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完璧な幸福から外れた僕は、不完全な世界で生きることを選んだ~集合知からの脱落者~  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
エピローグ

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22/22

土と風と、私の声


三ヶ月が経った。


遥斗は今朝も、日の出より少し前に目を覚ました。


アラームではない。カーテンの隙間から差し込む、夜明け前の青白い光と、鶏の声に起こされた。この村に一軒だけある農家の鶏で、名前はまだ知らない。ただ毎朝、律儀に鳴く。それが遥斗の目覚まし時計になって、もう二ヶ月になる。


布団から出ると、板張りの床が冷たかった。


古民家を間借りしている。築六十年を超える木造の家で、隙間風が入り、雨の日は廊下の端が濡れ、冬は相当に堪えると大家の老婆・シズさんは言っていた。今はまだ春の終わりだが、それでも朝晩の冷えは東京とは比べ物にならない。


遥斗は靴下を履き、台所へ向かった。


薬缶を火にかける。その間に顔を洗う。冷たい水が目を覚まさせる。鏡を見ると、頬の肉が少し戻っていた。日に焼けて、東京にいた頃より色が濃い。無精髭は、もはや整えることを諦めた。これが今の遥斗の顔だ。


お茶を淹れながら、窓の外を見た。


山が、朝靄の中に浮かんでいる。毎朝見ているのに、毎朝少しだけ違う顔をしている。今朝は靄が深く、稜線の上半分が雲に溶けていた。てっぺんが見えない山は、どこまで続いているのか分からなくて、遥斗はそれが好きだった。



午前中は、畑に出た。


村の外れに、遥斗が借りた小さな畑がある。二十坪ほどの、何年も耕されていなかった荒れ地を、この三ヶ月で少しずつ耕してきた。最初の一週間は、鍬の使い方が分からなくて、手のひらに水ぶくれを三つ作った。二週間目は、土の固さに腰を痛めた。三週間目に、ようやく畝が作れるようになった。


今は、いくつかの野菜の芽が出ている。


大根、ほうれん草、それから何かよく分からない葉物。シズさんに種をもらって植えたのだが、何の種か聞き忘れた。毎日水をやりながら、育ってみれば分かるだろうと思っている。


鍬を土に入れる。


ざく、という音がする。


土が裂けて、湿った匂いが立ち上る。今日の土は柔らかい。昨日雨が降ったからだ。鍬を返すと、白い根のようなものが見える。虫がいる。ミミズが一匹、驚いたように身をくねらせて土に潜っていく。


遥斗はそれを見ながら、しばらく手を止めた。


三ヶ月前の自分は、ミミズを見てこんなに長く立ち止まっただろうか、と思った。立ち止まらなかっただろう。そもそも、地面を見ていなかっただろう。脳内の情報が常に前を向かせていたから。


鍬を持ち直す。


ざく、という音。またざく、という音。


それだけが、この畑に響いている。遠くで鳥が鳴いている。風が、麦藁帽子の縁を持ち上げる。遥斗の呼吸が、少し乱れて、また整う。


これが、今の遥斗の音楽だ。



昼は、シズさんの台所を借りて飯を炊いた。


シズさんは八十二歳で、膝が悪く、最近は畑仕事ができなくなったと言っていた。口は悪いが、世話好きな老婆だ。遥斗が初めてこの家に来た日、「東京の人間は役に立たない」と言い放ち、翌朝には漬物を差し入れてきた。


「今日の飯は?」とシズさんが覗き込んできた。


「昨日の残りの味噌汁と、卵焼きです」


「卵焼きは甘くするな」


「甘くしません」


「しょっぱい方が米に合う」


「分かってます」


「前も甘くしただろう」


「あれは砂糖の分量を間違えました」


シズさんは鼻を鳴らして、椅子に座った。遥斗が卵を割っていると、「手が慣れてきたな」と呟くのが聞こえた。褒め言葉だと、最近ようやく分かるようになった。


二人で食べた。


会話は少ない。シズさんは多くを語らない人だ。食べながら、窓の外の雲の動きを見ていたり、茶碗の中を見ていたり、あるいはただ咀嚼していたりする。最初の頃は、その沈黙が遥斗には居心地悪かった。何か話さなければ、と思っていた。


今は、沈黙のまま飯を食える。


それで十分だと知っている。


「畑はどうだ」とシズさんが聞いた。


「芽が出てきました。もらった種の、名前を忘れてしまって」


「どんな葉だ」


「丸くて、薄い緑で」


「チンゲン菜だろう」


「そうか」


「炒めると美味い」


「育ったら作ります」


シズさんはまた黙った。それから、湯呑みを両手で包むようにして言った。


「東京には帰らんのか」


遥斗は少し考えた。


「まだ、分かりません」


シズさんは頷いた。それ以上聞かなかった。


この老婆は、理由を求めない。経緯を聞かない。ただ、今目の前にいる人間を見る。それだけだ。遥斗はその在り方が、三ヶ月間でいちばん学んだことかもしれないと思っている。



午後、一人で山の裾を歩いた。


決まったコースはない。毎日少しずつ違う道を選ぶ。行き止まりになることもある。獣道に迷い込んで、戻れなくなりかけたこともある。それでも怪我はしていない。少しずつ、この土地の地形が体に入ってきている。


沢に出た。


細い流れが、石の間を縫っていく。水は透明で、底の石の色がそのまま見える。遥斗はその縁にしゃがんで、手を浸した。


冷たかった。


指先がすぐに痺れてくるような冷たさだ。その冷たさが、腕を伝って、肩まで届く気がした。生きている、という感覚が、こんなふうに手のひらから来ることを、三ヶ月前の遥斗は知らなかった。


水面に顔が映った。


髭が伸びて、日焼けして、麦藁帽子を被った男がいた。東京の洗面台で見た男より、少し老けたかもしれない。少し、荒れているかもしれない。しかし——


その目に、あの小さな灯りが、まだある。


消えていなかった。むしろ、三ヶ月前よりも静かに、安定して、燃えていた。誰かに燃やしてもらう必要のない灯りだ。風が吹いても、雨が降っても、孤独な夜が来ても、自分の内側で燃え続けている。


遥斗は立ち上がり、また歩き始めた。



夕方、畑に戻って最後の水をやった。


じょうろを傾けると、水が弧を描いて芽に降り注ぐ。土が水を飲む音がする。チンゲン菜の葉が、水の重さで少しだけ揺れる。


空が茜色になっていた。


山の稜線が黒く浮かび、その上に星が一つ、早くも灯っていた。この村では、星がよく見える。東京では空が明るすぎて、星などほとんど見えなかった。集合知が教えてくれる「今夜の星座」は知っていたが、実際の星の光を肉眼で見たのは、この村に来てからが初めてに近い。


じょうろを置いて、遥斗はそのまま畝の間にしゃがんだ。


土に、手のひらを当てた。


まだ少し温かかった。一日分の日差しを蓄えた、土の温度だ。この熱は、データではない。誰かが計算した最適温度でもない。ただ、太陽が照って、土がそれを受け取って、今夜の冷えが来る前の、わずかな間だけ残っている、本物の熱だ。


遥斗は目を閉じた。


数億人の声は、もう聞こえない。


あの透明なオーケストラは、どこか遠くで今日も鳴り続けているだろう。完璧な和音で、誰一人脱落することなく、世界中の意識が調和して。それは美しいものだったかもしれない、と今の遥斗は素直に思える。憎んでいない。否定したいわけでもない。


ただ、自分には合わなかった。


それだけのことだ。


目を開けると、もう一つ星が増えていた。


遥斗は口を開いた。声を出した。歌でも、言葉でもない。ただの、低い音。自分の胸から出てくる、名前のない音。鼻歌とも呼べない、もっと原始的な何か。音程も、リズムも、何もない。ただ、声が出た。


それが風に乗って、畑の上を流れていった。


誰も聞いていない。採点されない。最適化されない。共有もされない。どこにも記録されない、ただの音が、夕暮れの空気の中に溶けて、消えた。


それでよかった。


これが自分の声だ。


数億人の合唱の中に溶け込んでいたときには、聞こえなかった声だ。不揃いで、不完全で、何の旋律も持たない、しかし確かに自分の喉から出てくる、自分だけの音。


独奏、と呼ぶには大げさすぎる。


ただの、ハミングだ。


遥斗は立ち上がり、土を手で払った。道具を小屋に片付けて、古民家への道を歩き始めた。足元で砂利が鳴る。風が吹いてくる。どこかの家で夕飯の支度が始まっている匂いがする。


明日も、鶏が鳴くだろう。


土を耕すだろう。水をやるだろう。シズさんと黙って飯を食うだろう。間違えるだろう。迷うだろう。うまくいかないことがあるだろう。それでも夕方になれば、また畑の土に手を当てて、誰も聞いていない声を出すだろう。


それが、今の遥斗の一日だ。


完璧ではない。効率的でもない。最適化されてもいない。しかしその一日の全部が、システムが与えたものではなく、自分が選んで、自分が動いて、自分が感じたものだ。失敗も、土の冷たさも、シズさんの小言も、夕暮れの星も、全部。


古民家の灯りが、遠くに見えてきた。


遥斗は歩きながら、また声を出した。


さっきよりも少しだけ、大きく。


風の音と混ざって、どこかへ消えていくその声を、遥斗は初めて、愛おしいと思った。



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