黒狼の咆哮
「……止まった?」
セレスティーヌはきょろきょろと視線を動かしながら、リリアーナの背後で小さく呟いた。
天井の崩れが止まった。
急な静けさが、二人を包んだ。
「よかった……」
セレスティーヌの表情が一瞬緩んだ。
だが、リリアーナは知っていた。この岩崩れは、これから起きる戦いの前触れにすぎないと。
すると――。
ゾクッ――。
リリアーナは、今まで感じたことのない強い悪寒に襲われた。
空気が冷たい。
そして、呼吸がしにくい。まるで身体に重くのしかかるような感覚だった。
「……なんだか、寒いわ」
リリアーナの後ろで、セレスティーヌは両腕で身体を抱くようにして、身を丸めていた。
リリアーナは小さく息を飲んだ。
そして――。
「セレスティーヌ……絶対に前に出ないで、私の後ろに隠れていて……」
リリアーナの強張った声に、セレスティーヌもただならぬものを感じ取った。
「え? 何……? そんな不安になるような言い方……」
その時だった。
黒い霧のようなものが、突如、辺りを包み込んだ。
そして――。
グォォォォ――。
低い唸り声が、洞窟内に響き渡った。
思わず耳を塞ぎたくなるほどの、低く激しい唸り声に、セレスティーヌは大きく肩を震わせた。
「な、何……?」
セレスティーヌの瞳が、大きく揺れる。
一方のリリアーナは、恐怖を押し殺すように、ただ真っ直ぐにそれを見据えていた。
やがて黒い霧が晴れ、その姿が少しずつ露わになっていった。
「――っ!」
セレスティーヌの口から、声にならない声が漏れた。
現れたのは――。
中型魔獣、ブラックヴァルグ。
狼の姿をした魔獣だ。
全身を硬い黒毛に覆われた、巨大な狼。
鋭い眼光が二人を射抜き、口元からは鋭い牙が覗いている。
巨体がゆっくりと立ち上がる。
――三メートルはある。
その巨体を見上げたリリアーナは、思わず一歩後ろへ足を引いた。
(ゲームで対峙したことはあるけど、実際にこの身体で向き合うと、迫力が凄いわ)
物理攻撃を得意とする魔獣だが、一つ厄介な点があった。
それは、ブラックヴァルグの身体には防御魔法がかけられていること。攻撃を受けても、その威力を弱めてしまうのだ。
莉子がゲームでブラックヴァルグと戦った際には、攻撃してもダメージが少なく、そのせいで倒すまでに時間がかかってしまった。
(それでも、あの時はレベルも上げて挑んだから、剣で倒せたのよね。だけど……)
リリアーナは胸元の水晶を、左手でぐっと掴んだ。
すると、ブラックヴァルグの頭上に、小さな三角のマークが見える。
リリアーナは意識を集中させ、そのマークに触れた。
【ブラックヴァルグ】
戦闘能力:30
防御力:50
魔力:12
危険度:★★★
(やっぱり……)
リリアーナはその数値を見て確信した。
それは、以前ゲームで戦った時に見たものと同じだった。
ブラックヴァルグは、ゲーム『レジェンド・オブ・アルディア』の中では、中の下程度の強さだ。
特筆すべきは、その防御力だ。
高い防御力のため、簡単には剣で貫くことができない。
そして、魔力が低いこともブラックヴァルグの特徴の一つだった。
ブラックヴァルグは、「魔法そのものが強い魔獣」ではない。身体にまとった防御魔法に、魔力の大半を使っているのだ。
だから、魔力が「12」しかなかった。
リリアーナは、スカートの内側に忍ばせていた短剣を取り出した。
(こんなものでも、ないよりマシよね……)
リリアーナはその短剣を胸元で構えた。
鮮やかな装飾が、きらりと光る。
「ひっ! なんでそんなもの持ってるのっ。それに、あれは何っ!?」
それを見たセレスティーヌが、後ろで声を上げた。
リリアーナは振り返らずに言った。
「いいから黙って。今はここから逃げ切ることだけに集中して」
すると、セレスティーヌは何かを察したようにぐっと唇を噛み締めた。
そう、リリアーナが剣を持っていることなど、どうでもよかった。
大事なのは、この危険から逃れること。
グォォ――。
ブラックヴァルグの大きな唸り声とともに、その口から、強烈な悪臭が放たれた。
「うっ……」
思わず顔をしかめながらも、リリアーナは目の前のブラックヴァルグから目を離さなかった。
それは、一瞬の油断が命取りになることを知っていたからだ。
ブラックヴァルグは狼型の魔獣だ。
少しでも背中を見せれば、その素早い動きで、一瞬にして鋭い爪と牙を突き立てられる。リリアーナは、それを知っていた。
そして――。
ブラックヴァルグが動いた。
長い爪がリリアーナを襲う。
リリアーナは短剣をかざし、その爪を正面から受け止めた。
「っぅ!」
だが、あまりにも長い爪は短剣の脇をすり抜け、リリアーナの頬をかすめた。
リリアーナの頬に、すっと浅く線が入る。
鮮血が、ぽたりと地面に落ちた。
「リリアーナ様っ!」
セレスティーヌが大きく叫んだ。
リリアーナはなんとかその爪を跳ね返す。
「大丈夫、かすっただけだから……」
苦笑いを浮かべ、リリアーナは言った。
だが視線は逸らさない。
すぐさまブラックヴァルグが動いた。
大きな口を広げ、迫ってくる。
リリアーナはくるりと身を翻し、避けながら短剣を振り上げた。
だが、剣が届くよりも前に、ブラックヴァルグの腕が伸びる。
リリアーナはなんとか身をかわした。
(分かってはいたけど……)
今度はブラックヴァルグの爪がリリアーナの足元を襲った。
リリアーナはかわしたが、長いドレスは大きく引き裂かれ、引き裂かれた生地はひらひらと宙を舞った。
「きゃあああ――!」
セレスティーヌの絶叫が響き渡る。
リリアーナは、
「……大丈夫だから」
と冷静に、短く答えた。
実際スカートは破れてはいるが、リリアーナ自身は無傷だった。
(ただ、ほんとドレス、動きづらい……)
幾重にも生地が重なった重厚なロングドレスは、厚みのある生地と長い裾がもたつき、動きづらかった。
そして――。
(小さなリリアーナにとって、この短剣では分が悪すぎる)
リリアーナは小さく舌打ちをした。
「え……?」
どうやらセレスティーヌの耳にも聞こえていたようだ。あれだけ絶叫して怯えていたセレスティーヌが、きょとんとした顔で固まった。
グォ――!
大きな雄叫びとともにブラックヴァルグの腕が振り下ろされる。
ザシュッ。
鈍い音とともに、左腕に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
ブラックヴァルグの爪によって、左腕のドレスが大きく切り裂かれた。
裂けた袖口からは、血が滲んでいた。
白いドレスが、ゆっくりと赤く染まっていった。
「リリアーナ様っ!」
叫ぶセレスティーヌの瞳は、涙で潤んでいた。
リリアーナは、一歩後ろへと下がった。
(本気でまずいかも……)
ブラックヴァルグに切り裂かれた傷は、深かった。
(左手に力が入らないわ)
リリアーナの左手は、力なく垂れ下がっていた。
(元々勝てる相手じゃないのは分かってる。また前世みたいに呆気なく死にたくない。どうしたらいいの……)
不安と焦り。
リリアーナの呼吸は次第に早くなっていった。




