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琥珀色の襲撃


この物語はフィクションです。


そこは、『海』の中だった。


視界は真っ黒に塗りつぶされている。

しかし、ここが『黒い海』だと理解している。


重たく静かな『海の底』であると。


ごぽり――


――息を、吐いた。




食事の後。


アカリは、ソファに座っていた。


その膝を枕にして、クロエは寝息を立てている。


「んぅ〜」


一度身動ぎし、くるりと寝返りを打つ。


仰向けになったクロエの頭を、アカリはそっと撫でた。


「シロウ君、大丈夫かな……」


時計に目を向ける。


シロウが出かけてから、

そろそろ三時間が経とうとしていた。


小さく欠伸をひとつ。


瞼が、ゆっくりと重たくなっていく。


うつら、うつらと――

船を漕ぎ始めた、その時。


ガターン!


「え? な、なに……?」


ビクリ、と身体が跳ねる。


「んー? アカリィ?」


クロエの目が、薄っすら開く。

目を擦りながら、ゆっくりと起き上がった。


「あ、ごめん……起こしちゃった?」


「んー……」


しぱしぱ瞬きをして、大きな欠伸をひとつ。


「……ヒト」


「え?」


まだ眠そうなまま、頭をゆらゆら揺らしながら、


目を閉じたまま入口を指差す。


「……ヒト。倒れてる……」


「ええ!?」


アカリは慌てて立ち上がった。


「クロエは危ないから、ここにいてね」


「んー」


ぽふっ、とソファにうつ伏せになる。


そのまま身体を丸めて――


すぐに、また寝息を立て始めた。




アカリは急いで玄関に向かった。


元は風車小屋の入口。

少し離れたところに、朽ちた看板があった。


「あ、もしかしてさっきの音って……」


見上げる。


三つ並んでいたはずの看板のうち、真ん中が――なくなっていた。


「あれが、落ちちゃったんだ」


ほっと息をつきかけて――


……でも。


クロエは、"人が倒れてる"って……。


中に戻ろうとした、その時。


「うぅ……」


声がした。


振り向く。


入口とは反対側――


そこに。


男が一人、うつ伏せで倒れていた。


「っ、大変……!?」


思わず声が上ずる。


アカリは慌てて駆け寄った。




男は、夢を見ていた――


「なんか、娘を嫁に出す父親みたーい」


からかわれ、顔を顰める。


「いいですか? 決して、僕の手を離さないように」


――だめだ。


「はーい」


軽い返事。


彼女は近づき、

白くふわふわした彼の手を取った。


――やめろ。


床に描かれた円。


白いクレヨンの線が、淡く、青白く光を放っている。


その中に立つ、少女と――


――男は手を伸ばす。


「じゃあ、お兄ちゃん」


――行っちゃ、だめだ。


「行ってくるね」


青白い線が、強く。


さらに強く輝く。


その瞬間。


ニカッ、と笑った彼女の笑顔が、

光の中へと消えた。


「行くな、メノウっ!?」


叫んで――


男は、飛び起きた。


「……っ」


直後、頭に鋭い痛みが走る。


思わず顔を押さえ込んだ。


「くっ……つぅ」


浅くなった呼吸をゆっくりと整えていく。


やがて痛みは、

波が引くように少しずつ収まっていった。


「……夢……」


あの日の、記憶。


視線を落とし、自分の手を見る。


――掴めなかった。


――止められなかった。


――……止めなかった。


その後悔と悔しさが、

じわりと視界を滲ませる。


「気が付きましたか?」


すぐ側から、声が降ってきた。


はっとして、見上げる。


「……お前は」


そこにいたのは、救急箱を抱えたアカリだった。


そして――


その足元に、

クロエがそっと身を隠している。


「あ、あの……上手く運べなくて、引きずってしまったんですけど、身体痛くないですか?」


「しかもこんな床の上で――」


アカリは申し訳なさそうに、眉をさげる。


「……」


男はしばらく呆然と、アカリを見ていた。


――何かを確かめるように。


すると。


「……ぐっ」


突然、激しく咳き込む。


「だ、大丈夫ですか!?」


アカリが慌てて手を伸ばす。


しかし――


パシッ。


その手は、無造作に払いのけられた。


「……いい。汚いから、構うな」


「……っ」


アカリはそっと手を引く。


その足元で――


「うー……」


クロエがそっと顔をだす。


小さく唸りながら――


すぐに、アカリの背に隠れた。


そのまま、隙間から。


男の様子を、じっと見ている。


だが――


男の視界は、アカリに向けられたまま。


クロエの姿には、気付いていない。


ぼろぼろの紺色のローブ。


金糸の刺繍は、ところどころ解れている。


無造作に切り揃えられた黒髪。


とても――身綺麗とは言えない。


振り払われた手を、アカリはそっと抑えた。


「……お水、持ってきますね」


「あ、おい」


小さく笑って、踵を返す。


男は思わず、アカリへ手を伸ばした。


「……っ」


その瞬間。


胸に、鋭い痛みが突き刺さる。


息が詰まり、身体を丸める。


歯を食いしばりながら、

波が過ぎるのを待つ。


――そして。


気づく。


「……まさか」


男の視線が、床に縫い付けられた。


「これは……」


そこに描かれていた。


白いクレヨンで描かれた、子供の落書きのような絵。


円の中に――


簡易な、うさぎ頭のシルエット。


見間違えるはずがない。


これは。


あの日、あの場所に残されたものと――同じ。


線に触れる。


「……っ」


すぐにその手を握りしめた。


男はゆっくりと立ち上がった。


床を鳴らし、


大股でアカリに歩み寄る。


「おい」


「え?」


振り向くよりも先に――肩を掴まれた。


ドンッ!


「……っ」


背中が壁に叩きつけられる。


「な、なに……?」


息が詰まる。


「これを描いた奴は――」


ダンッ!


男の両手が、アカリの顔の横を塞ぐ。


逃げ場が、ない。


「今、どこにいる?」


低く、押し殺した声。


「これって……」


男の落とした視線の先。


そこにあるのは――


――シロウくんの魔法陣。


「っ、どうして……」


「答えろ!!」


「っ……!」


アカリはすくみ上がる。


「答えろ……!」


一歩、詰め寄る。


「これを描いた――」


息を呑む間もなく、


「ウサギのぬいぐるみはどこにいる!」


壁についた両手が、ぎり、と軋む。


「………っ」


アカリは声すら出せない。


どうすることも出来ず、


手が、足が――身体中が震え出す。


恐怖が全身を締め付ける。


――その時。


「……頼む」


男が、ぽつりと零した。


琥珀色の瞳が、揺れる。


怒りを宿していたはずのそれが――


わずかに、崩れる。


男の眉が歪んだ。


まるで――縋るように。


「なんでもいい、知っていることがあるなら――」


その声は、弱々しく。


さきほどの怒号と同じものとは思えなかった。


「……」


伏せられた顔。


思わずアカリが手を伸ばす。


――その時。


「アカリをいじめるなぁぁぁ!」


甲高い声が、空気を裂いた。


「クロエ!?」


男の足に、クロエがしがみつく。


「ちっ」


舌打ち。


軽く振り払う。


「うあっ!?」


小さな身体が、床に倒れた。


「クロエっ!!」


その瞬間、


アカリの中で、何かが弾けた。


男を、睨みつける。


しかし――


男は、動じない。


「お前に用はない、そこで大人しく――」


言葉が、途切れた。


視線がクロエに落ちる。


――止まる。


「……お前……は」


男の瞳が、わずかに見開かれた。


わずかに後ずさり、


男の手が、壁から離れる。


――今だっ!


アカリはその隙に、男から離れた。


そのまま、クロエの元へ駆け寄る。


「クロエ、大丈夫!?」


しかし――返事はない。


ただじっと、男を見返している。


真っ赤な瞳。


それを受け止める、琥珀色の瞳。


視線が交わる。


その瞬間――


声が、聞こえた。


サイゴノ、キボウ


ワタシタチの


ウまれるよ――産まれたよ


幾重にも重なった、


歪んだ声の群れ。


頭の奥に、直接流れ込んでくる。


誰のものともつかない声。


なのに――


なぜだか、知っている気がした。


胸の奥がざわつく。


「……っ」


ポタリ。


静寂の中。


男の目から、涙が落ちた。


「……?」


止まらない。


ぽたり、ぽたりと、


足元へ零れ続ける。


「……っ、なんだこれは……」


戸惑いに、声が滲む。


自分のものとは思えない。


抑えこむように、片手で顔を覆う。


「お前は……」


滲む視界の先。


クロエの姿を捉え――


目を見開く。


「……メ、ノウ?」


呟いた、その瞬間。


――はっと息を呑む。


「っくそ」


吐き捨てる。


次の瞬間。


男の姿が、空気に溶けるように消えた。




「……はぁ――……」


アカリは、長く息を吐いた。


全身の力が抜け、


その場に、座り込む。


「助かった……のかな?」


目の前で人が消えたことも、


今はもう、考える余裕がなかった。


「アカリ、大丈夫?」


クロエが、そっと寄り添う。


「え? あー……うん、大丈夫」


答えながら、


クロエの頭に手を伸ばそうとして――


止まる。


手が、わずかに震えていた。


「アカリ?」


呼ばれて、


その瞬間、


アカリはクロエを抱きしめていた。


その温もりに、


ほんの少しだけ、


震えが収まっていく。


怖かった。何も出来なかった。


でも――


「助けてくれてありがとう、クロエ」


クロエは、

アカリをぎゅっと抱きしめた。


しばらくして。


「……誰、だったんだろう」


ぽつりと、アカリは呟く。


「……"うさぎのぬいぐるみ"って言ってたよねぇ?」


「……うさぎの、ぬいぐるみ」


クロエが、小さく繰り返す。


「でも、これを描いたのは――」


アカリは床を見る。

クロエもつられるように、視線を落とした。


「それに――」


男は寝ている間、

何度もその名を呼んでいた。


メノウ――。


「大切な人……なのかな?」


アカリの呟きに、

クロエは何も言わない。


ただ、


胸の辺りに手を当てて、

小さく首を傾げた。


まるで――


そこに"何か"があるのを、

確かめるように。


小さな手で、

そっと触れていた。



ガラス細工の丘。


砕けた木の根元に、男はいた。


「……っ」


激しく咳き込む。


掌に、べったりとした血。


荒い呼吸を繰り返し、口元を、乱暴に拭った。


あの場所から――


いや、


あの少女から逃れるために、"力"を使った。


その反動が来た。


――それだけのこと。


「……っ、は……」


息が、うまく入らない。


男は、ずるずると崩れるように座り込み、


壊れた木に背を預けた


足元で、砕けた破片がかすかに音を立てた。。


力を使うたびに、


身体が、少しずつ蝕まれていく。


ローブの袖から覗く、


歪に絡まった黒い茨のような痣が、


脈打つように、じわりと蠢く。


それはまるで、


それ自体が意思を持ち、


内側から芽吹くかのようで――。


きっと。


――長くは、もたない。


「時間が……ない」


メノウ。


その名を思い出すたび、


胸の奥が、軋む。


あの、赤い瞳。


「あの……クロエという少女」


目が合った瞬間、


なにかが、込み上げてきた。


知っているようで、知らない。


覚えているようで、覚えがない。


似ているようで、まったく似ていない。


――はずなのに。


それでも。


あのとき、確かに感じた気配は――


男にとって、たった一人の家族。


妹――メノウのものだった。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


とても、怖い思いをした。

それは事実だ。

――でも。

本当に「悪い人」なの?


次回

『穏やかなお茶会』


次回更新予定:

6月14日(日)21:00頃(予定)

※変更になる場合があります

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