045話 愚の骨頂
周囲は未だに真っ暗だが、満月の光が徐々に勢力を失い始める時間帯。
依頼を終え、コラリエッタさんと別れた帰路。廃れた工業地帯の錯綜した裏通りを警戒しながら歩くものの、疲労によって脳の機能は失いかけていた。
「いつもは魔物と遭遇しないのに今日は予想外でした……普段が楽なだけに甘く見てました……」
突発的な大河の満潮が起こりうる水下都市という性質上、本能からか魔物達も滅多に寄り付かないことは既知の事実である。各都市が魔物への対抗手段――リフリアでは結界に当たる――を各々に持つ中、水下都市は廃村という身の上もあり対抗策を何も持たない。けれど、コラリエッタさんが赴いている事実や、とかくの噂が出回ることから『何処か』に人がいることは確かだ。
それでいて無差別凶暴な魔物達の蹂躙の対象とならない、魔物達に荒らされた形跡がないというのは、大河は憎くも都市を滅ぼした要因でありながら防壁の役割をも担っているのだろう。
大河の干潮満潮に周期や時期は存在しないが、それでもコラリエッタさんの依頼は好時期を射ており、魔物との遭遇率が格段に低いことを安心しきっていた体たらくではあったのだが……。
今までが怠慢なだけであって本来あるべき依頼の姿を見ただけだ、言い訳にしかならないだろう、と自分を諫めつつ、今後も今日のような危険が続くのかと億劫な気分が溜息に繋がった。
「今から考えてても仕方がないですよね……切り替え切り替え!」
未だ床につかず製薬に夢中になっているやもしれない子供達に暗い顔など見せられない。顔を弱く叩き、無理矢理にでも陰湿な感情を追い払った。
不気味なほどに静を貫くうらぶれた住処の前に辿り付き、耳をピクピクと動かし音を模索。同時に四顧し、追跡者がいないことを念入りに確認して裏口へと回る。建付けの悪い扉を慎重に、ゆっくりと開き、すっと身を潜り込ませた。
「ただぃまー……」
工場の内部へ踏み込んでも明かりの気配はなく、他部屋に比べてやや大きい間取りのリビング替わりの部屋へと侵入するも子供達の姿はやはりない。就寝しているのだろうと結論付け、ホッと安心を胸に落とした。
(服を着替えて今日は寝よう……)
机に傘を立て掛け、汚物塗れの服を脱いでいく。泥、血液、汗、擦過傷。間違っても勲章とは呼ばない汚れを目に、死線を乗り越えた戦闘が頭を刺激する。
命を落としていてもおかしくなかった。むしろ助かったことが奇跡なのではないだろうか。
それもこれも全てはあの方がいてくれたからこそ。
「本当にルカさんはいい人ですね。……世の中がルカさんのような人で溢れていたら、私もここまで苦しまなくても済んだのでしょうか……」
ありもしない期待を寄せてしまう。
たまたま付近にいたとはいえ、駆け付け、身を賭して戦場に飛び込む者がどれだけいるだろうか。二つ名を持っている階位の方であれば弱者の窮地を救う行為は朝飯前なのかもしれないが、ルカさんの名前もつい先日初めて聞いたばかりだ。
ココさんのお使いということは別世界の方なのだろうが、やけに戦闘慣れしていた。きっと多くの人を助け、多くの感謝をされるのが当たり前の人なのだろう。
同時に自分がお礼を言っていないことに気が付き、猛烈な心残りがもやもやと胸を巣食う。
また会えるだろうか。
次はいつ会えるだろうか。
「あれほど運命的な出会いを三度もしたんですからきっとまた……」
三度のどれらもまともな出会い方をしていないことを見て見ぬ振りをして。
しかしふと頭を過ぎるのは、自分に係うとルカさんまでもが碌な目に遭わないだろうということ。
自分はきっとこの世界における疫病神なのだから。
忘れよう。ルカさんのような善人は私なんかに関わっちゃいけない。
心の中で短い付き合いに礼を告げ、新しい服を棚から取り出し腕を通していく。
何も変わりのない静寂。
何も変わりのない日常の一瞬。
何も変わりのない平穏とは遠い平穏。
――何かが違う、非日常。
「…………」
着衣の手を制止し、聴覚を研ぎ澄ませる。
「……聞こえ、ない?」
心臓が核を殴打する音を暗闇の中で聞きながら、聞こえる筈の音が聞こえないことに違和感を抱く。
常ならば大合唱のような子供達のいびき、親心を刺激されるような静かな寝息。
それらが何も聞こえない。
大丈夫、いる筈だ。疲労から来るただの勘違いだ。
早足で奥の寝室へと向かい、逸る気持ちから少々乱暴に扉を開く。
「ゼノンっ!? クゥラっ!?」
そんな淡い期待は見事に裏切りを果たしていた。
もぬけの殻と化している寝室に焦燥感が一気に頂点に達する。
バタバタと紙や道具、本を地に落としながら他部屋を探すも一切の気配すら感じられない。
「気付くのが遅過ぎるでしょう!?」
あまりにも鈍感が過ぎると自分を罵倒し、頭を抱え無為に部屋を行き来する。
必死に冷静であれと頭が叫びを上げるも、現実は上手く回ってくれない。
どこに、誰が、どうやって、どうして。
子供達が自分に何も言わず外を出歩いたことなど一度もなく、追手の可能性を危惧しパニックになる頭は情報の整理機能など正常に作動しない。
そんな中寝室の簡易机の上、置き忘れたかのように開かれた一冊の手記が目に入り、飛び付きながら内容に目を走らせる。
「円月花……? 明月の夜にしか開花しない幻の花……新薬の調合に不可欠、効能は生命力の活性化……生息地は――ヒンドス樹道!? 禁足地でしょあそこは!? まさかッ!?」
部屋の片隅には、子供達が調合した様々な道具――回復薬から攻撃に使用可能な薬剤――が陳列されている棚がある。驚愕を引き連れながら一目散に小扉を開くと不安を掻き立てる光景――半分以上の小瓶、試験管が無くなっていた。
それは言外に最悪の予想が的中したことを理解するのに時間は要さない。
「馬鹿ッ!!」
一も二もなく駆け出し、リビングに立て掛けてある仕込傘『アストラス』を握ろうとして。
失敗した。
傘は地に倒れ、再度掴もうとするも目に映る手は大きく震えていた。
「……っ!?」
疲労感からだろうか。――違う。
焦燥感からだろうか。――違う。
これは恐怖心。
『禁足地』という未知に踏み込む恐怖。
魔物の軍勢を相手取らなければならない恐怖。
そして何よりも。
子供達を失う恐怖が今にも胸を握り潰しそうだった。
今すぐ助け出しに行きたい。行かなければならない。
今すぐ駆け出したい。駆け出さなければならない。
予断を許さない状況。しかし腕と足は動いてくれない。
「弱い私が一人で行って本当に助けられるの……?」
断言しよう。無理だ。
手練れの戦士達でさえ重傷を負い戦線離脱した過去がある。弱者一人で赴いても無謀も無謀、ミイラ取りがミイラになるのは火を見るよりも明らかだ。一人で行こうなんてのは自殺行為と同義である。
どうしようもなく無力で非力で、他人に縋ることしか出来ない自分を呪い殺したくなる。
「ルカ、さん……」
唯一の味方である少年の姿が転瞬頭を過る。が。
「駄目……ルカさんに破釜沈船の覚悟を背負わせるなんて出来ない……っ」
葛藤が渦を巻く。昨日今日出会った恩しかない人間にどうして死ぬ思いで助けてくれなんて言えようか。どれだけの善人でも、どれだけの聖人でも目的地が禁足地とあらば見捨てることは間違いない。
そしてもう一つの問題点。
正体を隠蔽し、都市から逃げ続けた自身ならではの私情であり、最大の難点。
(他の方々がいることも非常にマズイ……)
仮に助けを求めに行ったとしても正体が明らかになることは避けられない。最悪の場合、ゼノン達の救援に向かう前に拿捕されてしまう恐れもあった。
何もかもが噛み合わない原因である自身の境遇に、砕けそうなほどに歯を噛む。
前門の虎後門の狼。
残された選択肢はあと一つ。
その選択肢は生への執着。犠牲も余儀なしという開き直りだ。
『……ポンコツ』
脳裏で再生されるクゥラの罵倒。
身体から力が抜け落ちていく感覚。
『ポンコツパンダ』
脳裏で再生されるゼノンの罵倒。
身体から震えが抜け落ちていく感覚。
『『ポンコツ』』
二人の声が重なる。
地に落ちた傘を拾い、ぎゅっと握り締めた。
「二人とも――ありがとう」
眦を吊り上げ、扉を勢いよく開け放ち、全速力で住処を飛び出した。
愚劣だからこそ選べる間違いがある。
愚者だからこそ失いたくない人がいる。
どこまでも愚昧で。どこまでも愚蒙で。どこまでも愚陋で。
それでも。
愚かならば愚かなりに、どこまでも愚直に――。
子供達を想う気持ちだけは疎かであってはいけない。
子供達を見捨てる愚者にだけはなってはいけない!
二人の罵倒に背中を押され、遮二無二都市外北東地帯へと疾駆を始めた。
± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ±
工業地帯を抜け、都市門をくぐり、シロは急く。
幸運なことに魔物の出現は一体もない。それもその筈、北東から北西にかけての大規模な魔物狩りによって、大方の魔物は狩り尽されていたのだから。
そんなことを与り知らない少女は不可解に感じながらも好都合だと交差する脚をまた速めた。
救援に駆け付けた騎士、もといルカの発言から目的人物のおおよその居場所はわかっている。とはいえそれでも北東地帯が茫洋であるのは間違いないが、万感が聴覚を限界まで研ぎ澄ませていた。
林立した樹木を猛スピードで追い越す少女の目に、ふとあるものが目に留まる。
それは確実に目的へと近付いている何よりの証であった。
「はっ、はっ……! 魔物の死骸が道を示してくれてます……っ」
魔物の消滅までの時間差が付近で戦闘があったことを動かぬ証左として残してくれている。より熱気の漂う方へ、血の匂いが濃い方へと迷わず駆けていく。
勝負は一発限りだ。どれだけの人数が任務に駆り出されてるのかは判然としないが、ルカのいる小隊を引き当てられなければ、子供達を救出に行くどころではない。無駄死にである。
「大丈夫……っ、絶対、助けに行くからっ」
しかしシロには確実に希望の光に近付いている予感があった。
根拠はない。信じられるのは己の勘と運だ。
逸る鼓動と酸素を欲する肺を必死に宥め走り続ける。
そして遂に少女の小さな耳が微かな話し声を感知し、林道の奥へと目を凝らした。
シロは腐っても小熊猫だ。能力に欠陥があろうとも夜目は利く。
趨走は緩めず、およそ五十メートルほどの距離にいる人物達を視界に捉えた。
「はぁっ、はぁっ、三名の小隊……二人の女性と……っ!! ルカさん!!」
一瞬の喜色を表情に乗せたが、緊迫感で上書きする。ようやくスタートラインが見えただけで、まだスタート位置にも立てていないのだ。
少年目がけ脚の回転を加速し、ぐんぐんと間隔を縮めていく。
ようやくルカも急迫する一人の少女の存在に気が付き、両者の声が届く距離へと詰まる。少女は声を張り上げ、少年に救援を要請しようと名を呼び、
「ルカさ――――っぁがっ」
少女が飛んだ。
屍となったトレントの一本の根に足を躓き、右手に持っていた傘を振り回しながら。
その行く先、辿り着くは勿論ルカの顔面。
「ぶッ!?」
「ルカっ!? それに貴女は……シロさん!?」
傘の強襲を受けたルカはどこか既視感を感じながら当然のように追撃される顔面へのモフッ――丸く太い尾の棍撃を受け入れ、少女とともに転げる。
驚愕を纏うサキノの声を置き去りにルカとシロは擦過する。奇しくも少女が押し倒したような体勢に、レラは後頭部で手を組みニヤニヤと流し目でサキノを茶化し、サキノは驚愕から一転「な、なに!?」と困惑を露わにしていた。
しかしそれどころではないシロは眼前で痛痒に顔を歪める少年を間近に見据える。
「うぉぉぉ……完全にデジャヴだな……」
「ごっ、ごめんなさ――る、ルカさん!! 二人が……ゼノンとクゥラが家にいないんです!」
どこまでもポンコツな少女は謝罪を口にするも、すぐさま本題を告げ始める。
「……どういうことだ? とりあえず落ち着いて――」
「落ち着いてる場合じゃないんです! 私が依頼を終えて家に帰ったら既にいなくて……恐らく二人でヒンドス樹道に向かってしまって……!」
「ヒンドス樹道……禁足地に?」
要領を得ず直上で状況を説明する少女を落ち着かせて言及しようとするが、逼迫し鬼気迫る雰囲気にルカは瞳を狭窄させた。少し離れた場所に佇むサキノとレラも剣呑な様子に言葉を失う。
「二人は家族みたいな存在なんです! 私を孤独の縁から掬い上げてくれた大切な存在なんです!」
関係性を雄弁に訴える少女はペタンと力なくルカの上に腰を落とした。その揺れる瞳の中には悔恨が雫として溜まっていた。
「私に二人を救える力はありません……でもっ、頼れる人はいなくてっ……」
ぎゅっとルカの服を握り、萎れた耳と俯きながら懇請する。
「ルカさん……お願いします。力を、貸してください……」
ポタッ、っと一粒の涙滴が頬を伝い、上体を起こしたルカの服を湿らせた。
また一粒と流れ落ちる涙。その涙の正体は恐怖だ。
唯一少女が頼れる人物に断られる恐怖。
行く場所が場所なだけに白羽の矢が立つルカには何もメリットはない。
信頼度、親密度が数値化出来るとすればマイナスだろうとシロは断言出来る。
ルカには本当に申し訳ないと心から思いつつも、背に腹は代えられなかった。
一縷の期待を持つことも許される存在ではないことはわかっている。
それでも子供達を救える可能性がコンマの先の先の先に一でもあるのなら――ゼロではないのなら。
シロが出来ることは、その可能性に縋ることだけだ。
「ルカさんにとって栓のない話なのはわかっています……あまりにも危険です……ですがっ、私が差し出せるものならなんでも――」
外套すらも羽織い忘れた少女の必死の懇請に零れ落ちる涙をルカは指で掬い上げ、頭をポンと撫でた。
「急ぐぞ。場所が禁足地なら一刻を争うんだろ」
「――るか、さん……っは、はいっ! ありがとうございますッ!!」
肯定の返事に目を一瞬白黒させたシロだったが、悄然とした顔には晴れ間が差し、乱暴に腕で涙を拭う。ルカの上から下り体を引き起こした二人の元へ、別の心配の声が上がる。
「ルカ……本当に行くの?」
「あぁ。この子に一生モノの心傷を背負わせるわけにはいかない」
「……場所は禁足地、相当……危険だよ? それにクロユリの任務もあるし……」
決定権を持つ【クロユリ騎士団】幹部にチラッと視線を送るサキノは不安そうに、そしてどこかそわそわとした様子。
「ん~、行ってよし!」
「いいのか?」
レラの即決に、答えに揺るぎはなくともルカは思わず問い返してしまう。
「ルカ君が助けてあげたいって思う気持ちを引き止めることは出来ないよ。魔物討伐もあらかた片付いただろうし。そ・れ・と~、サキちゃんも連れてってあげて」
「レラ!?」
「だってサキちゃんさっきからずっとそわそわしてるじゃん。ルカ君心配なんでしょ? 団長には適当に誤魔化しておくから行ってきなよ~」
願ったり叶ったりなのは否定出来なかったが、レラに本心を言い当てられたとサキノは微かに羞恥を被った。どうしてこうも鋭いのだろう、と少しの悔しさを綯い交ぜにするが、否定する気にもなれず厚意に甘えることにした。
「う~……レラがそういうなら仕方ない、よね」
「素直じゃないなぁ~」
そうだこれは幹部の指示だ、と都合よく踏ん切りをつけるサキノに、本気の苦笑いを送ったレラは転瞬毅然とした表情を張りつけ指を突き付けた。
「ただし、全員生きて帰ってくるのが条件! いいね?」
普段の放縦とした相は裏方へと沈み、幹部としての威厳を見せるレラは三人の生還を切に願い激励を送る。
三人は顔を見合わせて鷹揚に首肯しながらレラとの約束を契った。
「あぁ!」「うんっ!」「はいっ!」




