか、まだ分からない。


 でも、今のほうが、一週間前より確実に何かが違う。


 怖さは、まだある。孤独も、まだある。集合知に戻りたい気持ちも、正直まだある。


 でも、毎日少しずつ、何かが変わっている。


 自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の鼻でにおいを嗅いで、自分の舌で味を確かめる。


 それが積み重なって、何かになっている。


 何かは、まだ分からないけれど。



 立ち上がって、商店街を歩いた。


 昼間の商店街は、夜とは少し違った。八百屋のおじさんが店先で野菜を並べていた。金物屋の前で猫が日向ぼっこをしていた。本屋の老人は今日も、レジの後ろで本を読んでいた。


 昨夜と同じ人たちが、同じ場所にいた。


 集合知のネットワークには載っていない、この商店街の日常。


 データにならない時間が、ここには流れていた。


 僕は少しだけ足を緩めて、その時間の中を歩いた。



 大通りに出る手前で、ふと立ち止まった。


 なんとなく振り返った。


 商店街の細い路地が、奥まで続いていた。


 一週間前の僕は、ここを迷子として、焦りながら歩いた。スマートフォンのバッテリーが切れて、方向も分からなくて、ひたすら不安だった。


 でも今は、帰り道として知っている。


 同じ道なのに、見え方が違う。


 知っている道になった、ということかもしれない。


 迷子が、少しだけ地元の人間に近づいた、ということかもしれない。


 集合知なしで、自分の足で歩いて、自分で覚えた道。


 それが、なんか、誇らしかった。



 家に帰り着いたのは、十三時過ぎだった。


 コートを脱いで、ソファに座った。


 手のひらを見た。


 さくらの体温はもうない。たい焼きの熱さもない。


 でも、今日一日の感触が、うっすらと残っている気がした。


 桜の薄いピンク。川面に落ちた花びら。カスタードの甘さ。商店街の猫。


 全部、データじゃない。


 集合知が整理してくれない、僕の中だけにある、僕だけの記憶。


 これは、誰にも共有されない。


 誰にも同期されない。


 僕一人の中に、ある。


 それが、少しだけ、宝物みたいに思えた。



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