046話 純粋と憧憬と
『ヒンドス樹道』。
リフリアから北西へ約十キロメートル進んだ地点に入口を持つ樹道。周囲を峻厳な岩の塔がびっしりと林立し、まるで中へと踏み込んだ侵入者はなんぴとたりとも逃がさないとでも言っているかのよう。樹道というだけあって樹木の密集度は他所とは比にならず、大小様々な木々が上部で入り組む天然の屋内は日中でも陽が差し込むことが一切ない。
見方を変えれば樹が織りなす洞窟のようにも見えるヒンドス樹道は、そういった構造から幽々とした景色が延々と続いている。唯一の救いがあるとすれば、樹木に宿った苔が微量の魔力を含んでいるらしく、微かな灯りを散開することで惣闇を防いでいることだろう。
視界情報を完全に遮断されてしまえば、いくら名うての戦士とはいえども探索など出来やしないのだから。
内部の地形は大きく分けて『低層』『中層』『高層』の三層構造。読んで字の如く三段の層域があり、奥地に潜む層域の変わり目には截然と断崖が立ち塞がっている。次層へ進むには断崖を登攀しなければならず、当然の如く上層へと進むほど内部に棲みつく魔物も強力になる。
数々の冒険者や捜索者の記録が魔界リフリアには残されているが、どれも中層までの記録しか残されていない。それも低層で仲間の半分を失い、中層から命からがら潰走してきたというものが多い。
禁足地に指定されたのも、身をもって経験した惨劇の声が多数寄せられたことからなのだろう。
『ひとたび足を踏み入れたのなら命は既にないと思え』。
当時の悪夢が蘇ったのか震える文字で最後に書かれていた一冊の書物が魔界を震撼させ、人々に畏怖を齎したのだ。
その書物を往時読んだことがあった少年ゼノンと少女クゥラは、まさか自分達が大多数の戦士達を差し置いて危地へと赴くことになるとは思ってもみなかった――過去には。
目的はシロの推測通りゼノンの手記に記載してあった植物の採取だ。
住処を出立して七時間が経過していた。準備は万端で出たがクゥラの低体力による休息時間、都市外で行われている魔物狩りの小隊の目を掻い潜る迂回時間が想像以上に時間を喰っていた。
既にヒンドス樹道『低層』に踏み入り、息を殺しながら移動を続けるゼノンは敢然と奥地へ歩を進める。その背後では兄と同じように黒の外套を身に付け、闇に同化しながらもビクビクと委縮するクゥラが続く。
中腰――極限まで身を低くし、足音や布擦れの音すらも最小限に抑制するゼノンの右手の合図がクゥラの歩を遮った。口に手を当てて恐怖と悲鳴を嚥下するクゥラ。
間もなくして二人の目の前五メートルをズズン……と地を震撼させながらミノタウロスが通過した。
ホッと胸を撫で下ろすクゥラが前方を見ずに一歩踏み出す。
しかし時既に遅く、静止の合図を解いていないゼノンにゴンッとぶつかってしまった。
「……ごっ、ごめ――」
「喋るな」
『ガルアアアアアアッ!!』
無警戒で徘徊していたミノタウロスの背後から奇襲を仕掛けるブラックドッグ。二人は断然優勢であると信じて疑わなかったブラックドッグが首筋に噛み付く瞬間を前に。
弱肉強食の世界を見た。
『ギャンッ!?』
ミノタウロスの振り向きざまの裏拳がブラックドッグの頤を粉砕し、吹き飛ばした。
牙の隙間から鮮血を溢れさせ、苦悶に地をのたまうブラックドッグへ容赦のない追撃――斧の断頭台が更なる血飛沫を豪快に撒き散らす。
「……ひっ!?」
小さく漏れる悲鳴にミノタウロスはピクッと反応を示すが、四顧するだけで襲撃がないことを悟るとその場を去っていく。
辺りが辺りなだけに俄然目視し辛いところはあったが、ゼノンの眼には確とミノタウロスの全身を黒い靄が取り巻いていることを目撃していた。
ふぅ~……と緊迫感を盛大に吐息として放出し、その場にしゃがみ込む二人。
「クゥラ、ビビるのは生き抜く上で大事だが詰めが甘ぇ。いつ襲われてもおかしくねぇんだ、絶対に気を抜くな」
「……ごめん、なさい」
「……行くぞ」
短い反省会を終え、ゼノンは再び周囲に警戒を払い進み始める。
次々と横を、前を、後ろを通過していく魔物達は二人の存在に気が付かない。
黒衣を味方につけ闇に溶け込んだ二人とはいえ、多勢の魔物達がのさばる樹道を見つからずに進行していくのは不可能だ。
それを可能にしているのは市場に出回っていない二人だけの秘密道具『無臭剤』のおかげである。
霧噴射タイプの薬剤で全身にふりかけることで臭いを消すことが可能な道具。風呂とは無縁の廃屋暮らしで体臭が気になったクゥラが考案し、開発した経緯がある。身を清める効果は見込めないものの、臭いという臭いは完全に消臭されているため、嗅覚の鋭い魔物にも気付かれにくい。
本来の使用目的とは若干のかけ違いは見られるが効果は覿面だった。
しかし臭いを絶ったとはいえ、そこら中で徘徊する魔物達の視覚聴覚を妨害する効果は勿論ない。
だから二人はせめてもの抵抗として黒衣で闇に扮し、音に最大限の注意を払う。
何より二人は齢十二にして秀逸なのだ。幼少期より英才教育を施されてきた二人は、気配遮断が存外に得意であった。
頭が回り気概があるゼノンはもとより、臆病なクゥラは呑み込みが人一倍早かった。昔日の教授及びお尋ね者の身の上から繰り返して来た気配遮断は、実地経験など今回が初の二人ではあったが真価を発揮していたのだ。
このまま見つからなければイケる。手応えを感じるゼノンだったが、それでも決して慢心はなかった。
「……お兄ちゃん、さっきから気になってたんだけど何を撒いてるの?」
ヒンドス樹道に踏み入ってから短い間隔で小瓶に詰められた粉のようなものを地に撒きながら進んでいたゼノンに、クゥラは小声で尋ねる。
「クゥラもヒンドス樹道体験手記読んだことあるだろ? 戦士達が壊滅にまで追い込まれた一番の要因が何か覚えてるか?」
「……えっと、魔物の襲撃が途切れない、こと?」
「半分正解だ。回復薬をやろう」
「……ありがとうお兄ちゃん。もう半分は?」
会話を続けながら周囲に危険がないことを充分に確認して、クゥラの疲労度を細心したゼノンは背の鞄から試験管を取り出す。緑色の液体が少女の口に注がれていくのを見ながら、ゼノンは白色の粉を手に取り地へと示した。
「『ひとたび足を踏み入れたのなら命は既にないと思え』、この言葉の真意はヒンドス樹道から中々抜けられなくなることにあるんだ。見渡す限り樹が生い茂る道……太陽すら拝めない樹道は目印になるものが何もねぇ。彷徨い続けりゃ来た道も行く道もわからなくなる。戦闘があろうもんなら方向感覚なんて尚更だろ」
「……あ、そのための目印だったんだね」
「円月花を仮に見つけられたとしても、帰り道がわからなかったら話にならねぇ。無為に出入口を探してる間に魔物に狙われたら終わりだからな」
魔物の襲撃が途切れないのは迷宮に迷い込んだが故の二次災害だと付け加え、回復薬を飲み終えた少女から空き瓶を受け取り静かに鞄へとしまう。
再三行動を開始しようと二人頷き、ゼノンが前を向く。そんな少年の小さな背に、ぽつりと言葉が乗せられた。
「……円月花、きっとあるよね?」
それはゼノンが一番考えたくなかった言葉。
危険を冒し、捜索の果てに目的の植物が存在しない可能性。
「……ある筈、だ。文献もねぇ、噂も真実もねぇ、昔俺が名前も知らねぇ客人に唆されただけかもしれねぇし信憑性は低いが……色んな情報をこれでもかってほど斟酌したんだ。俺の推測が間違ってなければ円月花の生息地は、ヒンドス樹道しかありえねぇ」
円月花は幻の薬草として一部界隈の中で有名だ。というのも魔界に現存するお伽噺の一コマに書き記されているだけで、実物を見たという報告は何百年もの間一度もない。
植物とは元来土壌という基盤があり、水分、日光という栄養素を必要とする。しかしお伽噺に出てくる円月花はそのどれをも必要とせず、まるで雑草のように二輪の花を何もない坦々たる場所で咲き開いているのだ。
昔日の偉人、とある天才植物学者や、万人を救ったとされる調合師ですらその存在を「ありえない」とまで言い放ち断固否定している始末。
畏敬の象徴、一部の信者達からは神に匹敵すると言われていたほどの才を持つ者の言葉は辛辣でありながら多くの者を納得させた。こうして円月花の存在は魔界の人々から、主に医薬に携わる者達から『実在』の観念を取り払い『浪漫』へと移行したのだ。
しかし少年少女はその限りではなかった。
大人達の詭弁を押し付けられ最初はそうであったものの、過度な『浪漫』はいつしか『憧憬』へ。
高祖父母の更に高祖父母、その更に……先達が存在を架空だと断定し、積年発見すら至難を極めた植物を、彼等は純粋さ一筋で冀求した。
しかし周囲の大人達はそれを許さない。
『早く大人になれ』『現実を見ろ』『架空の植物を追い求めている時間があるのなら勉強しろ』
時間は有限とばかりに成長することだけを執拗に求める大人達は、彼等の気持ちなど一切汲まなかった。成長すれば嫌でも現実に直面しますよ、と大人達に諫言する者も現れる中、どこの誰とも知れない毎日訪れる来客の一人にゼノンは円月花が実在する可能性を問うた。
『円月花? あぁ、きっとあるさ。どれだけ人間が否定しようが世は不可思議に満ちている。自然は人々の想像を容易に超え、妄想はいつしか実現へ。追い求め続ければ、きっと報われる時が来る筈だよ』
大言壮語を説く人物からしてみれば子供達の夢を壊さないための優しい欺瞞だったのかもしれない。だが、口を開く度に「所詮お伽噺だよ」と斬り捨てられ続けていたゼノンとクゥラにとってはその言葉が何よりも嬉しかった。
希望の始まり。どれだけ馬鹿にされ一笑に付されようと、頭がおかしいのではと精密検査を受けさせられようと――異端児だと罵られようと。
彼等は夢を夢で終わらせる気は微塵もなかった。
大人達が呆れ返るほどの純粋さ。
純粋さが夢を追わせるのではない。夢を追い求め続ける者に純粋という行動力が宿るのだ。
(そういえばあの人も人族だったな……)
追憶に耽るゼノンは客人と同種族であるルカの顔が一瞬頭に過ぎり、人族の優しい部分を重ねるが見て見ぬ振りをした。そうすることしか、彼には出来なかった。
そんな雑念を浮かべては消し、浮かべては消し、歩き続けたゼノンはこれまでの樹海とは少々異なった僅かな光源がある場所へと辿り着いた。
「……お兄ちゃん、この先は魔物でいっぱいだよ……」
広大であるヒンドス樹道のどれだけの魔物が密集しているのだろうかというほどの大量の魔物に、クゥラは危惧から兄の外套をぎゅっと握り締める。
しかし反応のない兄の様子に小首を傾げ、再度呼名しようとするも。
「……あ、っ……た」
到底言葉とは言えない呟きがゼノンから零れ落ちた。
金色の髪の隙間からこれでもかと開かれる双眸は驚愕か、はたまた感動か。
魔物の密集地帯の隙間の先に見えるのは、まるで供物を捧げる円状の台座。円座の僅か一角に降り注ぐは、暫時見ることのなかった空からの一筋の月明かり。舞台の演者を照らす照明を彷彿とさせる月光が向く先は、浴びる光を凌駕するほどに周囲を神々しく照らす二輪の小花。
円月花。
お伽噺で見たまんまの姿に、しかしゼノンの口端は緩まなかった。
「やっ――」
――たねお兄ちゃん! と歓喜の声を続けようとしたクゥラの口を、厳しい剣幕とともに手で塞いだ。
(詰めが甘ぇって)
(……ご、ごめん……)
口パクで非難するゼノンは大人顔負けの冷静さで思考を巡らせていた。
誰よりも喜びたいのは彼だ。誰よりも諸手を上げ年齢相応に騒ぎ立てたいのは彼だ。
しかし目的は存在を拝みにきたわけではなく、採取なのだ。
順調に順調を重ねた彼等を待つのは地獄への入口とでも言うべきか、魔物の大集団。
気配を遮断し臭いを消しているとはいえ、うかうか好機を待ち続けていると魔物に気付かれるのも時間の問題だった。
「クゥラは見つからないように隠れてろ。俺がバレずに取ってくる」
「……む、無茶だよ……周りに魔物が……危な過ぎるよ……っ」
敢然と決行を決めるゼノンへ心配の目を向けるが、ゼノンは外套の上からクゥラの頭を少々乱暴に撫でる。キョトンとするクゥラに伴って、ゼノンの激発としていた心音が緩慢に落ち着きを見せていく。
「これくらい覚悟の上だ。正直……出掛ける前はビビり散らかしてた。けどクゥラ、お前も付いてくるって聞いた時凄く心強かったよ。何でかはわからねぇがクゥラがいると何でも出来る気がする。お前が俺に勇気をくれるんだ」
最後に優しく微笑むとゼノンはクゥラの返事を待たずにやる気と勇敢さを鼓舞させた。手早く鞄から必要とする試験管を腿のアイテムホルダー、腰のウエストポーチに次々と装填し鞄をクゥラに預ける。
ふぅ……と瞑目し一度気を整えると、首肯をクゥラへ預け「行ってくる」と背を向けた。
(……気をつけて……お兄ちゃんっ!)
魔物の視線と行動を警戒し、およそ三十メートル先の円月花を目指す。
ざっと見渡せば魔物の数は二十以上。捕捉されれば一巻の終わりだ。
木々の陰を縫うように短い距離を無法則に進む。時には横や背後から迫る魔物を樹木を障害物にして、くるりと身を隠す。
極東の国で例えるのならば『シノビ』といったところか。数多くの教養を積んだゼノンの身のこなしに、クゥラは薄い胸を抑えながら感心を抱く。
そんなクゥラの心境とは裏腹にゼノンには不可解な違和感が去来していた。
(あの黒い靄みてぇなやつはなんだ……? ヒンドス樹道に入ってから大方の魔物に見られる……取り越し苦労ならいいんだが、なんだか気味が悪ぃ)
ゼノンの違和感は実は正鵠を射ていた。
魔物の実物を見たことがなかったゼノンは知見として魔物の情報は頭に叩き込まれていたが、その情報と一致しないのだ。魔物は『敵』、つまり人間がいないとしばしば同士討ちを行う。
しかしヒンドス樹道に在する魔物達には、襲われない限りその傾向が見られないのだ。
まるで知識が与えられたかのように大人しく徘徊を続ける魔物に不気味さを抱くのは得てして当然だった。
同士討ちでも始まってくれれば、その眼を盗んでというのも策略の中には一案としてあったが起こらないものを期待していても仕方がない。ゼノンはゆっくり、確実に円座との距離を詰めていった。
(これ以上は……単身じゃ無理だな)
距離にして半分、約十五メートルを残し近距離を魔物がうろつく今にも危険な状況に、ゼノンは手だけで腰のウエストポーチを漁り一本の小瓶を取り出した。
魔物達の行動を見計らい時機を待つ。
そして――。
「っっ!」
ゼノンは円座の反対側に向けて小瓶を全力で投擲した。
弧を描き距離を稼いだ小瓶は三十メートルほどの跳躍を経て地面に着地し、パリィンっと小気味良い音を立てて砕け散った。
周囲の魔物の目が挙って音の鳴った方角へと向き、小瓶からは液体が漏れ出る。
続けて引き起こるのはパチパチパチッ! と花火のように光と音を伴う閃光。
魔物達が警戒しながら現場へと歩を進めていく中、ゼノンは台座と距離を少し詰め、更に後方へともう一本同等の小瓶を投擲した。
ナンダナンダと魔物達が群がり、台座周辺から離れていく光景にゼノンは幾度目かの接近を試みる。
しかし。
「っっっ!?」
魔物の気紛れか、それとも知能が備わったからなのか、着瓶し閃光を撒き散らす逆方向――ゼノンの方角を、幼気な少年の策を嘲笑うかの如く一体のミノタウロスの首がぐるんっ、と回顧した。
まるで意思に反して操られているかのような挙動にゼノンは間一髪反応を示す。
(あっぶ! この樹に隠れ――)
通常であればゼノンの迅速な危機察知、そして身のこなしから難を逃れられたことだろう。
しかしここは魔物の巣窟。多種多様な魔物が生息している。
これまで見つからなかったのは完全なる奇跡だと言うべきなのだろう。
最後の最後にゼノンは一体の魔物の知識が頭から抜け落ちていたことを悟る。
『オオオオオオオオオオオオオオ!!』
怪樹『トレント』。生態は擬態。
周囲に強化種が蔓延り息を潜めていた通常のトレント。黒い靄、赤眼といった特徴が見られないトレントを察しろという方が無理難題だっただろう。
「ちくしょうっ!! 陰キャめ!!」
ゼノンはかまびすしい雄叫びを発するトレントから方向転換し、悪態をつきながら一目散に駆け出す。
全ての魔物達の炯々とした赤眼が一斉にゼノンへと向き、暴虐者達の狩りの嘶きが虚空へと打ち上げられた。




