お名前ちょうだい
この物語はフィクションです。
「では、何かあればフロントまで。
失礼いたします」
支配人たちは深く一礼すると、静かに部屋を後にした。
扉が閉まり、室内に静寂が戻る。
案内された先は、ため息が出るほどに美し過ぎる空間。
重厚な調度品の数々。
豪華なシャンデリアから落ちる光。
花瓶の配置。
カーテンを留めるタッセルの長さ。
その全てが、計算され尽くされている。
まるで誰かの理想を、そのまま切り取って閉じ込めたような部屋。
ポップな外観とは裏腹に、最上階を丸ごと使ったシックな“作品”。
シロウはソファへ座るよう促す。
しかしアカリは、思わず躊躇った。
どうにも、最初の一歩が踏み出せない。
——ここに、自分が触れていいのだろうか。
クッションの角度ひとつですら、意味を持っているように思えて――
そんな考えが、不意に頭をよぎる。
しかしシロウは、アカリの手をとり、あっさりとソファに座らせた。
「何か、
温かいものでもお持ちしましょうか?」
「……あ、ええと」
シロウの問いに、アカリは落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。
「……いえ、大丈夫です。
羽月君がくれた薬が効いたみたいで……
大分楽になりました」
「……そうですか、それは良かった」
安堵するシロウに、アカリは少し迷い、小さく謝った。
「……チョコレート自体は大丈夫なんですけど、クッキーとかケーキに混ざると、ちょっと苦手で……」
「それならそうと、おっしゃっていただければ……」
申し訳なさそうに視線を落とし、アカリはぽつりと続けた。
「……こんな私に、こんなによくしてくれるのが……嬉しくて。
私個人の苦手の為に断るの――
なんだか悪い気がしちゃって……」
照れくさそうに頬をかき、アカリは笑ってみせる。
「……それに、結構めんどくさい注文というか――絶対に食べられないというわけではないですし……」
笑って誤魔化すアカリ。
シロウの眉間に、一層しわが寄る。
「いえ、配慮が欠けていたのは僕の落ち度です」
少し固い声。
「申し訳、ありませんでした」
シロウは、深々と頭を下げた。
――一瞬の沈黙。
焦ったアカリは、目の前で両手を大きく振る。
「い、いえ、羽月君のせいじゃ……」
「……あなたが断れない方だと分かっていたのに、配慮が足りませんでした」
その言葉に、アカリは目を見開く。
「……や、別に断れないわけじゃ……」
視線を落として、口ごもる。
気まずい空気の中、シロウはゆっくりと顔を上げた。
「灯シ人様は、しばらくお休みください。
奥に寝室もございますので」
そう言って、部屋の奥へ視線を促す。
「僕は少し、支配人とお話をしてきます」
シロウは静かに告げると、部屋を後にした。
洗練されたリビングルーム。
一人残されたアカリは、重力に身を任せて身体を横に倒した。
控えめで爽やかなアロマの香りが漂っている。
――落ち着かない。
物珍しさに、視線だけが忙しなく動く。
「……こんな豪華な部屋、きっとお父さんとお母さんも泊まったことなんてないんだろうなー」
ぽつりと呟く。
ふと、シロウの言葉を思い返す。
――あなたが、断れない方だと分かっていたのに――
「……断れないわけじゃ、ないんだけどなぁ」
アカリにだって、断るという選択肢はある。
ただ――
「いいよ」から、
「いや」までが、
――少し遠いだけで。
相手の気持ち。
その場の空気。
いろいろな理由をくっつけていった結果、
「いいよ」と了承してしまう。
その方が――
相手をがっかりさせない。
気まずくならない。
物事がスムーズに進むから。
アカリにだって、譲れない時やものがないわけではない。
ただ、それが他の人より少ないだけ。
明確な理由がないと、断ることが怖い。
なぜか残る罪悪感が、いやなだけで――
「……っ」
急に、目頭がつんと熱くなった。
小さく身体を丸めて、ぎゅっと目を閉じる。
このまま眠ってしまおうか――
そう思った時だった。
「――ねぇねぇ、どこか痛いの?」
幼い声は、すぐ近くから。
「……痛くはないけど……んー、うまく言えないなぁ……」
「うまく? それっておいしいこと?」
「美味しいって……え?」
目を開ける。
木目の美しいローテーブルを挟んだ向かい側。
その隙間。
見えたのは、黒くて細い子供の足。
——さっきまで、そこには誰もいなかったはずなのに。
アカリは驚いて、上体を起こした。
正面のソファに、見知らぬ少女がちょこんと座っていた。
「え?」
褐色というよりは、グレーに近い肌。
「……だ、だれ?」
「わかんない!」
無造作に伸びた黒い髪。
その間から覗く赤い瞳。
無邪気に答えて、にこっと少女は笑う。
「……お、お家の人は?」
「わかんない!」
ピョンと、少女はソファから飛び降りた。
ローテーブルを回り込み、アカリの隣に座る。
「えへへぇ〜」
満面の笑顔を向けられた。
思わず、毒気が抜かれてしまう。
「……お名前は?」
ため息をついて、少女の頭を優しく撫でる。
「――ないの!」
くすぐったそうに、少女は目を細めた。
「え?」
アカリの手が止まる。
「んーと……」
少女は少し考えて、
「いーっぱいあるけどぉ――ないの!」
「――名前が……ない?」
少しだけ、アカリは警戒する。
腕を伸ばして、少女が指差した。
「え? 私?」
驚くアカリに、少女は力いっぱい頷いた。
「お名前なぁに?」
赤い瞳が、煌めく。
問われて――アカリは考える。
果たしてこの得体の知れない少女に、
教えていいものなのかと――
そして――
「……ア……カリ」
アカリは、名前だけを告げた。
「アカリ!」
少女はパチンと両手を叩く。
「アカリ、アカリ、アカリ」
両足をパタパタ動かし、歌うように連呼する。
その様子に、アカリは内心胸をなで下ろす。
どうやら害意はなさそうだ。
「お名前、アカリ!
いいなーいいなー、お名前いいなー」
身体を左右にゆらゆら揺らし――
「あ、そうだ!」
ピタリと止まる。
「ねぇねぇ、アカリ」
少女は両手を差し出して――
「お名前、ちょーだい」
無邪気に笑った。
「え? ちょーだいって……」
突然のおねだりに、思わずアカリは面食らった。
「お名前、欲しいなー」
少女は膝立ちで、ずいと身を寄せる。
「……いや、そんな……いきなり言われても……」
アカリは僅かに身を引いた。
「ほしいなー」
「うっ……」
さらに迫られる。
ソファの肘掛けに身体が当たった。
逃げ場がない。
「で、でもね。
名前っていうのは、とっても大事なもので……」
「アカリィ、おねがぁい」
「……っ」
甘えた声でダメ押しされ――
「――わ、わかった」
根負けしたアカリは、がっくりと肩を落とした。
「やったぁぁぁ!」
両手を上げて、少女は喜ぶ。
「……じゃあ、少し考えさせてね」
「うん」
――とはいえ。
アカリは口元に手を添え、改めて少女を見る。
赤い、まぁるい瞳。
期待に満ち溢れている。
にこっと、少女が笑った。
つられてアカリも、笑う。
――ダメだ。
クロ以外、思い浮かばない。
そもそもゲームをする時はデフォルト名。
ネットゲームでも、名前というよりは名称に近い。
でも――クロ、だと犬や猫みたいになってしまう。
なら――
クロア。
クロイ。
クロウ……
「――クロエ」
アカリの呟きに、少女はピクリと反応した。
「――クロエ?」
少女は、自身を指さす。
「うん、どう……かな?」
アカリは様子を伺うように笑ってみせた。
「クロエ……クロエ……クロエ……」
何度か繰り返し――
やがて。
パチン。
「クロエ!」
手を叩いて、少女は笑った。
どうやら気に入ってくれたようだ。
身体をゆらゆら揺らしながら、楽しそうに連呼している。
その様子に、アカリは一安心する。
「クロエ、アカリ」
少女――クロエは交互に指さす。
「うん。よろしくね、クロエちゃん」
アカリも笑う――が。
「違うっ!」
クロエが、ぷくっと頬を膨らませて怒った。
「……え?」
「クロエはクロエ!
クロエチャン、じゃないっ!」
ずいと詰め寄って猛抗議するクロエに、アカリはたじろぐ。
「……で、でもねクロエちゃん」
「いーやっ! クロエは、ク・ロ・エ」
癇癪を起こし、クロエは続ける。
「アカリ言った!
お名前は大事なものって――
だから、クロエはクロエ!」
クロエの言葉に、アカリはハッとする。
しかし――
「……でもね、それは……」
「いーやっ!?」
赤い瞳に、涙が滲む。
アカリは焦った。
「……わかったよ……えぇと――」
むくれた赤い瞳と目が合い、一瞬詰まる。
「――クロエ」
小さく、だがハッキリと。
アカリは少女の名前を口にした。
その瞬間――
クロエは嬉しさのあまり、アカリに飛びついた。
「うわっ!?」
そのままの勢いで、後ろへと倒れる。
コツン、と肘掛けに頭が当たった。
ほんの少し、痛い。
でも――それよりも。
「アカリ、アカリ、お名前ありがとう」
喜ぶクロエに、アカリは目を見開く。
まさか――こんな事で、礼を言われるとは思っていなかった。
こんなに喜ばれるとは、思っていなかった。
予想外の出来事。
しかしアカリの中に、温かい気持ちが広がる。
微かに生まれた――自信。
「――っ」
アカリは泣きそうになるのを堪える。
「……こちらこそ――ありがとう……クロエ」
アカリはきゅっと、クロエを抱きしめた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
突然現れた少女に、
思わず名前を与える事になったアカリ。
無邪気に喜ぶ姿に、
アカリの心に自信が芽生える――
次回
『粛清と教示』
次回更新予定:
4月26日(日)21:00頃(予定)
※変更になる場合があります




