第5話 名前のない男
「次は?」
青年の静かな声が、夕暮れの通りに落ちた。
ほんの少し前まで威勢よくタローを囲んでいた二人の男は、完全に動きを止めている。
視線の先には、数メートル先で倒れている仲間。
大柄な成人男性を、青年は片手で投げ飛ばした。
それも、力んだ様子すらない。
「な、なんだよ……お前」
頬に傷のある男が一歩下がった。
「なんだ、と言われても困る」
青年は首を傾げた。
「お前たちが殴りかかってきたのだろう」
「くそっ!」
細身の男が腰へ手を伸ばす。
短剣が抜かれた。
「おい!」
タローが声を上げる。
「それはあかんやろ!」
「うるせぇ!」
男は青年へ飛びかかった。
「死ね!」
夕日に短剣が光る。
タローは思わず目を閉じそうになった。
しかし青年は動かない。
「危な――」
言い終えるより早かった。
青年の身体がわずかに沈んだ。
次の瞬間。
ドンッ!
「ぐっ!?」
何をしたのか、タローには分からなかった。
気づいた時には、短剣を持っていた男が地面に倒れていた。
「……え?」
青年は立っている。
男は倒れている。
それだけ。
「今、何したん?」
「腹を打った」
「いつ?」
「今だ」
「それは分かる」
タローには青年の拳が見えなかった。
残った一人も同じだったらしい。
「ば、化け物……」
青年を見る顔から血の気が引いている。
その言葉に。
青年の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……化け物、か」
初めて感情らしいものが見えた。
だが、それも一瞬だった。
「好きに呼べ」
青年が一歩進む。
「ひっ!」
男は仲間を置いたまま走り出した。
「お、おぼえてろ!」
「いや、仲間連れていったれよ!」
タローが思わず叫ぶ。
しかし男は振り返らない。
あっという間に路地の向こうへ消えていった。
「…………」
静かになった。
タローは青年を見る。
青年もタローを見る。
「…………」
「…………」
何とも言えない沈黙。
先に口を開いたのはタローだった。
「……強すぎひん?」
「そうか?」
「そうやろ!」
タローは倒れている男を指差した。
「人間飛んでたで!?」
「軽かった」
「いやいやいや!」
少なくともタローには、人間を片手で投げ飛ばすなど絶対に無理だ。
今日戦ったスライムにすら吹き飛ばされた。
「お前、職業なんなん?」
「職業?」
「戦士? 武闘家? なんかすごいやつやろ?」
青年は少し考えた。
「分からん」
「……分からん?」
「ああ」
「自分の職業やで?」
「見ればいい」
青年が何かを操作する。
目の前にステータスが現れた。
タローからは詳しい内容までは見えない。
青年はそれを眺めて、
「戦士らしい」
「普通やん!」
「そうなのか?」
「たぶん!」
この世界へ来てまだ一日も経っていないので、断言はできない。
だが少なくとも《生物》よりはまともだ。
「レベルは?」
「一」
「…………」
タローは固まった。
「もう一回」
「レベル一」
「嘘やろ?」
「嘘をつく理由がない」
「レベル一で人間投げ飛ばしたん!?」
「ああ」
「おかしいやろ!」
「そう言われても困る」
青年は本当に困った顔をした。
タローは頭を抱えた。
異世界とは恐ろしい。
もしかしたら、この世界ではこれくらい普通なのだろうか。
「いや……」
門の兵士を思い出す。
あの兵士たちが全員こんな化け物には見えなかった。
「やっぱこいつがおかしいんやろな……」
「何か言ったか?」
「なんもない」
その時。
「う……」
地面に倒れていた大柄な男が動いた。
タローが身構える。
「まだやる気か?」
「ま、待て!」
男は慌てて両手を上げた。
「もうやらねぇ!」
「じゃあ帰れ」
「わ、分かった!」
もう一人を起こし、二人で逃げていく。
今度こそ通りにはタローと青年だけが残った。
「助かったわ」
タローは頭を下げた。
「ありがとう」
「別に構わん」
「いや、ほんまに助かった。俺、今日スライムにも負けてるから、あいつら三人とか絶対無理やった」
「スライム?」
「うん」
「負けたのか?」
「…………」
青年がじっとタローを見る。
「そんな真っ直ぐな目で見んといて」
「スライムは弱いぞ」
「知ってるわ!」
やはりスライムは弱いらしい。
つまり弱いのは自分だ。
「今日だけで何回現実突きつけられんねん……」
タローは肩を落とした。
すると。
ぐぅぅぅ。
「…………」
腹が鳴った。
青年がタローの腹を見る。
「腹が減っているのか?」
「朝から何も食ってへん」
「朝?」
青年が首を傾げる。
「正確にはこの世界に来てから何も食ってへん」
「この世界に来てから?」
「あ」
タローは口を閉じた。
「いや、なんでもない」
「そうか」
「聞かへんの?」
「言いたくないのだろう?」
「……まあ」
「なら聞かん」
「ほんま素直やな、お前」
「よく分からん」
青年はそう言うと、歩き始めた。
「あ、ちょっと待って」
「なんだ?」
「どこ行くん?」
「飯を食う」
飯。
その言葉にタローの腹が再び反応する。
ぐぅぅぅ。
「…………」
「…………」
「そんな見るなって」
「一緒に来るか?」
「え?」
「腹が減っているのだろう」
「でも俺、金ないで」
「俺はある」
タローは目を見開いた。
「奢ってくれるん?」
「助けたついでだ」
「めっちゃええ奴やん!」
タローは迷うことなく青年についていった。
◇
「うっま!」
数十分後。
タローは食堂で肉にかぶりついていた。
「何これ! めっちゃうまいやん!」
「普通の焼き肉だ」
「腹減ってたから何でもうまい!」
テーブルには大きな肉料理とパン。
それに野菜の入ったスープが並んでいる。
異世界最初の食事。
見た目は素朴だが、今のタローには高級料理よりありがたい。
「生き返るわぁ……」
「大袈裟だな」
「お前には分からん。今日めちゃくちゃ大変やってんぞ」
「そうなのか」
「聞く?」
「ああ」
「まず変な神様に会って――」
言いかけて止まる。
まだ異世界転移について話すのは早い。
出会ったばかりだ。
「……やっぱ今のなし」
「分かった」
「ほんま何も聞かへんな」
「聞いてほしいのか?」
「いや、別に」
「ならいい」
「…………」
タローは肉を食べながら青年を観察した。
変な男だ。
口数は少ない。
愛想もない。
だが嫌な感じはしない。
むしろ妙に話しやすい。
「そういや」
タローはパンをちぎりながら言った。
「まだ名前聞いてなかったな」
青年の手が止まった。
「名前?」
「そう。俺はタロー」
「…………」
「お前は?」
青年が黙った。
「どうした?」
「分からん」
「…………何が?」
「名前が」
「え?」
「自分の名前を思い出せない」
タローはパンを持ったまま固まった。
「記憶喪失?」
「おそらく」
「おそらくって……」
「すべて忘れているわけではない」
青年は自分の手を見る。
「言葉は分かる。金の使い方も、この国のこともある程度覚えている。戦い方も身体が覚えている」
「でも名前は?」
「分からん」
「家族は?」
「…………」
青年の表情が曇った。
「分からない」
「どこで生まれた?」
「それも曖昧だ」
「いつから?」
「最近だ」
「最近?」
「ああ。気づいた時には、自分に関する記憶の一部が抜け落ちていた」
タローは少し真面目な顔になった。
「それ、大丈夫なん?」
「生きるのに支障はない」
「いや、あるやろ」
「飯は食える」
「そういう問題ちゃうねん」
青年は不思議そうな顔をした。
本当に変な男だ。
「医者とか行った?」
「金がもったいない」
「そこケチるところちゃうやろ」
「放っておけば、そのうち思い出すかもしれん」
「楽観的やなぁ」
「お前に言われたくない」
「俺のことまだ何も知らんやろ」
「なんとなく分かる」
「なんやそれ」
タローは笑った。
そして、ふと思う。
「名前ないと不便ちゃう?」
「別に」
「人に呼ばれる時どうすんの?」
「おい、とか、お前、とか」
「嫌やろ」
「気にしたことがない」
「俺が気になる」
「なぜ?」
「なんか嫌やん」
青年は黙った。
タローは腕を組む。
「名前なぁ……」
考える。
何かないだろうか。
異世界風の格好いい名前。
しかしタローに、そんな引き出しはない。
「…………」
ふと、元の世界の記憶が浮かんだ。
保険営業をしていた頃。
同業他社として何度も耳にした、ある保険会社の名前。
「確か……ソニー○命やったっけ」
タローは少し考える。
「ソニー……ソニ……」
目の前の青年を見る。
「……ソニル」
「何?」
「ソニル」
「それはなんだ?」
「お前の名前」
「…………」
青年が目を細めた。
「今決めたのか?」
「うん」
「適当ではないのか?」
「失礼な。ちゃんと元ネタはある」
「どういう意味だ?」
「俺が前いたところの保険会社から、ちょっとだけ拝借した」
「……保険会社?」
「説明すると長くなるから、それはまた今度」
「そうか」
青年は少し考える。
「ソニル……」
自分で呟いてみる。
「嫌?」
「いや」
「じゃあ決まりやな」
「そんな簡単に決めていいのか?」
「思い出すまでの仮名や。嫌になったら変えたらええ」
「…………」
「どう?」
青年はしばらく黙っていた。
そして。
「悪くない」
「やろ?」
タローは笑った。
「じゃあ今日からソニルな」
「分かった」
「よろしく、ソニル」
「ああ」
「俺はタロー」
「それは聞いた」
「一応もう一回」
「そうか」
タローは手を差し出した。
ソニルはその手を見る。
「何だ?」
「握手」
「握手?」
「知らん?」
「いや、知っている」
ソニルも手を出した。
二人の手が重なる。
「よろしく」
「ああ」
ただ、それだけだった。
タローにとっては。
異世界で初めてできた知り合い。
自分を助け、飯まで奢ってくれた少し変わった男。
それだけのはずだった。
だが――。
その瞬間。
遠く離れた、白い空間。
「…………ん?」
一人の老人が顔を上げた。
タローを異世界へ送った神だった。
目の前には、タローの様子を映す小さな光景が浮かんでいる。
「もう誰かと仲良くなったのか」
神は髭を撫でた。
「早いねぇ」
少しだけ笑う。
「まあ、偶然だろう」
神はまだ気づいていなかった。
自分がタローへ与えた、ある隠された力が。
すでに動き始めていることに。
そして。
タローが出会った青年の魂に眠るものが、どれほど規格外なのかも。
◇
「ところでソニル」
「なんだ?」
「今日どこ泊まるん?」
「決めていない」
「俺も」
「そうか」
「…………」
「…………」
タローは少し考えた。
「一緒に宿探さん?」
「構わん」
「じゃあ行こうや」
「ああ」
二人は食事を終えて店を出た。
偶然出会った、何の力も持たない男と。
自分の名前すら思い出せない、異常な力を持つ男。
この時。
二人はまだ知らない。
この出会いがやがて、一つの国の運命を変える最初の一歩になることを。




