第27話 戻ってきたもの
ソニルの中で、これまで途切れ途切れだった記憶が一気に繋がった。
戦場で響く怒号。無数の敵兵。馬上から見下ろした軍勢。武器を振るい、何度も敵陣へ飛び込み、数え切れないほどの戦いを潜り抜けてきた記憶。
そして、自分自身の名。
「……呂布」
その名を口にした瞬間、それまで曖昧だった感覚が完全な記憶へ変わった。
自分が何者だったのか。どれほど多くの戦場を経験してきたのか。どんな相手と戦い、どのように武器を扱っていたのか。
そのすべてが戻ってくる。
「そうか……俺は、呂布。字は奉先」
ソニルは自分の手を見つめた。
今まで武器を握るたびに感じていた違和感。初めて扱うはずなのに身体が使い方を知っていた理由。強敵と戦うほど、なぜか胸が高鳴った理由。
すべてに答えが出た。
これまでのソニルも、すでに十分すぎるほど強かった。筋力も耐久も敏捷も規格外で、さらに闘気まで使える。
だが、それだけだった。
圧倒的な身体能力はあっても、それを最大限に使いこなすだけの経験が欠けていた。
今は違う。
今世で得た規格外の身体能力に、前世で積み重ねた膨大な戦闘経験が重なっている。
ソニルはゆっくりと長柄武器を構え直した。
その瞬間、周囲にいたネオセカンド兵たちが理由も分からないまま一歩下がる。
「なんだ……?」
「さっきまでと雰囲気が違うぞ」
「気をつけろ!」
兵士たちには、何が起きたのか分からない。
ただ一つだけ、目の前の男が先ほどまでとは別人のように見えていた。
「来ないのか?」
ソニルが静かに尋ねた。
「何?」
「さっきまで、あれだけ俺を囲んでいたんだろう。なら来い」
長柄武器の穂先を敵軍へ向ける。
誰も動かない。
「来ないなら、俺から行く」
ソニルが一歩踏み出した瞬間、周囲の兵士たちは一斉に武器を構えた。
◇
同じ頃。
アフラの中でも、失われていた記憶が完全に繋がっていた。
なぜ自分が兵を動かすことに抵抗を感じなかったのか。地図を見るだけで地形の使い方が浮かび、敵軍の狙いを読めた理由。
そして、千人を超える兵士から指示を求められた時、なぜあの状況を「懐かしい」と感じたのか。
そのすべてに答えが出た。
「諸葛亮……字は孔明」
自分の名を思い出した瞬間、頭の中にあった霧が一気に晴れていく。
前世で経験した数々の戦。軍を動かし、人を動かし、国を支え、敵の一手先を読み続けた日々。
それらが今のアフラの記憶と重なった。
アフラは一度目を閉じ、ゆっくりと開いた。
すると、先ほどまで見ていた戦場がまるで別物のように見える。
敵軍の総数。味方の残存兵力。騎兵、歩兵、弓兵の位置。それぞれの疲労と士気。退路。兵站。
すべての情報が頭の中で整理され、次に何をするべきかが自然に浮かんでくる。
「アフラ殿!」
兵士が駆け寄ってきた。
「敵中央が立て直し始めています!」
「分かっている。弓兵の残りは?」
「およそ百二十です!」
「矢は?」
「残り三射ほどです!」
「十分だ」
アフラは敵軍を見た。
「左翼はかなり消耗しているな?」
「はい!」
「なら下げろ」
「下げるのですか?」
「ああ。ただし逃げるように見せろ」
兵士が戸惑ったような顔をする。
「また敵を誘うのですか?」
「今度は違う。敵はさっきの失敗で警戒している。同じ策には乗らない」
「では、左翼を下げる意味は?」
「敵に『罠だ』と思わせるためだ」
「……どういうことです?」
「左翼を下げれば、敵は追撃すればまた誘い込まれると考える。だから動きが鈍る。その間にこちらは兵を動かせる」
アフラは地図上の左翼を指差した。
「左翼の兵を中央後方へ回せ。ただし旗だけは残しておけ」
「旗を?」
「遠目には部隊がまだ残っているように見せる」
兵士が目を見開いた。
「すぐに!」
「はっ!」
命令が飛ぶ。
アフラは再び戦場を見る。
少し前までは、一つ一つ考えながら判断していた。
だが今は違う。
敵がどう動くか。その次に何をするか。さらにその後にどう対応するか。
いくつもの可能性が同時に頭へ浮かび、その中から最も勝ち目のある道を選べる。
「なるほどな……」
アフラは小さく呟いた。
今までの自分は、知識や感覚の一部だけが残り、経験そのものが抜け落ちていた。
今は、その欠けていた部分まで戻っている。
◇
「うおおおおっ!」
前線では、ネオセカンド兵たちがソニルへ殺到していた。
「囲め!」
「一人だ! 数で押し潰せ!」
数十人の兵士が、ソニルを中心に一斉に襲いかかる。
遠くから見ていたタローが叫んだ。
「ソニル!」
しかし次の瞬間、タローの目にはソニルの姿が消えたように見えた。
「……え?」
実際には消えたわけではない。
速すぎただけだった。
最初の兵士の武器を弾き、そのまま横の兵士へ長柄武器を振るう。
一人を倒し、その勢いを止めずに二人目へ。
さらに背後から迫った敵には、身体をほとんど振り向かせることなく石突を叩き込む。
攻撃、防御、回避。
すべての動きが途切れることなく繋がっていた。
「なんや、あれ……」
タローは口を開けたまま動けない。
ソニルはもともと強かった。
だが今は、単純に身体能力が高いというだけではない。
敵が動く前に次の位置へ移動し、攻撃が来る場所を先に潰しているようにすら見える。
「前と全然ちゃうやん……」
タローの呟きが漏れた。
「槍隊、前へ!」
敵兵の一人が叫ぶ。
十数本の槍が一斉にソニルへ向けられた。
普通なら距離を取るしかない。
だがソニルは逆に前へ出た。
「え? そっち行くん!?」
タローが思わず叫ぶ。
ソニルは長柄武器を大きく振るい、最前列の槍をまとめて弾いた。
生まれたわずかな隙間へ一気に踏み込む。
槍という武器は長い間合いを持つ一方、その内側へ入られると扱いにくい。
ソニルはそれを知識として考えたのではない。
前世から身体で知っていた。
「遅い」
長柄武器が横薙ぎに走る。
「ぐあああっ!」
槍兵たちが次々と地面へ倒れていく。
「化け物だ……」
一人のネオセカンド兵が呟いた。
その言葉を聞いたソニルは、わずかに笑った。
「前にも似たようなことを言われた気がする」
「……?」
兵士には、その言葉の意味が分からなかった。
◇
後方では、タローも休む暇なく走り回っていた。
「タロー殿!」
「今度は何!?」
「治療班の人手が足りません!」
「動ける軽傷者は?」
「何人かいます!」
「じゃあその人らに手伝ってもらって!」
「はっ!」
「あと水は?」
「残り少ないです!」
「近くに川あるやろ?」
「ありますが、戦場に近いです!」
「護衛つけて汲みに行って! 無理そうならすぐ戻る!」
「分かりました!」
タローは戦況がどうなっているのか、ほとんど把握できていなかった。
それでも、さっきまで崩れかけていた後方の兵士たちは少しずつ落ち着きを取り戻している。
「タロー!」
「ん?」
遠くからアフラの声が飛んできた。
「後方の兵、何人動かせる?」
「戦える人?」
「ああ!」
「ちょっと待って!」
タローは周囲を見回した。
「百五十……いや、二百くらいはいける!」
「なら百五十を俺のところへ!」
「分かった!」
タローがすぐに周囲の兵士へ声を飛ばす。
「アフラが百五十人欲しいって!」
「どこへ?」
「向こう!」
「理由は?」
「知らん!」
「知らない!?」
「でもアフラが言うなら、なんかある!」
兵士たちは一瞬顔を見合わせた。
それでも。
「行くぞ!」
「ああ!」
すぐに動き始める。
「……俺、だいぶ雑な説明やったけど」
タローは自分でも少し驚いた。
兵士たちはアフラを信用している。
そして今では、タローから伝えられた言葉にも素直に従うようになっていた。
「ほんまに俺ら、何でも屋なんかな……」
◇
アフラのもとへ百五十人の兵が到着した。
「来ました!」
「よし。全員、森側へ回せ」
「敵がいるのでは?」
「いない」
「なぜ分かるのです?」
「敵は騎兵を左右へ集中させ、さらに中央へ歩兵を寄せている。今の配置では森側へ兵を回す余裕がない」
兵士は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。
「分かりました!」
「弓兵!」
「はい!」
「残りの矢を二射に分けろ」
「三射できると聞いていますが?」
「二射でいい。一射目は敵中央より少し後ろへ落とせ」
「兵を直接狙わないのですか?」
「狙う。ただし、倒すためじゃない」
アフラの目が鋭くなる。
「前へ押し出すためだ」
兵士は意味を理解できずにいたが、それでも命令に従った。
少ししてアフラが右手を上げる。
「第一射、放て!」
矢が飛ぶ。
狙ったのは敵中央の後方だった。
「矢だ!」
「前へ出ろ!」
「避けろ!」
後ろにいたネオセカンド兵たちが、矢を避けようとして自然と前へ押し出される。
その結果、中央の隊列が一気に詰まった。
「今だ。第二射!」
「放て!」
今度は密集した中央へ矢が降り注ぐ。
「ぐあっ!」
「下がれ!」
「後ろへ行けない!」
混乱が広がる。
「森側の百五十を出せ!」
隠れていたスギルヨワ兵が敵の側面へ襲いかかった。
「敵だ!」
「側面から来たぞ!」
ネオセカンド軍中央が崩れ始める。
近くにいた兵士たちは、信じられないものを見るようにアフラを見ていた。
「すごい……」
「何手先まで読んでいるんだ?」
アフラはその言葉に答えなかった。
何手先。
それだけではない。
敵がどう退くのか。そのあと、どの部隊がどう動くのか。
そして、この戦いそのものをどう終わらせるのか。
そこまで少しずつ見え始めていた。
◇
ネオセカンド軍側では、報告が次々と指揮官のもとへ届いていた。
「中央が崩れています!」
「騎兵も止められています!」
「バルガス将軍は討たれました!」
指揮官の男は信じられないものを見るような顔で戦場を見つめていた。
「どうなっている……」
兵力では圧倒的に勝っている。
五千対千五百。
本来なら押し潰せるはずだった。
「中央を立て直せ!」
「無理です!」
「なぜだ!」
「敵がこちらの動きを先回りしています!」
「そんな馬鹿な!」
さらに別の兵士が走ってくる。
「前線でソニルという男が暴れています!」
「何人で相手をしている!」
「一人です!」
「一人に何を手間取っている!」
「止められません!」
指揮官は歯を食いしばった。
「精鋭をすべてぶつけろ」
「ですが――」
「一人だぞ。何百人いようと関係ない!」
「はっ!」
その命令によって、ソニルのもとへさらに多くの敵兵が集まっていく。
◇
「また来たか」
ソニルが前方を見る。
数十人の敵兵。
その後ろにも、まだ兵が続いている。
以前なら、これだけの敵を一人で相手にすること自体が無茶だった。
だが今のソニルには、別の感覚があった。
「懐かしいな」
初めて、はっきりとそう口にする。
「何がだ!」
敵兵が叫ぶ。
「こういう戦いだ。俺一人を相手にするために、大勢が集まってくる」
ソニルは長柄武器を静かに構えた。
「昔から、こういうことが多かったらしい」
「何を言って――」
次の瞬間、ソニルが地面を蹴った。
「どこだ!」
「前だ!」
敵軍の中へ単身で飛び込んでいく。
「止めろ!」
しかし止まらない。
闘気が全身を包んだ。
さらに記憶を取り戻したことで、その使い方まで変わっている。
今までは身体全体へ闘気を纏い、単純に能力を高めていただけだった。
今は違う。
足へ集中させれば瞬間的な加速ができる。腕へ集中させれば一撃の威力をさらに高められる。身体全体へ薄く纏えば、最低限の消耗で防御にも使える。
ソニル自身が少しだけ笑った。
「なるほど。今まで俺は、闘気を使えていただけだったのか」
使いこなしてはいなかった。
「こうやるんだな」
地面を強く蹴る。
ソニルの足元が大きく沈んだ。
「なっ――」
一撃で敵兵が吹き飛ぶ。
その勢いを止めず、次の敵へ。
さらにその次へ。
人の群れの中を、一人で進んでいく。
◇
遠くから、タローはその姿を見ていた。
「なんやあれ……」
さっきまでのソニルとは明らかに違う。
そして、アフラも変わっている。
少し前までは、ただ頭のいい男だと思っていた。
だが今では千人以上の兵士が、アフラの命令で動いている。
タローは二人を交互に見た。
「ほんまに何者やねん、あいつら」
まだタローは知らない。
二人が思い出した本当の名前を。
ソニルが、呂布奉先。
アフラが、諸葛亮孔明。
その事実を。
しかし、二人の変化を最も近くで見てきたタローだからこそ、何かが起きたことだけははっきりと分かっていた。
◇
戦場の中央。
アフラは敵軍の動きを最後まで見つめていた。
中央は崩れ始め、騎兵も動きを止められている。
敵軍全体に少しずつ動揺が広がっている。
「そろそろだな」
「何がです?」
近くの兵士が尋ねる。
アフラは地図の上で、ネオセカンド軍の退路へ指を置いた。
「この戦いを終わらせる」




